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Do You Know Me?(プロフィール記事)
知らない? そりゃそうだ。
だからプロフィールを読みに来てくれたわけで……。
ちなみにこの「Do you know me?」から、ジャック・ニクラス(プロゴルファー)が出演していたアメリカン・エクスプレスのCMを思い出す人がどれくらいいるのだろうか。
彼に成りすました芸人が両手に“湯のみ”茶碗を持ち、振り返りざまに「Do 湯呑み?」と言うネタがこのタイトルを付けた理由なのだが(ホント、どうでもいい導入だな、これ)この記事では自己紹介を兼ねつつ、noteで何を書いていく(いる)かについて触れてみる。
(初稿:2020年2月12日)
(更新:2020年4月6日)
映画好き
ぼくは、映画をよく観る。当然、好みはある。好物だけを喰らうのもいいが、好き嫌いの向こうにこそ“映画の醍醐味”はある(と信じている)。だから想像力と好奇心で“映画鑑賞の味蕾”を鍛えれば、味わいは深まり、未知の味覚を獲得できるかもしれない。自分にない味蕾(感性)は他人の食レポ(感想や批評)を参考にする。だから鑑賞後に語り合うのが好きだ。
すると、その映画を楽しめるかどうかの「要因は自分にもある」と気づかされる。普段の自分のモノ・コト・ヒトへの「接し方や思考パターンが反映される」と言い換えても良い。だから嫌いと言って切り捨てるのも、まっとうな批判(criticize)もいいが、まずはしっかり鑑賞(appreciate)したいと思う。簡単なようで、これが意外に難しい。そしてもし理解できなかったり、苛立ちや嫌悪感が生じたりしたときは、感性と教養を磨くチャンスだと思うようにしている。
そんなわけで古今東西さまざまな映画を観るが、インド映画の大ファンでもある。1987年、インドのカルカッタ(現 コルカタ)で『Mr.India』(主演 Sridevi&Anil Kapoor)というインド映画に魅了されて以来だ。
日本でもインド映画の人気が本格化してきた。『きっと、うまくいく(3 idiots)』『マダム・イン・ニューヨーク(English Vinglish)』などのヒットから、『バーフバリ(Baahubali)』二部作の大ヒットにつながり、2019年以降、多様なインド映画が数多く公開されるようになった。歌って踊るだけではない、インド映画の多様性とその豊穣な味わいに舌鼓を打っている人が着実に増えている。
だからこのnoteでも、映画全般の話はもちろん、インド映画について発信していく。
Tapasという名前の由来
Tapasとは、スペイン料理のアペタイザーではなく、インドの古代言語、サンスクリット語が由来だ。後述するが、ぼくがヨーガ行者を目指したときに付与してもらった名前で、ひとことで言えば「苦行者」とか「瞑想実践者」という意味になる。
多くの解釈や定義がなされてきているTapasには、情欲やエゴを象徴する「熱」や「炎」という意味もあり、それらを鎮めるための禁欲的な苦行を指すようになったらしい。念のために断りをいれておくと、まったくもって名は体を(そうありたいという志はあるものの)現していない。
カタカナでは「タポシ(TA-PO-SHI)」と表記している。
タブラ奏者のU-zhaanさんにお会いしたとき、この名前で自己紹介したら、すぐさま「ベンガルの名前ですね」と言われ、驚いた。自分の師(グル)がベンガル出身なのでベンガル語的発音にならっているのだが、ベンガル語を話せるU-zhaanさんは、すぐに分かったようだ。
登校拒否(不登校)
小中学生はそれなりに優等生だったものの、高校では入学式翌日から数日間、ぼくは登校を拒んだ。義務教育ではないので勝手にしろという話だが、半年後、行こうとしても行けなくなり、1年半程、ひきこもった。なんとか3回目の高校一年生は通いきったが、初めて二年生に進級した5月にぼくは高校を中途退学した。
だから在籍は3年と1ヶ月と通常よりも長く、ジャージと上靴の色もワインレッド、グリーン、ダークブルーと、オールカラーをコンプリートしている。
そんな“レアな体験”から学校や学びなどについても書いていきたい。
退学→放浪
