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鴨長明

みなさん、こんにちは。鴨長明の生涯について感じたことを述べていこうと思います。時代は今から約900年前、長明は下鴨神社を管理している父親の鴨長継の次男として生まれました。当時の下鴨神社は、今でいう大企業のようなものだったので、長明はとても裕福な子として過ごしており、将来は父親の跡を継いで、安泰した生活ができることを夢見ていました。そんな長明ですが、ある事件が起きます。それは父親の長継の死です。長継が亡くなり、長明を跡継ぎとして決めようとしていましたが、親族たちは言いました。

「俺の方がふさわしい」

長明はまだ二十歳そこらだったので、跡継ぎをするには若すぎると思ったのか、親族は長明を跡継ぎの道から遠ざけました。そして、長明よりも社会経験豊富で、歳上の兄が下鴨神社の跡を継ぐようになりました。そんな親族の対応に、長明は思いました。

「ふざけんな。俺はもう、好きなことをしながら生きてやる」

大企業である下鴨神社で働けるのは、誰もが羨ましいことだと思うのですが、兄との跡継ぎ争いに負けたうえに、下っ端の立場でペコペコしながら働くのは、長明のプライドが許さなかったのでしょう。長明は自分の好きなことである、和歌や琵琶を弾くことに情熱を注ぎました。それから和歌や琵琶の技術を高めるため、先生や師匠のもとで学び、仲間とともに日々鍛錬していきました。親族によって出世ルートを外された悔しさなどから芸術の力となり、和歌や琵琶の才能がぐんぐんと伸びていきました。

そんな長明が50になる手前の頃、後鳥羽上皇から河合社の禰宜の就任の話がありました。後鳥羽上皇は長明のことをとても気に入っており、和歌や琵琶の才能も認めていました。禰宜とは、宮司を補佐する立場です。会社に例えるとしたら、その会社の施設長の右腕のような立場に近いです。河合社の禰宜もかつて、父親の長継も経験していたことから、長明は再び出世の道へ進めると思い、幸せな気持ちでいっぱいでした。それを聞いた長明の兄はこう思いました。

「これはやばいぞ」

長明が河合社の禰宜になれば、いつか下鴨神社の跡継ぎを任されてしまうと焦った兄は、後鳥羽上皇に「自分の息子のほうが河合社の禰宜にふさわしい」と、持ち前のコミュニケーションで、長明の禰宜の話をなくすことに成功しました。またしても、出世の道を外された長明はこう思いました。

「ふざけんな。もう山にこもってやる」

自分には運がないのだと悟った長明は失踪し、山にこもるようになりました。山に小さな家を建て、家の中は仏様の像と琵琶、寝床、かまどといった最小限の物を置くようになりました。今でいう、ミニマリストみたいな感じです。世の中から離れ、山周辺の景色や自然に触れて生活し、生涯を終えることになります。

長々と説明していきましたが、鴨長明が生きた時代は、大災害や各地で乱が起きたり、まさに波乱でした。私は90年代生まれですが、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、東日本大震災、コロナウイルス流行といった波乱な事件や災害などがあり、鴨長明が生きた世界観とよく似ていると「方丈記」を読んで思いました。「方丈記」は当時の人々の生活のことや災害のことがリアリティに書かれており、今のコロナ下で生きるヒントになるような考えを与えてくれるかもしれません。

最後に「方丈記」に書かれている、私のお気に入りの文を載せておきます。

世界というものは、心の持ち方一つで変わる。もし、心が安らかな状態でないなら、象や馬や七つの宝があっても、なんの意味もないし、立派な宮殿や楼閣があっても、希望はない。いま、私は寂しい住まい、この一間だけの庵にいるけれど、自分ではここを気に入っている。都に出かけることがあって、そんなときは自分が落ちぶれたと恥じるとはいえ、帰宅し、ほっとして落ち着くと、他人が俗塵の中を走り回っていることが気の毒になる。

引用 方丈記 鴨長明 蜂飼耳(訳) 光文社古典新訳文庫

もう世の中のことなんか気にせず、好きなことをして生きていくんだ。と心に決めた長明ですが、結局、世の中のことを気にしているじゃないか。とツッコミを入れたくなりました。頭の片隅で世の中の人々を考えている、優しさというのが見えて、面白いと思いました。

以上、鴨長明の生涯について、私が感じたことを終わります。

読んで頂き、ありがとうございました。

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