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言祝ぐ

こと‐ほぎ【寿・言祝】
1 (上代は「ことほき」)ことほぐこと。ことばで祝うこと。また、そのことば。ことぶき。祝賀。賀。*延喜式・祝詞‐大殿祭(九条家本訓)「言寿<古語に許止保企(コトホキ)といへり。寿詞といへるは今の寿觴(さかほかひ)の詞の如し>」
2 祝いの挨拶とそれに添える贈り物。祝いの品々。*蜻蛉‐下「あがたありきのところにうぶやの事ありしを<略>ことほきをぞさまざまにしたる」

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Twitterで見かけた言葉、調べてみてすごい素敵だなぁと思った。「『ことば』で祝う。」最近気になってる対象が「言葉」の私にとって、すごい意味が深いことのように感じる(と浅い感想が湧き出てしまう)
たしかに「おめでとう」と声をかけられるとなんだかおめでたい気分になる。言祝ぐこと、これからたくさんしていきたい。私たちのコミュニケーションツールであり、メディアとして機能している「コトバ」
では、コトバという語の由来は何なのか

言葉の語源は、「言(こと)」+「端(は)」の複合語である。
古く、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で、「ことば」という語は少なかった。
「言(こと)」には「事」と同じ意味があり、「言(こと)」は事実にもなり得る重い意味を持つようになった。
そこから、「言(こと)」に事実を伴なわない口先だけの軽い意味を持たせようとし、「端(は)」を加えて「ことば」になったと考えられる。

語源由来辞典

どうやらコトバは「言(コト)」よりも弱い立場にあるらしい。でも言は事に成り得るようになった。あー分かる。すごい納得感がむくむくと溢れてくる。バスの窓に縁どられた流れゆく景色を1つ取ってもそういう現象が現れると思う。「登校初日、不安と興奮に胸が掴まれる思いをしながら眺めた景色」と言語化すれば、その記憶は「そういう事」だった「そういう視界がああった」と認識される。君といられて幸せなんだって事実を「今、あなたといれて幸せです」と文字化すれば、幸せは更に大きなものとなり「事」へと形どられる。そして、「言」が効力を発するためには「事」と同期している必要がある。暑いのに「寒いね」なんて言ったら、それこそ口先だけのものになってしまうだろうし、好きじゃないのに「好きだよ」なんて零しても、それは的外れでしかない。

現代において、「コトバ」は「言端」から「言葉」に進化したように更に重大な立場に置かれるようになったと言えるだろう。「葉」は豊かさの象徴であり、私たちは心の中に生まれた様々な思いを言葉に託して人に伝えたり、自分に再確認させている。その奇跡のようなツールを使いこなすことは決して容易じゃないはずだ。

それでも言語化できない気持ちや感動・思いというのは私たちの中でぐるぐると蠢いており、それらをどうにかして言葉に落とし込んで人に伝える必要がある。さりとて、「齟齬が生まれてほしくないから」と伝えることを放棄してしまっては孤独に孤立を重ね、何も物事は始まらない。ならばどうにか言葉の使い方に鍛錬を重ね、自己開示と他者理解を反復することが理想的じゃないだろうかと感じる。

Postscript:
最近中国語のクラスで出会った友人は、言外こそ重要だと考えると主張していた。人の仕草や佇まいに人を思う気持ちが現れると感じるのだと言う。成程、やっぱり私たちを取り巻くすべてはメディアであり、それぞれがそれぞれの「伝え方」を持っているのだなぁ…

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