僕にとってBUMP OF CHICKENの楽曲はどういう存在か。「消費」と「会話」をめぐるその果てに。
※この記事はアニメとか小説で言うところの「本編」で、前に書いた記事は「プロローグ」に当たります。「本編」のあとに「プロローグ」を読めば、読み終わったころには「本編」の理解が深まっているでしょうし、「プロローグ」から読めば正しい時系列で「本編」を楽しめるわけです。
前回のダイジェストもこの記事に載せてますのでどちらを先に読むかはご自由にしてください(⌒∇⌒)
また、前回の記事から来てくれた方、この記事の★から読み始めると、メタ的なつなぎのない、前後編に分割する以前の本来の文章として読めます。
それでは「本編」に入りますね。
さて、ついさっきまでこの記事の「プロローグ」に当たる記事を執筆していたわけですが、その熱が冷めないうちに「本編」も書いてしまいたいと思います。(「本編」なので、量・質ともにガッツリ書きます)
前回の記事で「ラフメイカー」がYAHOOのトレンドランキング1位になったことに触れました。そしてそれを見た私が、「見て!やったよ!うちの子1位になったよ!!」なんて気持ちになったことを話しました。この太字の部分をもう少し掘り下げてみるのがこの記事の役割でしたね。早速本題に入りましょう。(^▽^)/
★以前(といっても2013年のことです)、ベストアルバムをリリースした際に「チャートの順位が1位になること」についてBUMPの4人がインタビューを受けていましたが、そこで藤くん(ボーカル・ギター・作詞・作曲を担当)は「俺たちやったよなってよりは、あいつ(曲)頑張ったなみたいな」と言っていました。その場のメンバー同士の会話でも、「自分たちが山を登っている感覚はない。」「(リリースした楽曲が)高い山を登っていて、それを双眼鏡で見て手を振っているような感覚。そいつが頂上に立ったのをみて”うちの子やったわ!”って喜ぶみたいな。(大意)」という感じでした。
また、ホームシップ衛生の埼玉公演(2008年5月18日)の模様がNHKで特別番組として放送された際には、『プレゼント』という楽曲をライブで初披露することについて、「”『プレゼント』っていうやつです。仲良くしてやってください” ってお客さんに紹介するような感覚なんですよ。だからやっぱりちょっと不安になりますよね。」という旨のことを言っていました。
BUMPのメンバーにとって、それぞれの楽曲というのはある種「我が子」のような存在なんだと思います。そして僕にとってもそれは同じような感覚で、自分にとってそれぞれの楽曲は「友達」、もっと言えば「昔からの親友」とか「幼馴染」のような感覚なんです(その楽曲を知ったのがつい最近であっても)。
「幼馴染」だから、一度疎遠になっても、何らかのきっかけでまた出会えば仲良く遊んだりします。つまり、しばらく聴いていなかった楽曲でも、ふとした瞬間に聴きたくなったりします。
そして、それぞれの楽曲にはそれぞれ異なる性格があります。でも顔や性格が多少違っても、彼らの魂の奥底を覗いてみると、みんな同じ色をしています。なぜならこの「幼馴染たち」はみんな兄弟で、彼らの親は共通しているから。その親の名前が他でもない【BUMP OF CHICKEN】
彼らはいつだって僕の味方をしてくれます。でも彼らには彼らの生活があるから、基本的には遠くで見守ってくれているだけ。でも僕がちょっと辛い思いをしているとき、気づいた誰かが寄り添ってきて「どうしたんだい?」なんて声をかけて励ましてくれる。そしてその「幼馴染」はどうやら僕よりも人生経験が豊富なようで、僕が辛いと感じたことも彼はすでに一度経験しているみたいなんです。だからアドバイスはいつも決まっていて、「辛いことがあっても、つまずいてこけたとしても、それでも立ち上がって進むしかないじゃない」って。誰が寄り添ってきても同じ言葉をかけてくれる。そして現実から目を背けることは決してしない。でも、気持ちの整理も付いてきて、身体の傷も治ってきて、ようやく起き上がろうとしたとき、ふっと顔を上げるとそこにはずっと待っていたかのように手が差し伸べられていて、「さあ行こうか」って言ってくれる。
僕にとってBUMPの楽曲たちがどういった存在なのか、伝わりましたかね?(笑)
いわゆる「普通の楽曲」、他のアーティストがリリースする「応援ソング」とか「恋愛ソング」っていうのは、「応援してほしい!」とか「失恋したから慰めてほしい!共感してほしい!」っていうときに聞くと、とても刺さると思います。自身の高ぶった感情をさらに増幅するのには最適な選曲になりえます。でもその状態にないときにはそこまで刺さらない。それは例えるなら「その場では仲良くなって、話も盛り上がったけど、以降全く連絡を取らなくなった人」のようなもので、そういう「普通の楽曲」はその場その場で「消費」されているように感じるんです。
「飲みの場で意気投合した初対面の人」や「大学の講義で同じグループになったことのあるあの人」くらいのつながりでは「友達」とは呼べません。BUMPの楽曲は、そうした一時的な付き合いではなく、より長いスパンで、ひいては人生を共にするような楽曲であるという意味で、僕にとってはある意味「異質」な存在なのです。
BUMP OF CHICKENと出会って、もう2年弱になりますが、毎日数時間はBUMPの楽曲を聴いています。「飽きたりしないの?」なんて聞かれたこともあります。でもこれほどまでにBUMPの楽曲を聴いていられるのは、やはり「楽曲の消費」という刹那的に行われる行為を目的としているのではなく、言うなればその楽曲との「会話」を楽しむために聴いているからだと思います。ここにBUMPの楽曲を「友達」とか「幼馴染」と呼ぶ由縁があります。オンライン上で記事を見つけてそれを読むことで時間をつぶす行為は「消費」と呼べるでしょうが、家族や恋人と会話をして時間をつぶしているときに、その会話を「消費」だと思うような冷え切った人間はそういないはずです。
ここまでの議論で、「普通の楽曲」では、一時的・刹那的・「消費」といった付き合いしかできないことを主張してきました。一方で、BUMPの楽曲は「幼馴染」や「会話」というキーワードを用いて人生単位での付き合いをしていると語ってきました。このミクロとマクロの対比を、手を変え品を変え、表現を変えて説明してきたわけです。
さて、まあまあの長文にもなりましたし、深夜テンションでもあるせいか、僕が物書きをする際に発動する独特の世界観が顕著に現れ始めたので、収拾がつかなくならないうちにこの記事を終わりたいと思います。
僕にとって、BUMP OF CHICKENの楽曲がどういった存在であるのか、少しでも伝われば幸いです。一つ注意しておきたいのは、今回はあくまで「BUMP OF CHICKEN」についてではなく、「BUMP OF CHICKENの楽曲」について説明しました。つまり、僕にとって「友達」がいかなる存在かは説明したけれど、そんな大切な友達の「親」についてはなにも話していないわけです。それはまた今度、僕に時間的・精神的な余裕が生まれたら、この記事に匹敵するかそれ以上の分量でお話しします。
ということで、「僕にとってBUMP OF CHICKENの楽曲はどういう存在か」については語り倒したので、次回からは楽曲の歌詞考察に入りたいと思います。「楽曲の歌詞考察」を今回の記事に即して言いかえれば、その「友達」の性格を紹介して、彼と僕との間でどんな「会話」が為されてきたかを紹介する、というコーナーなわけです。これもまたかなりエネルギーを使う作業なので、またしばらく更新できないと思いますが、気長に待っていただきたいです。
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かなりの長文になりましたが、最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。そして、(自分にも、あなたにも)お疲れさまでした。