掴み損ねたものと、付きまとう呪いの話(メタフェスに行ってきた感想)

・初めに(挨拶)

気持ちが落ち着いたので、ようやくまとめました。初めに。大変すばらしい会場でした。下記のツイートのように、汚い言葉と茶化すような方式を使って、面白おかしく感想をまとめたことを、ここに謝罪したく思います。

これから私がここに書くことは、この会場にかかわったクリエイターに対して何の関係もありません。言うならば、自分の意志で火に飛び込んで、熱い苦しいともだえ苦しんでいるだけです。ただただ、本当にこいつは阿呆なのだなとほくそ笑んでいただければと思います。

私は今から、あなたたちの生み出した素晴らしい創作物を使って、自分をこき下ろす下手くそな自慰をしようとしています。その一点だけは自分でも何かいい言葉が見つかりそうにありませんので、どうか関係者の皆様は気分を害されると思いますから、もし読んでおられるのであればすぐに引き返していただけると、幸いです。

1、感想

朧気な記憶を元に端的に言えば、あそこはイオンだと思います。Vketやシェーダーフェスとは対極にいるというべきか、いや、正確には分岐が違うといった趣でしょうか。もしかしたらテーマパークかもしれません。

きちんと言葉にすると、「適切」さの塊のような空間だったといえるでしょう。色、空間の重み、システム、導線と視線の流れ。そのすべてが気持ちよい空間で、それでいて「普通」であると錯覚させるようないで立ちなのです。

私がこの会場をイオンと例えるのは、そういった意味合いです。イオンに行った時、ショッピングの空間としてときめきを感じても、特に大きな違和感を感じないと思います。それはデザインが、ある一定の水準で完成しているからです。もちろん、目の肥えている人からすれば別ですが、そうでない人には特に違和感を感じません。メタフェスには、そういうものを感じました。テーマパークや、新しい表現というよりは、そういう「違和感」みたいなものを徹底的につぶしたかのような感覚がありました。なぜかそれが妙に個人的には新鮮で、他人の創作物から逃げている私には、とても恐ろしいものに感じました。それは、ありとあらゆる一流の創作物に感じられる、共通のものでした。

「なんて熱量なのだ」と

シェーダフェスでも同様の感情を抱きましたが、自分にはここまでこだわれるだろうかと言われれば、はっきり言って不可能です。一人ひとりのクリエイターが真剣に取り組んだ合作に対して、個人はどうしようもなく、ただ打ちひしがれるだけしかできません。そして、やっぱり一人では勝てないやと、大した努力もしていないのに言い訳をするしかありません。そもそも、あそこに参加している人たち一人一人の足元にも及びませんから、どうしようもないと思います。

いやしかし、本当に楽しい空間でした。特に、スキマがたくさんあったことが個人的にはすごく好きでした。作り手の遊び心というか、冒険心をくすぐられるような構成は、ギミック的な面倒くさいものではなく、自然にそこに向かってしまうような味付けがされていて、嗚咽と感嘆詩を吐き、捨てることしかできませんでした。とても素晴らしかったです。

2

思えば、何も変わらない凡俗な人生だったように思います。人並みに努力もせず、どこにも行けないと喚きながら、今日は疲れたと言い訳をして、楽に逃げていく。変わらない日常と取り返せない時間を悔やみながら、今を大切に生きようとしない怠惰と愚かさの権化。それが私という、24年間の結果でした。それでいて自害しようともしない生き汚さは、人間らしいというべきか、良くも悪くも「異常者」にはなれない凡俗であることの証明であるように感じます。

今は凡俗らしく、というか、上にも下にもいない恵まれた立場で、ほそぼそと働いて生活しています。学生の頃は働いていればなんとなく、いろんなものを諦められるのかなぁと思っていましたがそんなことはありませんでした。「お客様」になれないまま、逃げるように見ないふりをして、そして指の隙間から覗いて、その光に目を焼かれている。そんな一年でした。

何か生み出す才能が人より少しあると勘違いして、実際本気で取り組んで、でも初めの壁すら突破できず、腐って死んでいった僕は、いったい何になりたいのでしょうか。何にあこがれているのでしょうか。

それには明確な答えがあります。単純に、「彼ら」になりたかったのです。自分の好きなもの、取り組んでいるものに実直で、それを作り上げる力がある、彼らになりたかったのです。

私には「作りたいもの」がありません。ものをみて、「ここが素晴らしい」と言葉を尽くすことができても、いざ自分で考えてみると何も浮かびません。目的意識がない、空っぽの創作意欲が私の中にあります。それはただのあこがれだけでしかなく、何の意味もありません。

創作者を強く動かすものは、こうありたい、こうしたいという強い精神です。それがないのだから、私には作ることができません。

しかし、その空っぽの器の中に、あこがれという名前の大きな鉄球が詰まっていて、器である私自身をゴリゴリと削り取っていくのです。

作るとき、私は助けてくれと思っています。なぜなら、私が作るものは、私にとってカスだからです。高すぎる自尊心が、自傷につながっていきます。もう「彼ら」に追いつけないんだなぁという妙な確信もあって、胸がどんどん苦しくなります。

こうなると、気分転換も辛くなってきます。遊んでいるということが、「逃げ」だと自覚しているので、胸の底でじくじくとしたものが残って、終わった後憂鬱になります。

さらに言うなら、こう言った文章でしか自分のことを形にできないのが、一つの大きなストレッサーです。小説を書いていた時期がある自分としては、こういう感情はきちんと物語にしないといけないと思います。エッセイもどきにするには、あまりにも勿体なく、それでいて、こういうやり方は安直です。誰でもできる行為です。

なんというか、にっちもさっちもいかなくなっている気がします。良い作品に触れると、気も同時にふれしまって暴れまわってしまいます。助けて叫んでいますが、助かるには、自分が何とかしないとなりません。

最後に、メタフェスは本当に素晴らしいイベントでした。今年も開催されるのでしょうか。非常に楽しみです。

ありがとうございました。


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