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"The LEPLI" ARCHIVE 127/ '15 S/S 速報、「コムデギャルソンコレクション−1」;

文責/平川武治。
初稿/28th.Sep. 2014。
写真/ 川久保玲は雑誌の企画で「ロマンティックカラー」さえ提案している。

案外、有名なこのクラーク小説の一文がいやに思い出される。/

 『あらゆる種類の闘争と紛争の終わりは、
又、創造的芸術の事実上の終わり(The visual & of creative art) を意味していた。
 おびただしい数のアマチュアやプロのパフォーマーが現われたが、一世代に渡って、
文学、音楽、絵画や彫刻の真に傑出したあたらし作品は出現しなかった。
 世界は、相変わらず、再び訪れる事等あり得ない、過去の栄光に依存していたのである。』
参照/A.クラーク/「幼年期の終わり」から。
 
 もう一つ、上げておこう、 
「例えば、世界的巨匠と呼ばれる人たちに共通する事は「時代への批判精神』である。
立ち場はいろいろあっても、社会の光と闇を敏感に感じ取っていなければ、
人を感動させるものは作れない。」
 これは飛行機内で僕が読んだ岩波書店が出している「図書』と言う小冊子からの引用で、
筆者は赤川次郎だ。(図書/9月号/岩波書店刊/「失われたプライドを求めて」より:

 もう一方で、ビジネスへ繋げる為の”PUNK"とは?/
 会場にはもの凄いノイズジーな音が溢れ返り、それと同時に“作品”が歩き始める。
今回の会場となった周辺はチャイニースたちがコピーしまくって作っている
小さな衣料品工場が溢れている界隈の元機械工場跡を探して来た。
 今回のショーには必然である舞台環境だ。
最近のこのブランドにしては久し振りに”会場とそのテーマ性”が一致したロケーションだ。
 いつもの様に観客を押し込めてその中でヒエラルキィーを構築した座席へ
よく訓練されたスタッフたちの多くが、
この時ばかりと今期モノの“Made by CdG"を着て、手慣れた誘導を行なって
約30分が過ぎた頃、やっとそのノイジィーな爆音が始まった。

 川久保玲は彼女が創り出した”エモーション”をこの環境と雰囲気とそして音響で
”共有してくれ”と言うのかそれとも、
”拒絶をしたいのか?” 或いは、”呆れ返ってもらいたいのか?”
多分、そんな事はかまっていないであろう。
ただ、”遣りたいだけ”或いは、”遣らなければならない”だけであろう。

 今シーズンはこのブランドの”主役”のもう一つ、「”黒”と”白”のシリーズ」から、
『赤のバリエーション』がコンテンツとして登場した。
彼女はこれ迄にも“赤”は沢山作品にした。
オリジナル素材を使わなくなった時点からのコレクションはその大半が”黒、白
そして、赤”でエレメントを構成していた事を思い出させる。

 だから、”赤”なのか?或いは何か、訴えたい事、反逆したい事のためには
是非”赤”だったのか?多分、そうであろうが、不明。
ここで、プレスに聞くのは野暮だ。
 「これが今の彼女の気分なです。」とのプレスの答えが解る。
次から次へと、淡々とこのノイズのさなかを出て来る彼女の気分を作品とした
”服の様なもの”を着たマヌカンたち。
ヘヤーと靴だけがいつも変わる。
が、”作品”の内容とそれぞれのエレメントは
これ迄の4シーズンのバリエーションのように見受けられるものが多かった。
 当然、今回のコレクション用にお色直しをしたものもあるし、
新たに思いついての造作であろう数体を見る事も出来た。

 例えば、彼女が大好きであったオムコレクションの襟のディテールが
“THINKBIG"で現われた時には思わず嬉しく、微笑んでしまった。
だが、その胸部は見事に切り裂かれている。
いろいろな素材で集められ作品となった”赤の集積”は
その素材の違いで”赤”のバリエーションが輝く。
見事な感覚であるが、やはり、赤は以前の黒や白に比べるとその効果は難しいようだ。
だから、エナメルレザーや合皮のピースが使われてもいる。
それに作品自体の構造をより、3ディメンションを強くしないと
その効果が現われにくい事も計算されている、流石である。
 
