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ブライト・ライツ、ビッグ・シティ〜午前6時、いま“君”のいる場所。
『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』(Bright Lights, Big City/1988年)
君はそんな男ではない。夜明けのこんな時間に、こんな場所にいるような男ではない。
──1984年夏。そんな一節で始まる、新人作家の処女作がアメリカで出版された。長編小説のタイトルは『Bright Lights, Big City』。作家の名はジェイ・マキナニー。
あのフェリーニの『甘い生活』(1960年)やサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)の現代版とも言える内容と、“君”という二人称で静かに描かれる喪失のシティライフ。
世代を代弁するスポークスマン的作家が、長い間出現することのなかったニューヨークにとって、29歳のマキナニーとこの作品はたちまち一大センセーションを巻き起こし、書店では山積みされてベストセラーを記録。
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さらに翌年には、20歳の大学生ブレット・イーストン・エリスが、ロサンゼルスを舞台にした衝撃的な『レス・ザン・ゼロ』でデビュー。こちらも大きな話題となる。
こうした新しい感覚を持った書き手たちの登場は、マスコミによって「ニュー・ロスト・ジェネレーション」(あらかじめ失われた世代)」と名づけられた。
1920年〜30年代に「ロスト・ジェネレーション」(失われた世代)と称された、F・スコット・フィッツジェラルドやアーネスト・ヘミングウェイらが活躍したムーヴメントが再構築化されたのだ。
1980年代半ば、アメリカ文学が一気に若返り、そして余りにも眩しく輝き始めた。
マキナニーには『Bright Lights, Big City』を書くにあたって、土台にした一つの自作の短編があった。
「午前6時、いま君のいる場所」(It's Six A.M. Do You Know Where You Are?)と題されたその作品は、1982年に文芸誌「パリス・レビュー」で発表。その時はまだ作家を目指す金欠の青年だったが、この秀逸な短編の存在こそが、2年後の長編へと生まれ変わる。
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1955年にコネティカット州で生まれたジェイ・マキナニーは、大学卒業後に地方紙の記者や英語を教えるため、日本にも2年間滞在した経歴を持つ。
その後、1979年にニューヨークへ出てくると、いくつかの出版社で働きながら、レイモンド・カーヴァーのもとで小説創作を学んだ。「午前6時、いま君のいる場所」は、そんな時期に書かれた短編だった。
「New York 94」という90年代に発表したエッセイで、マキナニーは自身が過ごした80年代の摩天楼をこう振り返っている。
僕は何も分かっていなかった。ニューヨークに着いた79年の秋、僕はその後10年も続くことになるパーティの会場に足を踏み入れていたのだ。ウォール街のビッグマネーと、エリアやパラディアムのようなナイトクラブの時代の幕開けだった。ニューヨークの良き時代は、金融界の金とナイトクラブのコカインに侵食され始めていた。
そのワイルドなパーティは、1987年10月のブラックマンデーによって大打撃を喰らい、1989年には遂に不況期へと突入して終焉を迎える。
ヤッピーたちは「酷い二日酔いのような状態」で、90年代を彷徨う羽目になった。作家もすでにニューヨークに固執することもなくなった。
ニューヨークという場所は、常に「過剰」と言う原則によって成り立っている。過剰にビルが高く、過剰にやかましく、人は溢れかえり、危険に満ちている。それは今でも同じことだ。
『Bright Lights, Big City』の翻訳版がようやく日本で刊行された1988年、アメリカではこの小説がマイケル・J・フォックス主演で映画化。『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』として日本でも同年に公開された。脚本はマキナニー自らが担当しただけあって、原作そのままの世界観が描かれている。
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(以下、ストーリー含む)
ニューヨークの出版社の調査課に勤務する24歳の“君”(映画ではジェイミー/マイケル・J・フォックス)は、かつては希望に満ち溢れ、朝早く起きてパンを買いに行くような男だった。
しかし、今ではナイトライフと酒とコカインに明け暮れ、会社には遅刻し、仕事でもミスを連発して、女性上司から目をつけられるようになっている。最近は新聞記事で見かけた昏睡胎児のリアルな夢もよく見る。
その失意の原因は、数ヶ月前に何の予告もなしに、君との暮らしを捨てパリへと向かったモデルの妻のアマンダ(フィービー・ケイツ)であり、1年前に母親(ダイアン・ウィースト)を病気で亡くしたこと。
作家志望の君は、それでも書くことをしなければと、広告会社勤務の悪友タッド(キーファー・サザーランド)の誘惑を断り、まっすぐに帰宅して静かにタイプライターの前に向かう。だが、すぐにタッドが訪れてきて、いつものように夜のクラブへ女の子を探しに行く負のループ。
ある日のランチタイム。アル中の伝説の編集者の話に耳を傾けた後、ショーウインドウで、アマンダ似のマネキンを見かけて胸が張り裂けそうになる君。実はアマンダはパリから戻っており、数日後にファッションショーに出演することを知る。
タッドに招待状を頼むと、代わりに田舎から出てくるタッドの従妹ヴィッキー(トレイシー・ポラン)との食事を交換条件にされる。自分にはデートがあるらしい。正直気乗りのしなかった君だったが、ヴィッキーに会って話してみると、何か心安らぐものを感じ、別れ際に二人は優しくキスを交わす。
アマンダが登場するショーへ向かった君は激しく動揺してしまい、「なぜ家を出て行ったのか説明してくれ!」と叫ばずにはいられない。挙げ句の果てに、警備員に会場から追い出されてしまった。自分の妻なのに。
寂しさを、良き理解者である会社の同僚に求めようとするが、彼女は優しくたしなめる。虚しく帰宅すると、田舎から弟がやって来ており、母親の一周忌の約束を忘れたのかと責められる。君は母親との日々を、静かに思い出す。
タッドからパーティに出てこいと誘われる。そこにはアマンダも来ているそうだ。こちらはやっとの思いで再会したのに、一方であっけらかんとした彼女の第一声は、「調子はいかが?」だった。
もう笑うことしかできない君は、何もかもが嫌になってパーティを抜け出す。アマンダにお似合いなのは、タッドのような奴なのだ。君はヴィッキーに電話をして、母親が死んだことを言えなかったことを伝える。
夜明けの埠頭の倉庫街。男たちがパンの積み下ろしをしている。君はブランド物のサングラスと交換して、焼きたてのパンを手にした。ゆっくりとやらなければならい。君は何もかも初めからやり直さなければならない……。
文/中野充浩
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