参議院選挙も近いので、ホラー投票ショートショート『ナナシノゴンベイ』をどうぞー!
『ナナシノゴンベイ』 渋谷獏
小雨の降る休日。
あたしは家の近くにある小学校に向かっていた。今日は市長選挙の日で、学校の校舎が投票所を兼ねていたのだ。
真琴小学校とある門を抜けて廊下を渡り、投票所代わりの教室へ入る。
入り口に鎮座する丸眼鏡の男が頭を下げた。こちらも一礼して葉書を渡すと、男はにっと猫のような笑みを浮かべて投票用紙と交換してくれた。
「あ、ありがとう」
「そちらで候補者を選んでくださいね」
あたしは教室の隅に設置された机に移動した。
村の老人たちは朝早くに投票を済ませたに違いなく、薄暗い教室には数名の職員を除いて誰も居なかった。
「うーん⋯⋯」
朧げな印象を思い出し、どの候補者を書こうかと思案する。二十歳になってから投票だけはずっとしてきたけれど、前の選挙でどんな奴を選んだかすら覚えていない。
「毎度のことだけど、選挙なんて誰が誰やらさっぱりだわ」
ザアァァァア───という音が聴こえた。
降って来たな⋯⋯。
大した雨でもなかろうと傘も持たずに出たのを後悔した。手にした鉛筆をくるくるくるくる廻していると、段々考えるのも億劫になってきた。
あたしは候補者の欄にナナシノゴンベイと書いた。
「どうせ誰がなっても大差ないわ」
用紙を半分に折り曲げ、何食わぬ顔で投票箱へ放り込んだ。
* * * *
* * * *
それから数週間後。
焼けるような強い日差しの下、母の言いつけで庭の草刈りをしていると、隣の家に住む真田くんが慌てた様子でやってきた。
「し、し、紫音ちゃん、こ、これ見たっ!?」
あたしは草刈り鎌を地面に刺し、彼の差し出すチラシを受けとった。そこには大きな活字で〔新市長、七篠権兵衛からのご挨拶〕と書かれてあった。
「誰よ⋯⋯こいつ?」
「ナ、ナ、ナナシノゴンベイだろ!」
大きな身体を上下させ、顔を真っ赤にして叫んだ。
「そりゃそうだけど、こんな候補者居た?」
「お、お、おいら、冗談で、ナ、ナナシノゴンベイって書いた!」
こいつもか⋯⋯。
あたしは自己嫌悪に陥りつつチラシに目を戻した。
そこには市長に選ばれたことへの感謝の言葉とともに、真っ黒なスーツを着た男が写っていたが、しかし肝心の顔が分からない。顔を覆い隠すように七七四という数字が刷られてあり、まるで正体が分からないのだ。
「いくら何でもふざけ過ぎじゃない?」
選挙に無関心な層を狙った偽名に違いない。あたしは姑息な手に引っかかった自分に腹が立ったが、決まってしまったものは仕方がない。
「どうせ誰がなっても大差ないわ」
「そ、そ、そうだよね!」
鎌を持ち直し草刈り作業に戻ろうとしていると、通りの向こうから喧しい声が聴こえてきた。
「本日から姓名を廃止し、ナナシ制度を実施致しますっ!」
一本道の向こうに小型のトラックが見えた。
七篠権兵衛と書かれた荷台の上で、真っ黒なスーツを着た男が拡声器でがなり立てている。どうやら噂の人物がやって来たようだ。
「ナ、ナ、ナナシノゴンベイの野郎だ!」
あたしたちは新市長をひと目見てやろうと待ち構えた。
「あれっ⋯⋯?」
徐々に近付いて来る連中はみな奇妙に見えた。光の加減かしらと目を凝らしてみたが、もはや見間違えようもない。車を運転する男も、その隣で手を振る女も、荷台の上に乗る七篠権兵衛も、全員顔が無かった。
無機質でのっぺりとした皮の上に、七七四という数字だけが刷られていたのだ。
「あ、あの顔って、のっぺらぼう!?」
あたしはびっくりして真田くんの大きな身体にしがみついた。
だがここで、イヤぁな事を思い出した。
子どもの頃に聞いた話だと、たしか身近の人間が次々とのっぺらぼうに変わるハズじゃ⋯⋯。
恐る恐る真田くんの顔をうかがってみると、
「そ、それって、こういう顔かい?」
振り返った彼の顔は、七七四と刷られたのっぺらぼうだった。
あたしは草刈り鎌を構えてあとずさりした。
「近寄るな、この化け物っ!」
「ええっ、そ、そ、そんな、酷いよぉ」
ぶんぶん鎌を振り廻していると、近くの村人がわらわらと顔を出した。
「どうしたんじゃ、紫音ちゃん?」
