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"The LEPLI" ARCHIVE 122/「カルーセルに乗ってしまった以上語らなければいけないのだろうか? ひらかわ版『川久保玲-コムデギャルソン論ーその弐』

 文責/ 平川武治:
 初稿/ 2014年9月10日+追記/ 2024年3月記。
 写真/ Hirakawa Miquele by HANAYO:

  「“ 語らなければいけないのだろうか?
最近のコムデギャルソン、川久保玲のコレクションを??−2。」
――もうすぐ、次のパリコレが来るという前に、やはり語っておかなければならない事。”

 僕は1985年にパリでメンズのコレクションが現在のようなスタイルで始まった時から、
このブランドのコレクションを見始める機会を持った。
 この時から僕もパリの”モードのカルーセルに乗ってしまった”一人となった。

 「退屈な人々でさえ、奇妙で素晴らしいコスチュームに身を包み、人前でパレードすることを考えるそんな時代性が来た。」/Remy Dean/"Dressed-up in Art"
 https://medium.com/signifier/dressed-up-in-art-710ed3ffc590

 プロローグ/
 
今回は、僕がこのブランド、”コムデ ギャルソン”という名を当時パリに新しいファッション旋風を撒き散らし始めた女性デザイナー ソニア リキエルのコピーブランドとして立ち上げた頃からそれとなく知っていた。そして、僕がロンドンで出会った僕の親しい友人が川久保玲と
共にこのブランドを立ち上げた3人の一人であったことも手伝って色々、当時の話を聞く機会もあり馴染みを持っていたので余計に、この”川久保玲”という人間と、その彼女のその後の
成り行きに、モードを観る者としての大いなる好奇心とともに興味を持ち、気がついてみると40年以上が過ぎた。

 当時はそれまでに無かった垢抜けしたファッション雑誌として、「an an」が巴里のモード誌
"ELLE"と提携した内容で創刊され全盛だったこと、そして少し前には、巴里では F.アルディが歌って流行っていたシャンソン、『Tous les garçons et les filles(男の子女の子)』(1962年頃から)があり「パリに憧れていたファッション・デザイナー」という当時では当たり前すぎる憧れとモチベーションでこのブランド名が「コム デ ギャルソン」と名付けられた由来であった

 川久保玲の”生まれや育ち”とともに、両親の離婚と父が学校職員だったことからの
「慶應義塾」入学はその後の彼女には大いに役立った学歴となった。
そして、卒業後の就職先が”旭化成”だった。宣伝部勤務となり当時始まったばかりのテレビ
コマーシャル向けの社内スタイリストを勤めさせられ、ここで故小指敦子さんと出会う。(1960年代後半、旭化成勤務時代に川久保玲と知り合い、川久保にフリーのスタイリストになるように勧め、後のCdG設立に影響を与えた人。1981年にCdGが山本耀司と二人三脚でパリ・コレクションに進出する際、どの顧客に招待状を送るべきかの助言を与えてた人。)
参照/ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%8C%87%E6%95%A6%E5%AD%90
 この故小指敦子さんは川久保玲にとっては”ステージママ”的存在であり、旭化成時代の宣伝部長の急死など当時の川久保のプライベートをも熟知した人であった故、唯一、川久保が心を開いて接した人であった。そして、彼女は旭化成のあと”伊勢丹商品研究所”を経てフリーランスのファッションジャーナリストになり、そこでこの二人は雑誌「マリークレール・ジャポン」誌ででも”二人三脚”でこのブランドのメディア露出に成功した。この流れに乗って誕生したのが”鷲田清一氏だ。この流れが現在では、当時の雑誌「マリークレール・ジャポン」で故小指さん担当だった小林氏(現・株式会社CCCメディアハウス代表を通じて「PEN」誌へと引き継がれこの雑誌も上手に使いこなしているげんざいのCdGである。)

 もう一つ付け加えれば、川久保玲は山本耀司の女性問題で逆鱗に触れ不仲になり関係を絶ち、もう一方ではあの”M.マルタン・マルジェラ”が’88年の秋に登場したことに依っての創造性そのものも揺らぎだした。そして、この”ステージママ”的存在であった小指さんが’93年に亡くなられる。もうひとつ、社内ではオリジナル素材に偏りすぎ、委ねたことによっての
”原反在庫過多”に陥り、大いに自信と将来に動揺と不安を覚えるまでになったのが、80年代終わりから小指さんが’亡くなられるまでの5年間ほどであった。

