国立大学に通う僕のこれまでの人生

今日は僕自身を振り返ることでこの記事を読んでくださった皆さんに僕のこれまでの人生を紹介させていただこうと思う。

僕は地方のある小さな田舎町で20年前に生まれた。 
幼少期はブルドーザーが大好きな男の子だったと母親から耳が痛くなるほど聞いた。
保育園卒園までの記憶は鮮明でないので割愛させていただくが、先生に恵まれていたという印象だけがなぜかぼんやりと残っていて今でもその先生に会ったらどのような反応をされるのかとふと考えることがある。

小学校時代は年中半袖半ズボンで学校に通うようなワンパクボーイだった(笑)
休み時間は友達十数人と体育館でドッチボール、なんなら朝も早く行ってすることがあったほど体を動かすことがすごく好きだった。
勉強の面で言うと、計算がとにかく大好きで計算の速さを友達と競うことが大好きだった。新学期にピカピカの計算ドリルをもらうと1日で全部やるくらいすることも多かった。
テストは常に100点にこだわっていた。間違えたくないと言うかとにかく誰にも負けたくなかった。100点を取れば勝つことはあっても負けることは100%ないから。
地元の公文にも通い始めて、数学と英語を習った。割と真面目にやっていたので、小学校卒業までに数学英語ともに中学校卒業レベルくらいまではやった記憶がある。

中学校では部活は運動部に所属しながら勉強も手を抜かなかった。文武両道を先生は口うるさく生徒に言っていたが、僕にはそんなことは当たり前であった。
負けたくなかったからだ。
毎回の定期テストも国数英理社500点満点をとるためだけにワークを何周もやっていた。
生まれながらの天才ではないので今考えても努力していたと自負できる(笑)
部活でも県選抜に入ることに憧れてやっていたが呼ばれなくて一人泣いたこともあった。それだけ本気だったのだろう。
そんな日々を繰り返していると気づけば僕も人生初の受験生へとなっていた。

高校は隣の市にある偏差値68ほどの高校を受験した。
余裕で受かると先生にも言われていたし圧倒的な自信があった。
「なるべく高い順位で受かろう」なんて考えていたほどだ。

しかし本番、異変が起きた。
特に得意であった英語はいつも通りの手応えであったのだが、他の教科の手応えが妙におかしい。
そんなこんなで迎えた最後の科目数学。「全て取り返すぞ」と意気込んで試験に取り組んだが、途中の連立方程式が解けない。

『なぜだ』『連立方程式が解けなかったことなんてないのに』

そんなことを考え始めると焦る。
他の問題に手をつけるがどうしても解けなかった問題が気になって思うように進まない。
しかし時間は待ってはくれない。試験終了と同時に僕は感じた。

             「あ、落ちたかも。」


合格発表の日、僕は正直、点数は悪いだろうけど落ちてはないだろうと感じていた。
案の定、受かっていた。
一安心し、点数開示を聞きに行った。そこで僕は事実を初めて知って震えた。
点数がいつもの模試の時よりも100点ほど低くて、上位合格どころか例年の合格のボーダーを見るとおそらくビリから10番以内ほどだった。
数学の点数を目にした時に息を呑んだ。

                     ” 49点 "

これまでにとったことのない点数だった。半分もない。
これまでの自分にとって衝撃的すぎて受かったことなんて全く嬉しくなくなった。
それがきっかけで僕は東進衛生予備校に入ることを決めて、

「高校では誰にも負けない、見てろよ」と心に誓った。


高校生活はもっと濃かったので今回はここまでにします。
最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。

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