 もう一つ、目だった事は今シーズンは“Hanging"と言うアイディアを
結構、使ってこれらの”作品”を創り出している。
 "Wrapping"から”Covering"というコンセプトは
“被服が持っている"Protects"と言う機能性への当たり前の論理である。

 しかし、彼女は以前、自分のコレクションでもやった事のある、
"Hanging"を使ってその造型性のバリエーションを増やしている。
これを使えば其れ也に、何でも”付け足す”ことが出来る。
と言う事はここには彼女の特徴であった造型に於ける”潔さ”が無くなり、
“作品”を創り出さなければならないと言う想いからの”足し算”手法が感じられる。

 新たに加えられた作品では作られた“THINK BIG"の服に鋏を入れて切り込み
テーブ状にしてその流れを愉しんだり、組み込んでの3D.効果を見せる。
それらは今迄の怨念も入っているのだろうか?と思う迄の大胆さと緻密な迄の野暴さだ。
 珍しくこれらに混じって、あのバウハウスで行なったO.シュレンマーが出て来る。
これによって案外、このコレクションの”想像のための発想”
或いは,“SOUCE OF THE INSPIRATIONS"の”隙き間”が見えてしまった。
この辺りが”ファッションの可愛さ”とでも言えるのだろう。
そして、巴里のデザイナーたちの眼差し、"She is a so Bourgeois!"であるが効果を持つ。
 行為を行なう事によって堅持される彼女のこのモードの街での”立ち居場所”が
より、鮮明になる。いわゆる、「特異性」を放つことになる。
従って、『パンクを売り物にしたファッションブルジョワ』である事が
このファッションゲットーの住民たちからウケるのである。

 ’77年、彼女はPUNK だったのか?/
憧れたのか? 傍観していただけなのか?
ライブへ通っていたのか? “ドクターマーチン”を履いていたのか?云々、、、
そんな事はお構い無い。

 では、今の彼女の生活で、何を”プロテクト”しなければならないのか?
日本社会への”反逆心”があるのか? 
あらゆる種類の”闘争と紛争”へのこゝろの有り様があるのだろうか?
 
 人間、『川久保玲』はどのような日常を送っているのだろうか?
殆どの”社員”たちも知らないであろう。
 どの様に、彼女らしさで日常社会へ”コミット”しているのか?
だから故に、これほど迄の”闘争と紛争”心が沸き立つのか?
 それとも彼女自身の”存在”そのものに、”闘争と紛争”し続けたいのか?
これらの『根幹』が全く不明。
まるで、何かを隠す、或いは拭い去りたいと考える迄に不明である。
 
 彼女に取ってのPUNKとは、あらゆる種類の”闘争と紛争”への、
社会へ対してのラジカルな”らしさ”であり、
その立ち居場所を保持するための”記号”でしかないのだろう。

 いつかの、N.Y.で開催された『PUNK FASHION展』への
あのS.メンケス女史の言葉がここでも引っ掛かる。
 「もう、今の時代のPUNKとは総てが,PUNKY。そう、”らしさ”でしか無い一つのコードだ。」

 若者が未だに、無造作とともに、/
“PUNK T-シャツ”を着ているのと同じファッション・フェイクでしかないのだろうか。
或いは、若者たちが憧れるPUNKと、富豪が憧れるPUNKの差異とは?
ここで、"She is a so Bourgeois!"が納得行く。

 その背景即ち、”社会”が違うだけで、
現実では、お金さえあればどうにでも出来る時代でしかないのだ。
 ここに僕はこの『レイ-カワクボ』ブランドのビジネス観を見てしまう。
やはり、強かなビジネス戦略である。
 “凄さ”と”がんばり”に感謝を。

文責/平川武治。
初稿/28th.Sep. 2014。
出典/ 「装苑」1977年6月号(P.6)。

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