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人間らしい人間だ

物事には二面性ってのがある。否、二面どころかそれ以上だと思う。これは〇〇。って言い切れるとかどこからそんな自信来るんだよ。もちろん、めっちゃ細かく見たときに限るこの面においてとかの括弧付きでなら理解できるんだけどね...今回はそのぐちゃぐちゃな世界と人間の話。

未知の塊だった先輩がいた。私が高校までに築いてきた価値観だけでは計り知れない人で、その存在に恐怖した。それは過去のことで、だからこそ「いた」と表現するのだけど。当時私は彼の無遠慮さに参っている節があり、気の置けない友人に本気で彼への接し方について相談したり、意味が分からないままに泣いたりしていたのだ。でも、その人となんやかんや交流するうちに、なんやかんや絆されて一緒に飲んだり遊んだりすることになっていったのである。

何はともあれ話したいのは、人には良いところと悪いところ(もしくはそれ以上)があるということだ。当たり前すぎて、お前そんなことも知らなかったの?阿呆の子なの?と思われそうだけど、その通りですね。ちなみにこれに気づく前への私の他者に対する考えは、「なんとなく」この人は「良い人」とか「悲しい人」とかそんなんだった。すごい決めつけだし、一度この人は「こうだ」ってなると更新されることがなかなか無かったのね(中学から高校になった時とかの節目には流石に更新されるけども)。でも、大学に入ってやっと人を冷静に見れるようになったと思う。し、絶対悪も完璧な人間性も存在しないことを学んだ。

20年の生では出会えない尊い人間っているのかもしれない。でもやっぱりパーフェクトはあり得ないと思うし、そんな存在が現れたら頼り切って自分が溶けて消えてしまいそうな気がする。そう、あの先輩もそうだった。「やべぇ、この人私にとって悪でしかないかもしれない...」って最初は思ってても、ひょんなことでその存在に救われるとか、「あーこの子は一生愛せる、何があっても一緒にいたい」と思ってたら、なんかこっちが信じられない思考をしていたりだとか、、、まぁ人様のこと評価できるほど偉い人間ではないけど、そうゆうことが増えてきたなって思ったのさ。

たぶん、視野が前よりは広がってるってことかな。そうなんだと思いたい。なんで私この子苦手なのに一緒にいるんだ?とか思ってた相手には、きっと私にとって救われる良さがあったんだよなぁとか思ったりして。ヒトは本当に色んなものがごちゃ混ぜだから、それを二極化してしまうのはやっぱり難しいんだ~と思う日々です。これは前にも書いた気づきにつながる。世界は人間は心は、そんな簡単に捉えるはずがない。でも、ヒトは周りにヒトがいないときっと生きていけないから、それだけは第一優先で頭を働かそう。

「変わらないものが絶対にある」ってよく聞く。信念とか、なんやら。ウチら永遠不滅!はないけど、「あの時」のウチら永遠不滅はあり得ると思う。あの時苦手だったあの子は、もしかしたら今の私にとって救いの存在かもしれない。逆に、思い出の君は今の私にとっては苦しみの元凶になっているかもしれない。


この前バイト帰り、信号を待ってるとき。

セミの鳴き声がした。

ついこの前紫陽花が咲き始めたと思っていたのに。

日々の流れを嫌になるほど感じてる。

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