 そして、ここで次に登場したのが”Adrian Joffe”である。
現在の夫との”ビジネス結婚”という策を選び、彼と手を繋ぎ導かれて、”世界のデザイナー”になるために「ユダヤの森」へ彷徨い始めたのが現在までの川久保玲の強かな生き様である。

 そんな当時の川久保玲をしっている者からすれば、どの様な発端と経験から現在のような「ファッション・ボス」に成り上がったか?やはり、それなりの興味津々であろうが、
誰も書かない。(ここではCdG流のメディア統制が未だに、強かに行われている証拠である。)

 僕のこの視点の根幹は、「川久保玲の”生まれと育ちとその時代性と美貌”が彼女のその後の人生の”全て”を成している」というものでしかない。
 この戦後の荒廃期に生まれ育ってきた者の多くが、
「目先の自分の事しか考えられない人間として育った人」であり、
「戦時中と戦後」という時代性と、「根性=頑張り」そして、「自己中心=自己確認」と、
人一倍の「上昇志向=努力」の賜物の結果が生み出した彼女の人生だという視点である。

 彼女のこの生き方は現在も少しもブレてはいない。今では寧ろ、社会的にも、そして経済的にも成功者としてのそれらのパワーを十分に利用して、「何者にも囚われない自由な生き方」を継続しているに過ぎない女性であり、ある意味で、「ブレない頑張りと根性とお金が出来れば何でもできる時代のミューズ。」の独り。

 では、僕が指摘するレイ-カワクボ」ブランドのクリエーションとは
如何ようのものなのだろうか?/

 僕はこの様なコレクション形態を取り始めた”巴里向けコレクション”を従来のCdGブランドとは全く違った路線であるという視点であり、これを「レイ-カワクボ」ブランドと呼ぶ。
 
 この一般的に”売れなくてもいい”「レイ-カワクボ」ブランドのクリエーションの実態とは?
僕のこれ迄のモード経験から30年程、毎シーズン見せて頂いて来たCdGコレクションからは
やはり、その“conception for the creations”も、“image of the creations”もそして、
”source of the inspirations” も全く新しく違う世界のものである。
 これは当然、『モノを作る』と言う根幹の”意義と目的”が違うのだから仕方ないだろう。
「売るもの」「着てもらえる服」から、「見せるだけのもの」或いは、「コレクションするだけの服」を造るそして当然、「メディア受けするオブジェ」という根幹の世界に変革した。
 ここに至ったのは、川久保玲の自らの立ち居場所が変わってしまったのだから当然であり、
「ユダヤの森を彷徨う」為のユダヤ人向けを狙った夫の入れ知恵である。
 前出した、『季節感や機能性など無視。』『着れなくてよい。』『売れなくて良い。』
ただ、『川久保玲が作り続けられるだけ、それらが残し続ければ良い世界』に固執しての
”モノ作り”であれば良いという”立ち居場所”の「継続と売名」イコール、「ブランド継続と
企業繁栄」という大前提の為の、「目先の自分の事しか考えられない人間として育った」
彼女の選択肢の結果でしかない。

 ここには将来、どのような形態でこれからのこのCdG企業を受け継いでゆくか、
それは誰が受け継ぐか?をも考慮されたビジネス戦略でしかないことも自明である。
 彼女の今後の立ち居場所は“企業コムデギャルソン”の今後の即ち、川久保玲の死後に、
どの様に自分の作品が残り、関わり、それらがこの企業を今後も“世界企業であり続けられ尚この企業が変らずの発展継続のための現在の彼女に残された使命とした行為でしかない。
 言い換えれば、彼女の死後、この企業は彼女のビジネスパートナーであるエイドリアン氏が
総統となる日本発の”ラグジュアリィーブランド”と言う進路へ向かうしかないのだろうか?
 その為の、企業存続のための”モチベーション作り”としてのコレクションであると読めて
しまう迄の作品作りとブランドの「来歴」作りである。

 川久保玲の、”source of the creations"の発端とは?/ 
 川久保玲の育ちも日本である以上、彼女のモノ作りの、”source of the inspirations”も
彼女自らが初体験として見たモノであったり、自らが強烈に感動体験したモノからの
インスピレーションがその発端となって今までの素晴らしいコレクションを発表して来た。
 その後、彼女が”当事者”としての経験からの”source of the inspirations”ではない、
彼女が”傍観者”としての眼差しからの”source of the inspirations”による「深度とその振れ」は当然だが違っていた。

