パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト〜悪魔と取引して超絶技巧と名声を手にした男
『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』(Der Teufelsgeiger/2013)
この世には特定の分野で、圧倒的な才能で人々を魅了する者がいる。
だが、あらかじめ兼ね備えた天才でさえ、努力や屈辱や孤独の積み重ね、それを知らしめる手段があって、はじめてその領域に達するのが事実。我々が愛する音楽の世界も例外ではない。
しかし、その登場の仕方や技巧があまりにも驚異的だった場合、人々はこんな噂を流してきた。
「あいつは悪魔と取引をしたに違いない」
こう聞いて真っ先に出てくるのが、デルタ・ブルーズマンのロバート・ジョンソンだろう。クロスロードで魂を売って云々という、有名な伝説の持ち主。
熱心な音楽ファンなら、実はその100年以上も前に、“取引”をした人物がいたことを思い出すかもしれない。映画『クロスロード』のクライマックスのギター合戦では、奇しくもその男の音楽が取り上げられていた。
人間離れした超絶技巧で、19世紀前半のヨーロッパでスーパースターとして君臨したヴァイオリニスト、ニコロ・パガニーニだ。
「超自然的なものにならない限り、あれだけの技を身につけることは不可能だ」と人々はざわついた。演奏時のパガニーニは激しく表情をゆがませ、まるで異次元の力に取り憑かれているようにも見えた。
中には「彼のそばには悪魔が見える。両足が浮いている」と言いだす者もいた。コンサートでは気絶したり、泣き出す観客が後を絶たなかった。それほど大きな影響力を持っていた。シューベルトやリストはパガニーニを崇拝した。
『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』(Der Teufelsgeiger/2013年)を監督したバーナード・ローズは言う。
映画で、パガニーニを演じたのはデヴィッド・ギャレットで、現代のパガニーニとも称されるヴァイオリニスト。史上最年少の13歳で名門レーベルと契約。17歳でパガニーニの超難曲「24のカプリース」を全曲録音した天才だ。
1782年10月27日、オペラが盛んなジェノヴァ共和国に生まれたパガニーニ。幼少時代より父から厳しい音楽の訓練を受け、27歳の時には宮廷音楽家を辞めてフリーの演奏家になった。
1810〜12年頃まで、北イタリア各地の劇場で超絶技巧を披露していたが、観客の目当てはオペラだったので、幕間に演奏する彼は笑い者扱いされていた。
映画は、ナポレオンがライプツィヒの戦いで敗北した1813年。彼の才能を見抜く不気味な紳士、ウルバーニの登場から展開していく。
「君は帝国の支配者になれる。それには物語が必要だ」と誘惑し、一生の約束として契約書に署名させる。すぐさまミラノ・スカラ座でデビューを果たしたパガニーニは、興行的な成功と富を手に入れる。
その反面、ギャンブルと女と水銀に溺れる日々。ナポレオンの妹と浮名を流して殺されたかけたことや、カードゲームに没頭するあまり商売道具のヴァイオリンを賭けて負けたこともあった。愛に見放された破滅的な人生は同時に始まっていた。
1830年。イギリスの指揮者ワトソンは、ヴィルトゥオーソの先駆けとして人気絶頂にあったパガニーニのロンドン公演を企画。費用を捻出する。
宿泊先のホテルでは「悪魔の崇拝者、女たらし」と非難するデモ団体に邪魔され、ワトソンの自宅に向かったパガニーニは、そこで歌を勉強中の美しい娘、シャーロットに恋をする。
場末のパブでは、弦が1本ずつ切れるというパフォーマンスを披露し大喝采。居合わせたタイムズ紙の記者を虜にして、高額なチケットは次々と完売した。
ロイヤル・オペラハウスでは、シャーロットに自作のアリアを捧げたパガニーニだが、目的を見失う言動に対してウルバーニは冷淡な笑みを浮かべていた。「私は悪魔ではない。悪魔に仕える者で、お前が私の主人だ」……。
パガニーニは1834年にツアー活動を引退。1837年にはカジノ経営に乗り出すも、翌年封鎖。愛にも富にも恵まれず、息子を溺愛しながら故郷ジェノヴァで闘病生活を送った。
1840年5月27日死去、享年57。その後、ニコロ・パガニーニを源流とする大きな流れが生まれた。
文/中野充浩
参考/『パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト』パンフレット、『ロバート・ジョンソン クロスロード伝説』(トム・グレイヴズ著/奥田祐士訳・白夜書房)
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