自助 共助 公助
今回はMMTを離れて時事ネタ。
「自助・共助・公助」について
結論から言うと、税で賄われる公的な事業は、公助ではなく、自助共助である。
事業の費用を税で賄うとは、つまり支払いは国民なのだ。
さて、事業の現場で働くのは、政府や自治体なのか?
言うまでもなく、政治家も官僚も、役所の誰も、建設や介護の現場で働きはしない。
働くのは民間人なのだ。
つまり、まとめるとこうだ。
支払いは国民
実労動も国民
判子は公務員
もちろん、判子を押すのにも、認定作業があり、その事務負担は大変なものだろうが、、、その支払いが税金からなら、やっぱり支払いは国民、民間なのだ。
公からの助けは何処にあるのか?
政府の赤字支出が公助
あるとすれば、仕組みを設けて、支払う部分だろうが、そうすると、今の仕組みや財政が国民の助けになっているのか問わねばならない。
が、これはこれで長くなるので、取り敢えず公助と呼べるものを挙げておくと、支払い、の部分について、政府の赤字支出こそが公助だと言える。
通貨を発行するのは誰だ
政府の債務残高とは、政府が発行した通貨の内、税で回収せずに、民間部門に残した通貨の、累積の記録である。
逆に言うと、政府が発行しないと、私たちは通貨を持ち得ない。
個人には通貨発行権は無い。
借用書を発行する事はできても、それは通貨と呼び得るまで流通、通用する事はない。
残る手段は、家計や企業が、銀行から信用創造、借金をして、預金通貨という決済手段を持つよりなく、極めて不便かつ不安定な事態に陥る。
やがては、例えばビットコインのように、通貨と言うには極めて不安定な決済手段に頼らざるを得なくなる。
政府の支払い能力
政府は自国通貨での支払い能力は、ほとんど無制限と言って差し支えない(もちろん無限に発行すると、それで買える商品、買いたい商品が無限にない限り、無意味だが)。
政府がその支払い能力を国民の生命と財産を守る事に使うなら、それは公助と言える。
国民に支払いを依存する公助
が、現在は、消費増税や社会保険料の値上げで、家計に支払わせている。
つまり、公助の意味が、公が家計を助ける、のではなく、家計が公を助ける、に変質している(一方で、法人や高額所得者は、法人税や所得税の減税や、分離課税で、支払いは抑制されているので、企業部門と富裕層を、公が助けている、とは言える)。
PB黒字化とは、支出の赤字(政府の国債発行を通じた通貨発行)を無くしていく、という話なので、公助を減らすという事なのだ。
政府が自助共助を求める事がそもそも政府の存在理由を自己否定してかかる行為に思うが、そもそも公助とされている事が本当に公助なのか。
政府の責任回避
公共の目的やニーズを、税で賄うとは、支払いと労働を国民に任せる事なので、つまり公助なき自助と共助の世界である。
ベーシックサービスを増税、特に消費増税で賄う論があるが、そうした論は公助を無くして、今よりも自己責任の割合を増やしてしまうだろう。
自己責任、地域責任、政府責任、とでも言おうか。
政府債務でなく、税で賄うとは、これらの割合から、政府責任の割合をゼロにしてしまう。
税の負担を、痛みの分かち合いと言いながら、政府は何も分かち合わなくて済む。
痛みの分かち合いの実態
企業や資本家は、人件費を抑えて利益を出して税を収める事ができるが、それは痛みを分かち合っているのだろうか?
法外な報酬を得て、多額の消費と消費税を支払うと、痛みの分かち合いなのか。
低賃金で社会の必要とする物やサービスを生産しながら、低賃金な労働者に、更に消費増税を求める事は、対等な痛みの分かち合いと言えるのか?
むしろ痛みの押し付けだろう。
税で支え合いを考える無意味さ
そもそも、国民に共通の目的やニーズを満たすのは、税金ではない。
税金を集めておいとけば、税金がオムツを替えてくれたり、コンクリを打ち込んだりしてくれるのだろうか?
そんな訳はない。
共通の目的やニーズを満たすのは、人々の生産活動である。
つまり、需要に応えて働いている時点で、痛みは分かち合っているのだ。
助け合う為に困難を作り出す不毛さ
しかも、そもそも生産活動は、苦役ではなく自己実現の側面もある。
痛みを社会の必須要素として語る必要が何処にあろうか?
水をかけ、扇風機を当てて凍えさせれば、人々が互いに暖め合う理想の光景が現出するとでも言わんばかりだ。
おっと、某財政学者の批判になって来てしまった。
今回は、公助は実在するのか、するならそれは何なのか、それは政府の赤字支出である。
というお話でした。
追記
Twitterで、うまい例えを見つけました。
学校の授業で、自助は自習。共助はクラスメイトに教わる。公助は先生が教える。
政治が自助共助公助で、自助を強調するとは、自習や友達同士の教え合いで分からなければ、仕方ないから先生が教える、という様なもの。
いや、最初から先生が教えてよ、という話です。秀逸です。
これにあやかると、本稿の内容は、公助とされている事の実態は、生徒が先生に教科書の内容をレクチャーして、その後に先生から教わっているかの様で、それは公助ではなく、自助共助を回りくどくやってるだけだ、という話になります。
生徒から知識を貰わずに、生徒に知識を授けるのが、普通の授業です。
生徒から教わってから授業をするのを、クラスの助け合い、痛みの分かち合いなどとは言いません。
つまり、税金を集めてから支出するのを、公助とは呼ばないのです。