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ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男〜すべてを失いながら彼は1969年に伝説になった

『ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男』(Stoned/2005年)

ロックの歴史を振り返ろうとする時、1969年は非常に意味深い年として捉えられることが多い。

「激動の60年代最後の年」であるばかりでなく、ビートルズの実質的なラストアルバムがリリースされた年。

愛と平和と自由の象徴ウッドストックの開催と、それを覆したオルタモントの悲劇が起きた年。

のちにイーグルスが「ホテル・カリフォルニア」で、「1969年以降、私どもはそうしたお酒(Spirit/精神)は用意しておりません」と歌った年。

そして忘れられない出来事は、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが亡くなったこと。1969年7月3日、自宅のプールでアルコールとドラッグの過剰摂取による原因で溺死。享年27。

ブライアンの死は、一つの時代の終わりを静かに告げていた。それは60年代のポップスターやロックスターの相次ぐ死の始まりでもあった。

その後、1970年にはジミ・ヘンドリックスとジャニス・ジョプリン、1971年にはジム・モリソンやデュアン・オールマンが亡くなった。

『ブライアン・ジョーンズ/ストーンズから消えた男』(Stoned/2005年)は、ブライアン・ジョーンズの事故死を、“他殺説”の観点から描いた問題作だった。

死の直前まで一緒にいた住み込みの建設業者、フランク・ソログッドが1993年に「ブライアンを殺したのは私だ」と告白。

事実関係を検証する前に病死してしまったので謎のまま封印されたが、監督のスティーヴン・ウーリーが10年の歳月のリサーチを経て、この説を映画化した。

日本公開時の映画チラシ

1962年のロンドンで結成されたローリング・ストーンズ。その創始者、リーダーは紛れもなくブライアンだった。

数々の楽器を弾きこなす音楽スキルの高さ、男女の垣根を飛び越えた斬新なファッションセンスは、メンバーの中で最も強いカリスマ性を放った。

この金髪の美少年の前では、ミック・ジャガーもキース・リチャーズも垢抜けない子供のように見えた。まだボトルネックが何なのか、イギリスでは誰も知らない頃から、ブライアンは見事にスライドギターをものにしていた。

1965年9月、そんなブライアンに運命の出逢いが訪れる。

ドイツ公演でモデルで女優のアニタ・パレンバーグと恋に落ちるのだ。似た者同士の二人は意気投合し、カルチャー・ムーヴメント「スウィンギング・ロンドン」を象徴するカップルとなる。

しかし、ストーンズのソングライターやフロントマンは今やミックとキースで、そのことがブライアンを傷つけ孤立させてもいた。ポップスターとしてドラッグカルチャーに入り込む(逃げ込む)のは必然だった。

1967年。ブライアンとアニタとキース、運転手兼ボディガードのトム・キーロックは、イギリスでの体制とのトラブルから逃れるためにモロッコの旅へと出向く。

一方で、ブライアンとアニタの関係は、ストレスが悪影響して旅の途中で決定的に崩れ去り、遂にアニタは心を寄せていたキースを選んで逃避行を決断する。

民族音楽のジャジューカを録音する成果は生まれるものの、すべてを失ったブライアンの心はズタズタだった。

1968年11月、ブライアンはサセックス州ハートフィールドの家を購入(以前は『くまのプーさん』の著者A.A.ミルンが所有)。ツアー・マネージャーに昇格していたトム・キーロックは、家の内装や庭の工事をフランク・ソログッドに一任するが、実態はブライアンの世話役だった。

愛するアニタを失って以来、酒やドラッグに浸り切るブライアンは、新しいガールフレンドを呼びつけては虚しい現実逃避の日々を送る。

もはやスタジオやツアーといったバンド活動もろくに機能せず、散財するだけのブライアンに、ミックとキースは解雇を言い渡す。

10万ポンドとストーンズが存続する限り毎年2万ポンド支払うことが条件づけされるが、ブライアンは自分が作ったバンドさえも失ってしまったのだ。フランクも用無しになって失意に至る。そしてある夜、“その時”は起こった……。

改めてブライアンがいた頃のストーンズの演奏に耳を傾けてみる。その印象的な曲の数々には、あらゆる楽器を弾きこなして、“色気”と“魂”を注ぐブライアンの姿が見えてくる。

「Walking the Dog」のあの声も、「Little Red Rooster」や「No Expectations」のスライドギターも、「Paint It Black」のシタールも、「Lady Jane」のダルシマーも、「Ruby Tuesday」のリコーダーも、「Under My Thumb」のマリンバも、すべてブライアンの魔法のおかげだ。

今、ストーンズというとミックとキースを思い浮かべる人が多いだろうが、当時は大抵の人はブライアンと答えただろう。彼にはスタイルがあった。彼にかかると“粋”が本当に輝いて見えた。

ブライアンは弱くて、悩みを抱え、時には人をうんざりさせたが、彼こそがバンド名を考え、最初にプレイするものを選んだ。

僕らはブライアンのバンドで、彼がいなかったら、駆け出しのブルーズ・グループが世界最強のロックンロール・バンドにはなれなかっただろう。

──ビル・ワイマン(ローリング・ストーンズのベーシスト)

『ローリング・ウィズ・ザ・ストーンズ』(ビル・ワイマン著/小学館プロダクション)より

文/中野充浩

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