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読書録#5 『「ふつうの暮らし」を美学する:家から考える「日常美学」入門』/ tarobooks

青田麻未. 2024. 『「ふつうの暮らし」を美学する:家から考える「日常美学」入門』. 光文社.

私の今年の自由研究テーマはざっくり、「編み物の流行からみるライフスタイル考現学」だ。ニュースでも取り上げられるくらいに編み物の流行が顕在化してきているが、私はこれを単なる流行ではなく、基層のライフスタイル観やコミュニケーション観、美的感覚の潮流が変化している表れのひとつとして捉えている(そうなんじゃないかと直感している)。今週は、そんな日常における美的感覚を主題にした青田麻未さんの『「ふつうの暮らし」を美学する:家から考える「日常美学」入門』を再読した。本書は昨年の6月に発売され、以降「日常美学」は昨年大きく議論になったキーワードのひとつだ。

「日常」美学?

「日常」と「美学」という言葉が並立されることに違和感を感じるかもしれない。わたしたちの「美学」認識は潜在的に、美術館やコンサートホールで体験されるような類の、ある芸術作品を鑑賞する際の感性的感覚をさしていることが多い。これは伝統的な美学が対象とする事物を「美の無関心性」で、対象とする感覚を「感覚の優劣区別」で限定することで発展してきたからだ。

イマヌエル・カントは、対象とする事物や出来事を、何らか役に立つか・合目的的かという評価から離れて鑑賞し楽しむことが美を感じるための条件と考えた。これを「美の無関心性」と表現する。日常的で出会う事物や出来事はその目的や用途から切り離して考えるのが難しい。対して芸術作品は目的や用途といったことから無関心でいられるため、純粋に美を感じられるだろう。そうしたことから美学は、芸術作品を鑑賞した際の感性的感覚を指すようになった。

さらに、西洋の哲学の伝統として、五感は「高級感覚=視覚、聴覚」と「低級感覚=触覚、味覚、嗅覚」に分けて考えられてきた。身体と精神を分け、主体と客体を分ける西洋的世界観においては、身体から距離のあるものを知覚できる視覚や聴覚の感覚のほうが、身体で直接接触する必要のある触覚や味覚、嗅覚よりも質的に優れているとされたからだ。したがって、伝統的な美学の対象とする範囲は眼や耳で鑑賞されるものの範囲に留まり、たとえば料理のようなものは美学の対象にはならなかった。

こうして美学は、芸術作品の鑑賞における感性的感覚を分析・探求するものとして発展してきた歴史がある。しかし、美学の原義に立ち返れば、その原義が指していた「美学」はひろく物事や出来事に出会う際の感性の働きを指すことばであることがわかる。青田は次のように説明する。

このことば(aesthetics)はその原義に立ち返ると、「感性の学」を意味します。すなわち、なにかの物事や出来事に出会うとき、私たちの感性はどのようにはたらいているのかを明らかにするのが美学の目的だということになります。 / 感性とは、ある対象や出来事を、感覚を用いて知覚しながら、想像力や知識などさまざまな要素を関わらせて、幾重にも楽しんでいく力のことです。

p.17-19

成立にいたる2つの動き

「日常美学」も、こうしたラディカルな美学の捉え方のなかで、成立された分野である。その成立の背景には、大きく2つの動きがある。

ひとつは、美学の対象と見做されていた芸術の側の変化である。鑑賞の場が日常の時空間に染み出してきたり、鑑賞が身体を伴った体験に変化したりするなかで、伝統的な美学=芸術定義に収まらない芸術があらわれだした。すると、従来の芸術と日常の峻別が機能しなくなり、日常の中にも美学的な側面が潜んでいることに人びとが気づき出した。

もうひとつは、1970年代から発展してきた「環境美学」の存在だ。美学が対象としてきた芸術作品は人工的に生産されたものであることに対して、自然の美的鑑賞のありかたを議論する立場である。この分野の発展につれて「自然と人工」の区別が融解し、やがて日常生活も議論の対象となってきた。

こうした美学の対象とする事物の発展と美学自体の議論の発展双方の影響により、日常美学という概念がうまれた。日常美学のなかにはさまざまな言説や立場があるが、共通しているのは日常生活を「世界制作」として捉えるスタンスである。日常生活を考察の対象とする日常美学では、従来の美学にあった鑑賞者-鑑賞対象物という主客分離の構造は成立しない。日常とは、自らが参与し、構築し、維持し、見直し修正していく営みであるわけで、その意味でわたしたちは、日常(という芸術)の鑑賞者であり、制作者であり、構成要素のひとつでもあるわけだ。

