ピンク・フロイド/ザ・ウォール〜ロック界にそびえ建つロジャー・ウォーターズの“壁”
『ピンク・フロイド/ザ・ウォール』(Pink Floyd The Wall/1982年)
すべての始まりは、1977年7月6日に行われたピンク・フロイドのツアー「In the Flesh」の最終日でのことだった。
モントリオールに建てられたばかりのオリンピック・スタジアムでの公演中。興奮した一部の観客たちが爆竹を鳴らし、殴り合っていた。
半年間にも及ぶ長いツアーで神経過敏になっていたロジャー・ウォーターズにとって、それは許し難い行為以外の何物でもなかった。さらにステージのそばにいた一人の男が叫び声を上げて騒ぎ始める。我慢の限界に達したウォーターズはついに、その男の前に向かいかがみ込むと、顔に唾を吐きかけた。
ウォーターズは自分の行為を後悔すると同時に、こう思うようにもなった。
「自分とオーディエンスとの間に“壁”を築きたい」
『The Wall』は、ピンク・フロイドというよりもロジャー・ウォーターズの作品だった。この物語は大きく二つのパートに分けられ、ピンクとして知られるロックスターの主人公が、自分の人生を回想するというもの。
最初のパートはウォーターズの幼少時代が反映され、溺愛する母親、弱い者いじめをする学校の教師、そして第二次世界大戦での父親の戦死などが扱われる。
物語の後半は、実際にロックスターとなったウォーターズの実体験に、1967年のデビュー当時、バンドのフロントマンでありながらパラノイアに陥って去っていったシド・バレットの凋落にヒントを得たもの。
いや、シドの亡霊に囚われたと言ってもいいだろう。主人公ピンクは、結婚生活の破綻と愛の喪失によって、ドラッグにより深く溺れるようになり、ホテルの一室でTVをただ眺める孤独な日々の中、やがてある狂気に蝕まれていく……。
『The Wall』はアルバム制作だけでなく、ステージショウと映画から成立するメディアミックス・プロジェクトだった。
他のピンク・フロイドのメンバーたちは、“ロジャー・ウォーターズの心の叫び”とも言えるその半自伝的内容と壮大な構想に困惑したものの、やるしかなかった。
バンドは、イギリスの莫大な税金対策のために行った、他人任せのベンチャー企業投資がほとんど失敗し、17億円近くもの大金を損失。破産寸前で早く次のアルバムを出して金を作らなければならなかったのだ。
ウォーターズはデモテープを、すぐさま政治風刺漫画家ジェラルド・スカーフに聞かせてキャラクターのイラストを依頼(長年アルバムジャケットを手がけたヒプノシスではなかった)。
スカーフの描くグロテスクな画がウォーターズの歌詞に影響を与え、新しい歌詞がまた新しいイラストを生むということが繰り返されていった。
こうして2枚組アルバム『The Wall』は、1979年11月30日に発売。レコーディングの間、ロジャーと他のメンバーたちの確執は深まるばかりだったが(リチャード・ライトの解雇)、出来上がった作品は、急降下する戦闘機の爆音から始まるロック・オペラ。
「こんなゴミみたいなの一体誰が聴くんだ?」
レコード会社の重役たちのそんな反応をよそに、11年ぶりにリリースしたシングル「Another Brick in the Wall (Part II)」が、イギリスやアメリカなどでNo.1ヒットを記録。
アルバムもすぐにプラチナディスクを獲得。今やアメリカだけで2枚組としては歴代最高となる2300万セット、世界で驚異の3000万セットを売り上げるに至っている。
レコードに続き、ロサンゼルス、ニューヨーク、ロンドン、西ドイツを巡回した29回のステージショウも圧巻だった。
400個の頑丈なダンボールで作られたレンガが積み上げられ、バンドと観客の間に高さ12メートルもある“壁”が、本当に築かれたのだ(エンディングで崩壊する演出)。
この前代未聞のショウは、50万席のチケットが完売したにも関わらず、セットに費用がかかりすぎて、赤字を出す羽目になった(2000年になってこの当時のライヴ盤が発売)。
映画『ピンク・フロイド/ザ・ウォール』の監督には、同じイギリス人でウォーターズと同い年のアラン・パーカーを起用。
二人が作った脚本はわずか35ページ。パーカーはこう言った。
「なぜ脚本なんかいるんだ? 音楽に語らせろ!」
余りにも短かったので、10ページほどの白紙ページが追加された。登場人物に一切セリフはなく、実写とアニメと音楽だけの95分。
主人公ピンク役には、ロジャー・ウォーターズ本人というアイデアもあったが、監督は却下。ブームタウン・ラッツのボブ・ゲルドフに決まった。
パンク世代のゲルドフにとって、スタジアム・バンドのピンク・フロイドは批判すべき対象だったのだが、一流のスタッフと仕事することの方に未来を感じたのだろう。
演技の経験などなかったゲルドフは、次第にピンクになりきった。シドのエピソード(体毛を剃り落とすシーン)や独裁者のシーンの撮影では、その気になりすぎて恐れさえ抱いたという。
映画は1982年7月に公開。MTVがスタートしたばかりの1980年代前半には、まだ早すぎたクオリティの高さもあって、当初は一般的に理解されずヒットとは縁遠かった。
しかし、ビデオ化されると多くの映像作家たちを刺激。特に英国バンド、例えばレディオヘッドなどは多大な影響を受けている。
ピンク・フロイドは『The Wall』で解散すべきだったという声もある。その後、メンバーは分裂(訴訟問題へと泥沼化)。ウォーターズ抜きの新生ピンク・フロイドは1987年にアルバムを発表し、興行収入記録を塗り替えることになるワールドツアーへ出た。
一方のウォーターズは、“ロジャー・ウォーターズの心の叫びPart2”とでも言うべきピンク・フロイド名義の『The Final Cut』(1983年)を経て、ソロアルバム『The Pros and Cons of Hitch Hiking』(1984年)や『Radio K.A.O.S.』(1987年)をリリース。
1990年には、ベルリンの壁崩壊を記念した「The Wall Live In Berlin」を開催。ゼロ年代になってソロツアーで「The Wall」の一部を披露したり、2010年には大規模なツアー「The Wall Live」をスタートさせるなど、ウォーターズの『The Wall』への拘りは続いている。ちなみに、その実施スケールは凄まじく、残念ながら日本では実現不可能な規模だ。
こんな混沌とした世の中ではとても終わらせることができないのだろう。2017年6月には、25年ぶりとなる新作『Is This the Life We Really Want?』を発表した。
文/中野充浩
参考/『ザ・ウォール』DVD特典、『ピンク・フロイドの神秘』(マーク・ブレイク著/伊藤英嗣訳/P-Vine BOOKS)
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