真田くんのお母さんの声で話しかけてくる中年女も、
「七七四くんが何か悪さでもしよったんか?」
腰の曲がったヨボヨボの爺さんも、
「お姉ちゃん危ないよぉ」
子守をするおかっぱ頭の少女も、
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
その腕に抱えられた赤ん坊も、
「わん、わん、わん!」
犬のジョンまでもが、七七四のゴンベイだ。
「何なのよ、あんたたちっ!?」
不気味な連中に取り囲まれ、あたしは手に持った草刈り鎌を振り廻した。
「ま、落ち着きなさい、お嬢さん」
「⋯⋯⋯⋯」
諸悪の根源である七篠権兵衛がトラックの荷台から降りてきた。
「このナナシ制度を導入すれば、皆が等しく同じになれるのです。ご覧なさい、顔という差異、姓名という自己が無くなったおかげで、分け隔てのない世界が実現しておるっ!」
我が家の前には、いつの間にか数十人の村人⋯⋯。
いや、七七四のゴンベイが集まっていた。
「我々は姓名を失った。それは敗北を意味するのか、否、始まりなのだ! 氏素性に支配され、真琴島は本土から幾世代にも渡る弾圧を受けてきた。公平なゲームを装ってはいるが、その勝敗の全ては生まれで決まる! 育ちで決まる! あの強欲でぶくぶくと肥え太った豚どもを玉座から引き摺り下ろし、同じ大地に這い蹲らせる唯一のシステムを広めるのだ!」
群がる七七四たちに向かい、七篠権兵衛は高らかに宣言した。
「あぁ、ナナシズムに栄光あれっ!!」
あたしは我が家に逃げ込み、扉の鍵を下ろした。
「お父さん、お母さん、どこに居るの!?」
縁側を通って各部屋の襖を開けていくと、鴨居に並ぶご先祖様の写真までが七七四の顔に変わっていた。
あの新しい市長の仕業に違いない。どういう仕掛けかさっぱり分からないけど、ブードゥーの黒魔術でも使っているに違いない。
奥の部屋からザアァァァア───という音が聴こえた。
そっと襖を開けると、砂嵐の映るテレビの前に父が座っていた。
「お父さん、顔、何ともない?」
あたしは恐る恐る父の背に声をかけた。
「ん、それって、こういう顔かい?」
と振り返る父の顔も、
「お茶が入ったわよ」
と湯のみを置く母の顔も、やはりのっぺらぼうだ。
「ひえぇえ、お母さんまで!」
「まぁ、落ち着いてこっちに座んなさい」
テレビの正面に座って卓袱台のお茶を啜ると、少し気分が落ち着いた。
父は籠の煎餅を一枚つまみ上げぽりぽりと齧った。どうやって食べているのかよく分からないけど、とくに支障はないらしい⋯⋯。
「みんなが同じ名前になれば、便利じゃないの」
お茶のおかわりを淹れながら母が言う。
「でも、でも、不便なことだって、あるでしょ!」
あたしが反論すると、父と母は七七四と刷られた顔を同時にこちらへ向けた。目も鼻も口もないから何を考えているのかよく分からないけど、たぶんきょとんとしていたに違いない。
「そうかね、わしらの名前なんて、お前から呼ばれた記憶はないぞ」
「わたしは皺が全部取れたから幸せよ」
確かに⋯⋯顔や名前のない気楽さは、それほど悪くない気がしないでもない。でも、あたしはそこそこ自分の顔も名前も気に入ってたし、いくら便利でもこんな無機質でのっぺりとした人間になるのは⋯⋯。
「お前の顔だってもう同じだぞ、七七四ちゃん」
「えっ、嘘、あたしは⋯⋯あたしは⋯⋯」
どれだけ考えても自分の名を思い出せない。七七四という数字だけが頭の中を駆け巡り、あたしの目の前はくるくるくるくると廻転した。
ブラウン管に浮かぶその顔は、やはり七七四のゴンベイだ。
ザアァァァア───という音が聴こえた。
丸眼鏡を掛けた男が心配そうに見つめていた。辺りを見廻すと誰も居らず、握りしめた鉛筆を手に薄暗い教室に立っていた。
「大丈夫ですか?」
男の顔には目も鼻も口も付いていた。慌てて自分の顔を撫で廻してみたが、どうやらあたしの顔にも目鼻が付いているようだ。
「今度はちゃんと選んでくださいね」
「は、はい⋯⋯」
男はにっと猫のような笑みを浮かべ、すたすたと席に戻った。
あたしはナナシノゴンベイと書かれた文字を消し、新しい候補者選びに意識を集中した──。
(了)