失われた週末〜人はなぜアルコールや薬物やギャンブルに依存するのか?
『失われた週末』(The Lost Weekend/1945年)
前回の『酒とバラの日々』(1962年)では、アルコールに深く溺れて何もかもを失っていく男と女の姿、それでも現実を直視しながら、未来のために生きようとする人間の尊厳について考えた。
酒、薬物、ギャンブル……もう一度記しておこう。人はそれに取り憑かれてしまうとどうなるのか?
自己嫌悪に陥るたびに、自己再生を誓う。にも関わらず、それを得るためなら周囲に嘘をつき、自分を哀れみ、正当化し、大切な人を裏切る。
仕事や金を失い、家庭やロマンスを失い、時間と健康を失い、信頼と未来を失い……得るものといえば、卑劣な思考と悪夢のような幻覚、そして人生に対する不安だけだ。
やめたくても、やめられない。暗闇の中をずっと、手探りで浮遊しながら彷徨うこの状況。人間的成長が一時停止されているこの苦境。
そこは出口のない迷路。圧倒的な孤独な世界。抜け出す方法はただ一つ。光を見たければ、最後は自らの意思で壁をぶち壊すしかない。
アルコール依存症と真正面に向き合った最初の映画『失われた週末』(The Lost Weekend/1945年)にも、そんな葛藤と苦悩を繰り返す男の姿が描かれていた。
舞台はニューヨーク。主人公ドン・バーナム(レイ・ミランド)は、33歳で小説家。
と言っても、それで生計を立てているわけでもなく、書いている様子が一向にない。もちろん収入もあるはずがなく、早い話が兄のアパートに転がり込み、援助を受けながら居候している身だ。そして、酒がないと生きていけない極度のアル中でもある。
この週末、兄の計らいで旅行に発ち、自然の中で酒を断つ生活を送る予定でいる。しかし荷造りをしながら、ドンは窓の外に隠してある酒のボトルが気になって仕方がない。
恋人のヘレン(ジェーン・ワイマン)はそんなドンを献身的に支え、自分の問題のようになって考えてくれる天使のような存在。それでもドンは、旅行や恋人より酒を選ぶ愚かな選択をする。
行きつけのバーでツケで飲もうとする。断られると、書き手の命であるタイプライターを質に入れようとする。金がないので、人の持ち物に手を出す。他人から金を借りる。
悪循環が尽きた時、アル中専門の病棟に隔離されているドン。他の患者の様子を見て怖くなり逃げ出すものの、アパートでは遂に幻覚に襲われる。
どうしても酒がやめられない。ドンは自殺することを決断するのだが、そこへヘレンが戻ってくる……。
そのどうしようもない姿に、苛つく人もいるかもしれないが、大事なのは、なぜこうなってしまったか?を知ることだ。
酒、薬物、ギャンブルなどに、過度に溺れる者を代弁する言葉とは何なのか。その理由の一つとして、映画の中でドンがこんなセリフを口にした。
「なりたい自分になっていないからだ」
要するに、「かつて未来を期待された自分がいたのに、それに比べて今は」……という本音を吐き出す。
たいていの人は「こんなはずではない自分」と悲観的に向き合う羽目になった時、ストレスやパニックに陥って何かに依存していく。
最初は「これは仮の姿だから」と言い聞かせ、次に「いつでもやり直せるから」と言い訳し、気がつけば抜け出せずに、それが“本当の自分”になっている。
挫折の権威である作家、F・スコット・フィッツジェラルドの言葉を借りれば、「人生に抱いていた考えや世界観と、現実から受け取ったものとのズレ」が人の嘆きと失望を作り出す。デヴィッド・リンチ監督『マルホランド・ドライブ』は、そんな哀しみを女たちの立場から描いた衝撃作だった。
『失われた週末』の作家は、そんなフィッツジェラルドの言葉を知っていたのだろうか。状況を打破するために自分にできること=「酒瓶」という名の自伝小説を書こうと試みるシーンが印象的だ。
本作はアカデミー作品賞、アカデミー監督賞(ビリー・ワイルダー)、アカデミー主演男優賞(レイ・ミランド)、アカデミー脚色賞を受賞。また、映画音楽においてテルミンを使用した初めての作品としても知られる。
ドンは果たして再生できたのか。なりたい自分になれたのか。フィッツジェラルドはこう言った。
文/中野充浩
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