「日常美学に共通する理論上のスタンスとして、「世界制作への参加」という側面を捉えようとすることが挙げられると思われます。 / 日常生活はそもそも事の始まりから、ずっと私たち自身が紡ぎ出していくものであるという点で、芸術(的なもの)とやはり一線を画していると言えるでしょう。この点について、日常美学の先駆者の一人であるサイトウは、「世界制作」ということばによって鮮やかに描き出しています。世界制作とは文字通り、世界をつくる、ということを意味します。サイトウによっれば、私たちは一人一人、みなが世界の制作者なのです。 / サイトウは、地道な毎日のなかでの私たちの感性のはたらきが、意外にも、世界のありかたを決めていると考えるのです。」p.38-40

〈なんとかやっていく〉技芸

私の自由研究と日常美学との接続点を考える上で、椅子を事例として日常的に成立する美を考察している第1章がとても参考になった。

椅子のような家具は、座るという特定の機能を与えられている。ショウルームに展示されているときの椅子は、座られるものとしての役割をもって、展示されている。しかし、購入後ひとたび家の中に置かれると、ほかの家具や私たちとの関係性のなかでさまざまな役割を果たしうる。たとえば洗濯物カゴの置き場として、あるときには電球を変える足場として、行き場を失った本を保管しておく棚として・・・。こうして私たちは、トップダウン的に与えられた機能の範囲を超えて日常をつくりあげていく、世界制作していくわけである。

青田はここで、ミシェル・ド・セルトーの『日常的実践のポイエティーク』を引く。セルトーは、システムや環境、サプライヤーなど権力側から与えられる計画や機能を「戦略」と呼び、その目を掻い潜り、事物を組み合わせて個々人に最適な方法に仕立てあげることを「戦術」と表現している。「戦術」をつくりあげた結果、「戦略」から逸脱することもある。

日常美学に寄せてセルトーを理解すると、次のようになる。つまり、椅子の機能美は、まずその椅子を使う私たちの身体的感覚によって体験される。しかしそれは「戦略」として与えられた機能的美しさであり、ひとたび家の中に置かれたとたん他の家具との位置関係や日常を過ごすなかでのニーズにしたがって「戦術」としての機能美も発生してくる。青田は次のように説明する。

実際に椅子に座ってみたり、家のなかのほかのモノとの関係性のなかで適していると思う位置に椅子を配置したりして、しっくりいったときの感覚。すべてが思い通りになるわけではない状況のなかで、当意即妙にモノを組み合わせていくことに伴う創造性と面白さ — 椅子がネットワークのなかでうまく機能するとき、私たち自身がその椅子を用いて家をつくり上げていく経験のなかで、「この家のなかでこそ発揮されるこの椅子の機能美」を感受することができるのです。

p.93

この創意工夫のなかに、世界制作としての日常美学がある。個人のレイヤーでは、システムから要請される機能や意図に嫌厭感、違和感、不和があったとしても、それを完全に避けることはできない。そのため、戦術のレイヤーで各々創意工夫して、自分のなかでなんとか矛盾を調停しようと試行錯誤する。その営為を描き出していくことが、世界制作としての日常と理解できる。

このような私たちの生活は、小さくて密やかだけれども、工夫に満ちた世界を制作することであるとも言えます。 / 本来の機能から逃れていくことは、制約のあるなかで「なんとかやっていく」私たちに、時に求められることでもあるでしょう。「なんでもあり」を避けつつ、「なんとかやっていく」私たちの姿を描き出すこと — これが日常美学に求められる課題です。

p.94

こうしていま、日常生活における戦略と戦術という概念装置が手に入った。システムの提供する機能・意図(=戦略)と、その機能や意図から逸脱して生み出されるもの(=戦術)。ときに戦術は戦略にとってバグに映るかもしれないが、事物に一意的に与えられた機能や意図が多義的な展開をみせるのは、おそらく豊かさにつながるだろう(たとえばアレグザンダーの『都市はツリーではない』を補助線にすれば、機能の多義性が豊かさに接続するといえるかもしれない)。

私の今年の自由研究「編み物の流行からみるライフスタイルの考現学」は、いま若年層のあいだで流行っている編み物の背後にある、ライフスタイルやコミュニケーションに関する潜在的な感覚や意識を読み解こうとする試みだ。『編み物をする』という行為がなにかの「戦略」に対する「戦術」のあらわれのひとつだとすると、何の「戦略」に対する違和感や不和なのか。このあたりを、解明していきたい。

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