寛容と無関心は紙一重かも
かつては、ネット上とリアルでは人の性格は全然違うと思っていたけど、最近はそうでもない気がする。それと同じようなことが佐々木俊尚著『自分でつくるセーフティネット』という本にも書いてあった。
「ネットでは性格が悪いけど、実際会うといい人(またはその逆)は、存在しない」という話が書かれていて、そうだよなあと思ったのだった。もしかしたら、かつてはそういうことがあったのかもしれないけど、ネットの時代も長くなってきて、次第に人が仮面をかぶり続けることに疲れてきたのか、周りの人も仮面だと見抜く力がついたのか。どちらにしろ、正直なほうが信頼されやすくなっているようだ。
この本は正直であること、「善い人」であることが、ネット時代を生き抜く戦略だと言っている。グローバル時代に向けて、英語だ、投資だという戦術の前に、もっと大きな戦略として「善い人」になろうということだ。
著者によると、善い人とは、寛容であり、他人に与える人のことをいう。自分と異なる他人の意見を受け入れ、見返りなど考えず他人に何かを与える。それが善い人だという。なるほど、それはそうかもしれない。
自分もつい忙しくなると、自分の仕事を早く終わらせたいと思ってしまい、寛容さや他人に何かを与えることができなくなってしまう。善い人になるには、時間的余裕と体力的余裕が必要だ。そう考えると、収入は少ないけどマイペースで仕事をやっていて余裕のある人には徐々に信頼が集まって、給料は高いけれど忙しくて余裕がないという人からは信頼が離れていって、いつかその収入さえも逆転してしまうのかもしれない。
著者によると、ネットで信頼を集めるには、価値のあることを書いているなあ、と思ってもらえることが重要だという。例えばフェイスブックで、自分が重要だと思ったネットの記事をコメント付きで紹介するといいと書いてあった。フェイスブックには人間関係を維持していく道具としての使い方に加えて、自分という人間の信頼を保証してくれる役目がある。だから他人に与えるように価値のあることを書き、他者の意見には寛容になることが大切なのだ。
というような内容の本で、全体的に語り口調で書かれていて読みやすい。読みやすいけれど、「〜ですよ」という言い方が多用されているのが、個人的には気になった。
「〜です」というところを「〜ですよ」と書かれていると、ちょっと違和感を覚える。とくに、「思います」に「よ」がついて、「思いますよ」となっていると、オレはそう思いますけどね、あなたがどう思おうと勝手ですけどね、という感じがしてしまう。
ある意味、「自分こう思いますけどね」というのも寛容のひとつの形だと言えるかもしれない。あなたはご自由に、ということだから。でもそこに、突き放れたようなものを感じてしまうのは自分だけだろうか。
寛容と無関心は紙一重というか、寛容も他者への与えも、コミュニケーション全体でいうと枝葉のような気がする。その人の心意気が伝わるどーんとしたコミュニケーションの本流が、もっと別のところにあるのではないか。「〜と思いますよ」という表現では、なにかその本流に届かない感じがする。
勝手な解釈なので著者が実際どうなのかは別として、そんなことを考えたのだった。
『自分で作るセーフティネット』
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