時代の空気を作る人

『土屋耕一のことばの遊び場。』という2冊組の本のうちの1冊、『ことばの遊びと考え』という本を読んだ。2009年に亡くなったコピーライターの土屋耕一さんのこれまでの著作のなかから、糸井重里さんが文章を選んで再編集した本だ。

最近コピーライティングについて考えるようになったので、刺激になったというか、参考になった。

とくに、ひらめきはいきなり大きなものが得られるのではなく、情報を整理して小さなステップを重ねていくことで得られるのだ、というところは、その通りだと思った。いかに言うかよりも、まず何を言うかが大事なのである。

また「ドアが閉まります」と「ドアを閉めます」のどっちがいいかという話も、その理由に納得で、そういう言葉の細かい違いに敏感であることがコピーライターという仕事なのだ、とうなずかされた。

しかし、自分の仕事と比べてみると、だいぶ差がある感じがする。広告づくりの仕事を考えても、どうしてもまず関係者のことに意識がいってしまう。一緒に働いている人は楽にしたいし、クライアントにも満足してもらいたい。もちろん自分も無駄な苦労はしたくない。

たぶん、問題はその場に読み手がいないことだろう。ふつうの読者がふつうの人として打ち合わせや制作に参加していたら、読者のことを意識できるし、読者が理解しやすく、楽しく読めるものを作ろうとするはずだ。

でも、制作段階では読み手はいない。だから自分の中に読み手をおいて、想像するしかない。そのとき大事なのは、作り手の自分を完全に追い出すことだ。作り手の自分がいると、どうしても楽をしようと思ってしまう。

たとえば、関係者どうしのコミュニケーションが負担になったら、より良いものを目指そうという意欲がそがれてしまう。少なくとも短期的には、「いいこと」がなくなってしまうからだ。そう考えると、どれだけ長い目で見た「いいこと」を考えられるかが、立派な人とそうでない人の違いなのかもしれない。

と、思わずそんなことを考えてしまったけど、土屋さんの文章からは堅苦しいことよりも、もっと自由な感じ、タイトルにもなっているように、いい意味で遊びの雰囲気がすごく感じられる。

土屋さんがかつて所属していた資生堂には、かなりの数のデザイナーがそろっていたけど、その人数に比べると仕事の数はそう多くは与えられなかったそうだ。人のほうが余っていたというか、余力がある時代。そういう時代なので、今とはまた空気が違っていたのだろうと思う。「いいもの」への共通する空気があったんじゃないだろうか。

話し言葉の口調を生かした土屋さんの独特の文体に触れていると、その時代の空気が感じられる気がする。空気のせいにしていいのかどうかわからないけど、土屋さんはその空気を作ったひとりなのだろう。それを自分の仕事と比べてみると葛藤してしまうけど、その葛藤こそが、見つめるべきものなのかもしれない。

土屋耕一のことばの遊び場。

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