高校を退学する際、大学入学資格検定(現在の高等学校卒業程度認定試験)を受けると決めていた。幸い一発で合格し(2年のダブりを1年取り戻し)同級生の一浪生と同じタイミングで進学を目指した。
この頃から映画が好きだったので、今村昌平の映画学校のガイダンスに行き、願書も書き、入学するつもりでいた。でもインド哲学への興味が勝り、東洋大学2部(夜学)の印度哲学科に入学した。ところが旅への誘惑と好奇心がそれをも上回り、5月には休学して渡豪。シドニーとパースで1年間暮らしたのち、日本には帰らずアジアを放浪し、彷徨った。
だから、このときの放浪体験なども綴っていきたい。
このとき、言いようのない引力と憧憬を感じていたインドの地を踏んだことで、ぼくはヨーガ行者になりたいという思いを募らせる。そんなわけで二十代は本格的な出家を目指し、何度もインドに足を運んだ。
そのとき学んだインド哲学やヨーガについても、自分なりにまとめようと思っている。
介護と看取り
ぼくは両親が40歳のときに生を受けた。だから成人と還暦を同時に迎え、同級生たちよりも早く親の介護に直面した。
まず、父がアルツハイマー型認知症になった。シモの世話はもちろん、ギリギリまで自宅で看た。やがて何でも口に入れてしまうようになり、いっときも目が離せなくなってからは施設を転々とした。その過程で誤嚥性肺炎を繰り返し、家族みんなで看取る中、病室で最期を迎えた。2008年夏、永眠。
それから母との二人暮らしになった。父亡き後、5年程は元気だった母も徐々に年老いていき、やがて癌を患った。胃の入り口が腫瘍で塞がり、食事が喉を通らなくなってからは、緩和ケア病棟への入院を勧められた。でも母は自宅で最期を迎えたいと願った。ぼくは母の願いを叶えるために仕事を絞りきった。今の日本社会で介護と仕事の両立は不可能だった。介護ベッドの下に寝ながら、数時間おきの体位変換やオムツ交換をする日々が続いた。
ある朝、ぼくは介護疲れで起きられなかった。そんな寝坊助の脇で、母は静かに旅立った。ぼくの寝息を聴きながら逝ったのならば、安心してくれたかもしれないが、ちゃんとお別れくらい言わせてほしかったと、しばらく母を抱きしめながら独り泣き崩れた。享年93。父の逝去から十年後の残暑厳しい晩夏だった。
こうした介護体験や終活などについても書き連ねてみたいと思っている。
グリーフケア
完全に独りになったとき(同居する猫は居るが)言いようのない悲嘆に押しつぶされ、夜中に独り泣き崩れてしまうようになった。喪失感から抜け出せず、鬱病と診断された。
しばらくして「グリーフケア」という言葉に出遭った。喪失と悲嘆に打ちひしがれている多くのかたと対話をした。その過程で「ロスとゲインは表裏一体」と気づけた。そこから少しずつ動けるようになってきたが、2020年現在、まだその途上にいる。
こうした喪失体験を踏まえつつ(すぐそこの孤独死の可能性をビシビシ感じながら)さまざまな思いを書いてみたい。
ラジオパーソナリティ
ヨーガ行者への道は、結婚したい女性に出逢い、途絶えた。ところがその結婚も婚約段階で自ら破談にしてしまった。それ以来、就職もしないまま(短期バイトも含めると30以上の仕事に手を染めながら)根無し草みたいな人生が続いた。
三十代後半からフリーランスとして独立した。パソコンのインストラクター、小規模LANの構築、Web制作などを請け負ってきた。まぁ、パソコンのなんでも屋とでも言ったほうが良いかもしれない。
そんなさなか、ひょんなことから地元AM放送局で番組をもたせてもらった。土曜午後の生ワイド番組でメインパーソナリティを務めた。辣腕有能ディレクターと優しくも仕事に厳しいプロ・アナウンサーやスタッフさんたちの支え無しにはできなかった。18ヶ月と短命番組だったが本当に貴重な体験になった。今でも地元のコミュニティーFM局で細々と喋り続けている。
ラジオで語りたいネタのテキスト・バージョンとしても、さまざまなエッセイを綴れたらと思っている。
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さて、ここでの自分語りにはこれくらいにして、あとは記事の中で😉
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