 過去に於いて、彼女が”当事者”としてインスピレーションを得てのコレクションは
初期では、ポルトへの旅からの『黒』のシリーズやあの「瘤」コレクションやアントワープの「sexy」コレクションなどは印象に残っている。
 また、岐阜の”オリケン”さんとの共同開発によった”オリジナル素材”を使っていた時期の
このブランドのコレクションはすべてが自由あり、素材の面白さとその素材質感の特意性からとても素晴らしいコレクションが5年ほど続いた。この時期のコレクションは着る女性が、
知的でいい女であれば、”昔の自分自身の様な女の子”が「着たくなるコレクション」を
創造してきたことが多く記憶にある。 

 ここでも彼女の”source of the creations"の発端には、「他にないもの」という「特異性」がその根幹には共通した思いというか意地が存在していた。   
 僕の場合は ’85年’から88年位迄の数年間が最も印象に残っているコレクションであり、
この時期は「これでもモードか、こんなもの迄がモードか」と感じる迄のその出来は見事な『モード-マジシャン』の仕業であった。
 この時期が成就された要因は、「優秀な生産企画者と、すこぶる有能なパターンナー」が
揃っていた”最強のチーム”であり、企業全体の売上が良かったゆえの「資金力」がプラスし、
このブランドの「オーナー兼デザイナー」の川久保玲の元でチーム一体がチームワークよく
バックアップした時期だったからであろう。

 そして、’88年の秋、”メゾン ドゥ マルタン マルジェラ/M.M.M.”が”ダダ”的に、
”巴里のファッション-ゲットー”に登場して以来、彼女は”M.M.M.”の服作りの根幹に
煽られ始めた。結果、彼女は自分たちからこのM.M.M.へ近づき、CdGは”良きライバル”と
してより、創造性が力強いコレクションを発信した時期にもなった。

 ”傍観者の眼差し”からの”source of the inspirations”とは、/
 他の多くは、彼女のモードに対する誠実さと真剣さと熱心さそして、勤勉さに因る
『人と違ったもの、同じものはやりたくない』と言う自由さと意志の強さと頑張りに因って
もたらされた”傍観者の眼差し”からの”source of the inspirations”によって構成された
コレクションであろう。
 そんな中では、好印象に残っているのは、カッコ良かったロンドンストリートテイスト、
タータンチェックの使い方と”パンク系”コレクションや C.ネメスを知った直後のコレクションもそれらのサンプルを自分の世界のモノにするまでの強さと意気込みによってカッコ良さが感じられるものになり、その印象は強かった。
 
 Aidrian Joffe氏との結婚とは?/
 ”オリジナル素材”が使われなくなった以降の、過剰な原反在庫に苦しめられた後のこの
ブランドのコレクションはやはり、素材経費を節約し始めここで、”育ち”で刷り込まれた
旭化成時代の”キュプラ”素材が独壇場となり、出来るだけ化繊合繊と合成皮革と合成ファーを特徴とし、”裏地素材”を主としたデザインで”粗利が稼げる”コレクションが営業用として登場した。

 これは展示会へ行かなければ分からない戦略である。
見せるだけのコレクションをショーで行いメディアとユダヤ人ファッションピープルを巻込み騒がせる”レイ・カワクボ”コレクション。
 この新たなコレクションによって、ビジネスパートナー、エイドリアン氏との結婚後の作品は「内助の功」でもあろうか、夫の世界の人達、ユダヤ人たちにまず、亭主自身が認めてもらうためのそして、このファッションの世界の所謂、“大向こう”、お友だちジャーナリストたちをも大いに意識し始め、深い”ユダヤの森”へ夫という道案内人に連れられて入って征く。
 
 ここからは自分の巴里での立ち居場所としての”特異性”、巴里モードのスポットライトが
当たる、ギリギリの際に立ち続けると言う綱渡りをしかも堂々と始めた。
 ”巴里モード”との距離の確立と位置に心掛け、嘗ての袂を分けたはずの友人の様に
決して、”オートクチュール”へは近づかなかった。
 また多分、この時期とは身内の渡邊淳弥ブランドが立ち上がって彼のコレクションも
全く違った眼差しと彼の実力によって、巴里の”大向こう”を多いに唸らせ始めた事に気が付き始めてからであろう。このジュンヤのコレクションが良い刺激となり始めたと言う事だ。 
 そして、時の流れは現在の様に自分のブランドでは売り上げをとらなくても良い状況と
構造を構築し、この企業の「自動販売機ブランド」である「PLAY」が売上を伸ばし始めた。 
 依って、川久保玲のコレクションは却って、“苦しみ”や”悶え”さえも感じる結果の
コレクションと読めてしまう。

