自分が食べているものについて知ることは、自分について知るようなもの
『知ろう 食べよう 世界の米』という本を読んだ。イネを研究する著者が、イネのルーツから、それがどのように世界に広がり、どのように栽培され、どのように食べられているかを、ジュニア向けにわかりやすくまとめた本だ。
食べもののなかで何が好きかと聞かれたら、米が好きだ。米がなければ始まらないし、実際たくさん食べている。今でも1食で1合くらいは食べたい感じだ。
それだけの量を毎日食べている米について、これまであまり知らなかった。つい数年前までは、「うるち米」がどういう意味なのかさえ、わかっていなかったくらいだ。そんな状態だったから、お米についての知識が増えていくのが面白く、一気に読んでしまった。 例えば、インディカ米という名前の由来についてへーっと思ったり、1年生の植物は年に1回必ず種子をつける分、品種改良スピードが早いということに、なるほどと思ったりした。 かつては「米といえば日本」と思っていたけど、そうでもないことは、旅行に行ってわかったことだ。実際、世界中で米が食べられている。そんな旅行で見たことと、研究による知識とが、この本で結びつくのがおもしろかったのだろう。自分が食べているものについて知ることは、自分について知るようなものなので、おもしろいのも当然なのかもしれない。
読み終わってから、ラオスにモチ米を食べに行きたくなった。インドネシアのトラジャ地方にも行ってみたくなった。先日ボルネオに行ったときも、お米で有名なBarioにも足を伸ばせばよかったなあと思う。
そういう場所に行ったとして、自分は何が見たいのだろうか?
自分たちの食べものを自分たちで調達している人の暮らし。つまり自給的ということだけど、そういう人の暮らしがどうなっているのかを知りたい。お金を介して食料を得ている人とどう違うのかを知りたい。そんな気持ちがあるのだと思う。
まあ実際は、単純においしいお米を食べてみたいというのが、一番の理由だろうけど。
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