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時計じかけのオレンジ〜キューブリック監督が封印して25年も再上映されなかった衝撃作

『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange/1971年)

「最初はミック・ジャガーがアレックス役で、他のメンバーが仲間のドルーグ役をやるって話だった」

『時計じかけのオレンジ』DVD特典映像、パンフレットより

イギリスの俳優マルコム・マクダウェルがそう話すと、会場から笑いが起こった。講演に集まった人々には、ミックが政治家愛用の山高帽をかぶり、白い服を着てアイメイクをしている姿が容易に想像できたのだろう。

確かにドラッグ入りミルクを飲み、ロシア語と英語で作られたスラング「ナッドサット言葉」を多用しているロックスターも悪くはない。

当初はそういう案もあったらしいが、スタンリー・キューブリックの頭には、主役のアレックスは一人しか思い浮かばなかった。この暴力的な役を演じる俳優には、知性と無邪気さを醸し出せる絶対的な演技力が必要だ。マルコム・マクダウェルしかいない。

キューブリック作品の中でも社会を騒がせ、賛否両論の渦に巻き込まれた問題作といえば、『時計じかけのオレンジ』(A Clockwork Orange/1971年)だろう。

原作であるアンソニー・バージェスの同名小説を手渡された時、キューブリックははじめ難色を示して企画を却下した。

同じジャンルの映画を撮ることはなかったカメレオンのようなキューブリックは、常に革新的であり続けたかった。だからこそあの『2001年宇宙の旅』(1968年)の後に選ぶ素材は、意表を突くものでなければならない。

“性の解放”が叫ばれた1960年代から1970年代へ。時代の関心が“若者”や“暴力”へ向いているのが分かると、キューブリックは再び小説を手に取った。

バージェスの原作をもらったのは『2001年宇宙の旅』の撮影中だった。長い間、本棚に眠っていたが、ある晩ふと目にして読み出したら面白くて、一度も椅子から立ち上がらずに読み終えてしまった。

最初の章で映画になると思い、次の章で興奮し、それから何日かはこの本のことで頭がいっぱいになった。私は本選びには慎重で、いい加減な気持ちで仕事を始めたことは一度もない。惚れ込むことが必須条件だ。

『時計じかけのオレンジ』DVD特典映像、パンフレットより

映画会社からは低予算を提示され、ならば「そんな少ない額でも凄い映画が作れる」ことを証明しようと奮い立つ。ロケが多くなったのはそのためだ。

完璧主義者としても知られるキューブリックは、ひらめきが生まれるまで何度もリハーサルを重ね、スタッフや俳優たちを疲れさせた。

だが、映画作りへの情熱は止まらない。どんな人間からも、いいアイデアがあれば取り入れようとした。例えば映画の前半。アレックスたちが郊外の家を訪れて、そこの夫婦に暴力を振るうシーンがある。

「君は踊れるか?」

マルコムはそう言われてステップを踏んだ。でも何かが足りない。キューブリックはありきたりの“暴力描写”にしたくなかった。

「何か知ってる歌はある?」

マルコムは今度は「雨に唄えば」を歌い始めた。ジーン・ケリーのミュージカル映画で誰もが知ってるあの恋の歌だ。キューブリックは興奮して言った。

「それだ!」

日本公開時の映画チラシ

観る者の思考回路をかき乱す。普通、「雨に唄えば」から連想するのは、健全な歓喜のイメージだ。ロックの黄金期でもある1970年当時、ローリング・ストーンズやレッド・ツェッペリンではなく、古いミュージカルナンバーを使うそのクレイジーなセンス。

ちなみに『時計じかけのオレンジ』は、バージェスが実際に妻が“襲われた”体験がトラウマになって、書き始めたという鬱屈した原点がある。作家はこのシーンを観て何を想ったのか。

映画の前半ではこの他にも、ホームレスへの集団暴力や男根の彫刻を使った殺人など、悪行の限りを尽くす若者たちの姿が描かれる。不愉快極まりないし、ホームレスが嘆く「無法が蔓延る汚ねえ世界」そのもので腹が立つ。

一方で、サム・ペキンパーやマーティン・スコセッシが描くリアルな暴力と比べて、誇張されている点にも気づく。

完全に“様式化”されているのだ。目を覆うほどの残忍な映像があるわけではない。観客に血を見せなくても、「恐ろしい。法は無力だ」と思わせる一つの手法をキューブリックは編み出した。

映画は一種の白昼夢だ。それを事実と思って観ている者は誰もいない。制約のある日常生活では経験できない世界へ、空想の翼を広げるところに大きな意義がある。ただカメラを回すだけのリアリズムは意味がない。それだけなら誰にだってできるし、時間の制約のある映画でそんなことはしてられない。人生と世の中には一般にいうリアリズムでは処理できない精神的な何かがある。

『時計じかけのオレンジ』DVD特典映像、パンフレットより

映画の後半は一転、仲間の裏切りで刑務所にぶち込まれたアレックスが、新しい政府が提唱する「ルドヴィコ療法」の実験台となって、矯正されていくシーンが描かれていく。

投薬による嘔吐感と、強制的に提供され続ける暴力や性の映像。この試みは成功し、アレックスは別人のように静かで臆病な人間となる。機械化した人間。“時計じかけのオレンジ”の誕生だ。

出所したアレックスは、次々と以前“対面”した人々から痛めつけられる。瀕死の状態で助けを求めた先は、皮肉にも郊外の夫婦の家。

あの事件のせいで夫は障害を持つ身となり、妻は亡くなっていた。最初は親身になって接していたが、風呂場から聴こえる「雨に唄えば」のアレックスの歌声で、すべてが蘇って、どうしようもない怒りが込み上げてくるカットは圧巻だ。

そして、心酔していたベートーヴェンの『第九』にも拒絶反応を起こすようになっていたアレックスは、政府打倒を企てる男の復讐と思惑に耐えられず、遂に自殺を図るも失敗。映画はいよいよクライマックスに入っていく。

小説の『時計じかけのオレンジ』では“結末”があるが、映画ではその部分は排除されている。作家と監督の間で創作上の論争になったらしいが、そんなこと以上にこの映画は少年犯罪を誘発する可能性があるとして社会問題にまで発展。映画を真似た犯罪や悲劇が至る所で起きてしまう。

責任を押し付けられて批判が集まる中、さらに熱心な信者がキューブリックの自宅を勝手に訪れたり、脅迫状も送られる事態に。

妻と幼い子供たちがいたキューブリックは思わずフィルムを回収。イギリスではその後25年以上(1999年のキューブリックの死後まで)、再上映されることはなかった。

映画を改めて観ると、製作から45年も経っているのに、強烈なイメージは色褪せない。

音楽的には、モーグ・シンセサイザーを使ったウォルター・カルロス(現ウェンディ・カルロス)の仕事や、エルガーの『威風堂々』の使い方も欠かせないが、やはり1ミリのブレもないキューブリック・ワールドに圧倒される。

『時計じかけのオレンジ』は、こうして多くの人々の“記憶”と、今も闘い続けている。

文/中野充浩

参考/『時計じかけのオレンジ』DVD特典映像、パンフレット

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