 僕のリアルな体験としての、多くのEUモード有名校の卒コレクションでの審査員経験は、/
 僕が’97年来ヨーロッパのファッション学校の卒業コレクションに審査委員として呼んで
頂いて彼ら学生たちの作品群を数多く見て来た日本人も殆どいないであろうと自負出来る。
アントワープ、ラカンブル、アーネム、ベルリン、ヴィエナ、バーゼルそしてバロセロナ、
トリエスタ、スイスと巴里、イエール。結果、これらの学校やコンテストを10年間程、
”卒業コレクションヒッピィー”をし、たくさんの学生たちの作品の審査をさせて頂いた。
 僕の様に、若い人たちの可能性を感じる事が嬉しく即、素晴らしいエネルギィイになる様な
者にはモード現体験として実に愉しかった、稀有で贅沢な時間の流れであった。
(みなさま、ありがとうございました。)

 この時期の学生だった多くの者が今ではそれなりのメゾンのデザイナーをやっていたり、
自らのコレクションを大変ながら継続している。
なので彼らたちの多くの素晴らしい学生コレクションをいろいろ覚えている。
この経験が実は、『レイ-カワクボ』コレクションを読み解くすばらしいスキルになっていると自負してもいる。
 彼女のこのコレクションから感じられる僕にとっての”負”のイメージは
彼女自らが歩んで来た時間の姿なのか?という質問から生まれる。
寧ろ、彼女の自心のこゝろの有り様からは程遠いところで、”source of the inspirations”を
探している様が感じられるからだ。
 それが学生の自由で青い闊達な世界や勿論、ユーモラスな”プリミティブなアート”からも
”source of the inspirations”を探し彷徨っていると思えてしまうからである。


  エピローグ、”誰もが迎える「老い」に対しての「自由」とは?/

 老いてゆくと言う事は、若さが無くなる事だと言う、確かに”身体”の機能低下は免れない。
しかし、若さは歳とは関係ない。僕もそんな年頃になったので言えるのだが、
老いてゆくとはそれ迄に無尽蔵の様に在ったはずの”好奇心”が無くなり始める事であろうと
僕自身は理解してしまっている。
 “好奇心”が無くなり始めるとは、自心のこゝろの有り様に堆積しているカオスが整理分類
されテンプレート化されて来る。するともう、“好奇心”が芽生える”隙き間”がなくなる。

 “時間”とは今しかないものであると言う。
今在ると信じられる”時間”をどの様に消費するか、使うか、それが今と言う”時間”を
生きると言う事であり、その今が在れば、昨日も存在するし、
又、明日をも思い巡らせることが出来る。
 これは先月読んだ『14歳のための時間論』から改めて、教えてもらった事の一つである。
 /参考:『14歳のための時間論』:佐治晴夫著/春秋社刊:
この本を14歳で読んでいれば、その後の何十年かの人生に大いに役立つ“時間論”の本である。
ですが、現在の僕が読んでもこの本で再び知った”時間”を
後、何年役立てられるか?の違いが在る迄の事です。
 
 今、人間、川久保玲はどのような「老い」を意識し始め、
何に”好奇心”を持っていらっしゃるのだろうか?
 残念ながら、見えない。想像がつかない距離も存在してしまった。
プレスに聞くと、勿論今後の会社の事、社員の事を思いその為に良いコレクションを続ける
事です。と言う一辺倒な答えしかが返って来るだけである。
 勿論この“王道”は必要である。
もう一つの顔社長、川久保玲と言う立ち居場所からの義務と責任であって、
”好奇心”ではない。
 
 最後迄、彼女の性格の一端である『人と同じことはしたくない。違った事がしたい。』
と言う、”大いに、自由なる好奇心”を拠り所として
今迄の全てに、”努力”と言うラベルが張ってある”時間”が一人の女性でもある川久保玲の
こゝろの有り様の中で、他者のためにも、社会にも発光する迄の『見た事のない美しい耀き』を探し求める”好奇心”の旅へ、そんな想像のためのカオスへ、
「ユダヤの森」の中だけではなく
あなたに好奇心を求める日本人のためにもまだまだ、大いに彷徨って下さい。
 『ありがとうございました。』合掌:

文責/平川武治:



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