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オーガズムを燈明とする愛の道

こんにちは!魔タリカ779歳、魂のR指定です!
私にとっての上半期最大の山場、サンクチュアリを終えて帰宅しました。
これでやっと少し落ち着くかと思いきや、まだもう少し私のスケジュールのカオスは続いています。
今年はもう、覚悟して腹を据えて臨むより他ないようです。
そんな時ほど、SNSの途中で出てくる漫画の宣伝に見入っちゃって、なんとはなしにポチった自分がいます。暑さで脳みそが耳から流出しようとするのを阻止するためなんです!ヒートアップをクールダウンってことで。

そんな私でも、どんな仕事も心血を注いで大切にしていますが、サンクチュアリは常に最もチャレンジングな場所です。
サンクチュアリー聖域ーに入って、ふと気がつくと暗闇の森で、上も下もわからずに歩を進めていって、しばらくすると、慣れてきた目に優しく星や月の明かりが道を照らし始めるところから始まります。

暗闇の森では、妖たちが「こっちだこっちだ」と手招きして、道がわからなくて心細くなっている人を誘います。
あの世とこの世の間に出現する異界、精神の森、アストラルの森では、古くなった信念、幼少期の記憶、叶えられなかった夢、表現できなかった感情や想念、思い込みなどが妖の姿をとって徘徊し、無意識に繰り返しているパターンという迷路のなかに私たちを誘い込もうと待ち構えているのです。
ここでのお守りは、自分自身に対する愚直なまでの「正直さ」です。

生きるためのサバイバル機能としてのカラダは、魂がこの世界で経験しようと計画してきたことを実現可能にするための乗り物として、さまざまな機会を提供してくれます。
カラダはわざわざお願いしなくても無意識に呼吸を取り入れ、心臓の拍動は血液を体の隅々まで送り出し、食物は消化され、自律神経系が様々な体の機能を調節してくれるので、今日も生きています。
長い間にカラダに刷り込まれた記憶や習慣は、朝起きたら顔を洗ったり、歯を磨くことへと私を連れて出し、まるで呼吸するのと同じくらい自然にお腹が空いて、「あぁ 何か食べよう」とか「トイレ!」などと行動を始めます。
私たちのカラダや意識は、なんの気づきもなく無意識の自動運転だけで生きていくことだって可能です。


続き………….



けれども長い間気づきもなく無意識でいたら、精神だけでなく、カラダもまた、アストラルの森の妖達の棲家と化してしまうことだってあるのです。
そんな時、カラダは感情的な言語「痛み」を使って私たちに話しかけてくるし、感じていたのにじっくり味わうことなく、付き合うことなく通り過ぎてきた感情は、必ずいつか何かのタイミングで匂い出します。この匂いは、石鹸で落とせる類のものじゃありません。

タオでは、愛や喜びは心臓に備わった生来の機能だといいます。
無意識のまま生きていたとしても、愛は依然としてそこにあって、必要な時には発動します。
けれども愛は学ばなければ、育てることも深めることもできません。
愛は単に衝動やいっときの感情ではなく、深い理解と意識、共感を学び合うプロセスの中でこそ、育まれていきます。物心ついてからというもの、誰しもが両親や兄弟姉妹の間で見よう見まねで吸収してきた、その家独自のやり方が染み付いています。
愛について学んだことがなければ、その独自のやり方しか知らずに成長していきますが、カラダに染み付いたそのやり方は、遠からず破綻を招きます。

それでも私たちは、「自分は愛を知っている」と思いたいものです。
その根拠がどこから来るのかもわからないままに、「愛とはこういうものだ」というそれぞれの常識を誰彼構わずに押し付けたりしていることに、気づいてすらいません。
なのに、相手が変われば、正しい人が現れればすべて解決、上手くいくと思い込んでいるのです。


愛とは、特定の人間に対する関係ではない。愛の一つの「対象」に対してではなく、世界全体に対して人がどう関わるかを決定する態度であり、性格の方向性のことである。もし一人の他人だけしか愛さず、他の人々に無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的な愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものに過ぎない。
ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思い込んでいる。それどころか「愛する」人以外は誰のことも愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ、誰もが信じている。
ー中略ーつまり、愛が活動であり、魂の力であることを理解していないために、正しい対象を見つけさえすればあとはひとりでに上手くいくと信じているのだ。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」



愛によってあなたは豊かになる!あなたの意識を増大し、
感性が増大し、エクスタシーに満ちた感覚は増大し、感受性は増大する。
あなたはもっと生き生きとなる。
でも減少するものが一つある…判断力だ。愛は理性によって割り切れない。愛は盲目だ。理性に関する限り、愛は盲目だ。
ハートにはハートの理知がある。それはまったくの別物だ。
ハートにはハートの目がある。それはまったくの別物だ。
理性の目はそこにない。だから、理性は言う。
「それは落下だ、お前は落ちた」とハート・センターが再び機能を始めない限り、愛することはできない。
そして現在における生の悲惨さはすべてそこにある。愛することができなければ、自分の生の意味が感じられない。生が無意味に映る。愛は生に意味を与える…愛こそが唯一の意味だ。

OSHO

恋に落ちた瞬間は文字通り、世界は活気を取り戻し、薔薇色です。
出会うまでは全く別の世界で生きてきたその人は、常識も言葉も違う別の文化の国で生まれ育ってきた外国人のようなものです。日本語で会話しているからと言って、意味が通じているわけじゃありません。慣れ親しんだ言語は、かえって理解の妨げになることだってあります。

そんな異文化コミュニケーションが溶け合って一つになるようなセックスを、誰もが心の底で望んでいますが、暗闇の森を迂回してたどり着くなんてことはあり得ないと思います。時たま交通事故の如くに遭遇することもあるんだと思いますが、そこに知性”インテリジェンス”が伴っていないならば、オーガズムの沼に引き摺り込まれて、脱出不可能になることだってあるかもしれません。

愛を学ぶということは、泥舟から丈夫な船に乗り換えて、オールを持った理、コンパスを持ったりするのと同じこと。
愛を学ぶということは、人生という先の見えない暗闇の森で、自分自身を灯火として闇を照らしながら歩く、自燈明の道です。

サンクチュアリセクシャルアルケミストは、生殖器の第一チャクラ、シャクティ(性エネルギー)の「赤い」オーガズムを、喉の第5チャクラの「青」に持ち上げて、「青いシャクティ(神の創造性)」へと変容させて、第6チャクラの「紫」、無限の愛と瞑想への道を切り拓き、オーガズムをもたらします。オーガズムは第6チャクラ”松果体”で感じるものなのですから。
赤を青まで持ち上げるエネルギーは、愛です。
そう、愛こそ唯一の道なのです。
最後は謎解きみたいになっちゃいましたが、脳みそ溶解中につきお許しください。あなたといつか、ご一緒できる日が来ることを願ってやみません。

Love♡

Tarika

2024 / 7月24日発行メルマガより


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