優しくて凶暴な人類学者との対話
研究に戻るか、それとも、このままIT企業で働き続けるか。
一時期、このような迷いに私はとらわれていた。
2006年頃の話である。
ふらふらと、古巣の研究室を訪れた私は、そこに赴任してきたばかりの人類学者に遭遇した。
その、優しくて凶暴な人類学者は次のように述べた。
「先行研究を読んで知識なり理論なりを頭に入れる。うん。どんどん入れたらいい。そこから得られるものは大きい。だが、それが、フィールドで出合う面白いものをないがしろにしてしまうのなら、そんな知識なり理論はないほうがましだ。」
「…面白いものって、クリエイティブなものという意味ですか? もしもそうであるなら、自分がフィールドで出合ったものがクリエイティブかどうかを判断するためにこそ、先行研究をおさえておく必要があると思います。過去にどのような研究があったのかを把握せずに、自分がフィールドで見つけた現象や、そこから引き出した解釈や理論がクリエイティブかどうかを判断することはできないはずです。」
「そうやって、人類学という学問に寄与しようと考えるのが間違ってんだよ。先行研究を読むことは否定しないよ。でも、そうやって得た知識が、フィールドで自分自身がのめりこんでしまった面白い現象から目をそらさせる力として働くならば、先行研究の読み込みなどむしろ邪魔だ。知識などいらない。フィールドで楽しむ。どっぷり浸りきる。これをないがしろにするような研究方針はくそくらえだ。」
「…人類学という学問に寄与しならいならば、その研究に一体何の価値があるというんですか? むしろ、「自分の研究が何の役に立たないこと」をウリにしろとでも? 「開き直れ」とでも言うつもりなんですか? そんな態度だと、助成金はもらえないし、研究者としてのポストにもありつけないですよ。もちろん、仰りたいことはよく分かりますよ。ただ、あなたの主張は非現実的です。人類学という業界で受けるような、研究助成金が降りてくるような研究を意図的に戦略的に行うこと、すなわち金を稼ぐことを視野に入れて研究すること。このことの一体どこが悪いのですか?」
「役に立つ人類学ってやつか? ふざけんな。今の人類学の学生は昔と明らかに違うな。俺たちが調査していた頃はな、「現地の人の役に立つ」とか「先行研究でまだ言われていないことを書く」とか「人類学という学問に寄与する」とか言ってフィールドワークしているやつはいなかったぜ。みな、「異なる「世界の見え方」を知りたい。とにかく驚きたい。現地の人から学びたい。」という動機で、海外に飛び出していったぜ。バイトして金ためてな。最近じゃ、「助成金が降りないからフィールドに行けません」って言う奴いるけれど、馬鹿か?と思う。バイトすれば海外に行けるだけの金はすぐにたまるだろ。バイトして調査へ行けよ。結局、こういうやつらの考えていることは、助成金をもらうことで箔を付けたいってことだろ。ふざけるなよ。人類学をなんだと思ってんだ。人類学が制度化されて、無味乾燥な論文ばかりが大量生産されて、世間に対しては「人類学は役に立ちます。発展途上国の人々の生活を向上させることに寄与します。」なんて自己宣伝しだしたらキモイよ。人類学は、自分のためにやるんだろ。あるいは権威を笑うためにあるんだろ。人類学自体が権威化したらおしまいだぜ。研究は人類学という制度のためにやるんじゃないでしょ?」
「…仰りたいことはよく分かります。しかし、無茶だと思います。自分が好きなことばかりに没頭して、学会や人類学の研究動向を無視したら、どうやって飯食っていくんですか? 大学のポストにありつければ何をしてもいいとは言いません。しかし、それも大事でしょう?」
「就職? 学会? 別に就職しなくても今の日本じゃ死なないぜ。不況だ。就職難だ。非正規社員が増加しているだとか世間はうるさいが、こんな恵まれた国は他とくらべたらそうないよ。学会などは無視すりゃいいんだよ。学会がどうしたってんだ。あんなに食い物食べ残しやがって。明日の飯も食えない人々が生きる場所で調査してきたくせに、日本に帰ってきて何やってんだ。学会参加費とか懇親会費とか、たけーんだよ!懇親会なんて1000円ぐらいで持ち寄りでやればいーじゃねーか。要するに権威化したいんだろ? 「自分の大学はこんなにちゃんと学会を運営しましたよ」ってアピールだろう? キモイよ。学会など無視。バイトして金ためてフィールドに行けばいいんだ。もっといえば、別に大学や院に入らなくても、人類学はできるぜ。俺がそうだったし。ちなみに俺が定職に初めてついたのは、50すぎてからだ。それまで在野で研究してた。金がなくなったらてバイトして金ためて、金がたまったら調査行ったり、本買ったりしていた。」
「…分かります。言っていることはかなり。しかし、なぜあなたはそこまで人類学にのめりこめるんですか? 将来に対する不安、「自分は大学で研究職に就けないんじゃないか?」っていう不安はなかったんですか?」
「なかった。」
「………………。」
その、優しくて凶暴な人類学者は、「不安などなかった」と言い切った。
私は疑問に思った。
どうすれば、こんなにも自立した個人になれるのだろうか? うらやましい。
私は、この優しくて凶暴な人類学者にかなり興味を持った。圧倒されたわけではないが、非常に魅了されてしまったと思う。なんか、どこかの宗教の教祖のような危うい側面も感じるが、この人の言っていることは、面白い。
人類学者はいわゆる異文化に飛び込み、そこで他者の研究をするが、私は、目の前にいる人類学者自体を研究してみたいという衝動にかられた。彼にとって世界はどのように見えるのだろうか?
仮にこれが明らかになったとしよう。それでは、どうしてそのような仕方で彼は世界を見ることができるようになったのだろうか?
非常に気になった。
最後に、優しくて凶暴な人類学者は、次のように述べた。
「人類学に戻るとか戻らないとかではなく、面白いと思えるものに戻ればいい。」