アーレント謎の概念"natality"=「出生」?:最近公刊のアーレント本も含めて整理する&「反出生主義」との関連は?NO.1
0. はじめに
アーレント関連の書物が立て続けに公刊されています。
『アーレント読本』をはじめ、研究書が3冊も登場しました(私も微力ながらその一端を担わせてもらいました)。研究者以外にも関心をもたれている方は多いのではないでしょうか。
アーレントに限らず、"誕生"というテーマも世間の注目を集めています。昨年はベネターをはじめとする「反出生主義」への注目度(同意するにせよ批判するにせよ)が界隈でぐっと高まりました。また、出生率が著しく低下した世界で北アメリカに誕生したキリスト教系の全体主義国家を舞台にしたディストピア小説『侍女の物語』(1985)が2017年からHuluで新たにドラマ化され、作者のアトウッド自身がその反響を受けて書いた続編『誓願(Testaments)』も出版されるなど、世界的に注目を集めています。
2020年、世間の話題はもっぱらcovid-19に集まっていますが、不安定どこではない社会状況もありますし、コロナ禍における出生率という問題ーー「出生率」という、それ自体が出産推奨主義的(natalistic)にも見える言葉の問題を含めーーもありますから、当然「誕生」というテーマも放置できないものになるでしょう(ちなみに、"natality"は、一般的な用法としては「出生率」を意味するようです)。
そこで、そろそろアーレントの"natality"概念(「出生」と訳されることが多い)についても一定の決着を着けておきたい、というのがこの記事の趣旨です。「出生」という訳語の問題を含め、"natality"という概念の様々な解釈を整理しつつ検討していこうと思います。
また、このような記事で公開しようと思ったのは、アーレントのnatality概念に関する基本的な情報を可能な限り多くの人に開くためであると同時に、こういう整理は単純作業になりがちなので、その作業を楽しくポップに進めるためです(この作業の上でやるべき仕事は、先日「哲学オンラインセミナー」でプレ発表させていただきましたし、延期中の某シンポジウムで発表予定です)。
1. "natality"って形容詞の名詞化だけど、、、?
アーレントの"natality"という用語について、次のような疑問をもった方も少なくないのではないでしょうか。
・"natality"って"natal"という形容詞の名詞版だけど「出生」なの?ん?
・「出生」という意味だとして、「誕生(birth)」という用語との関係は?
・"natal"の名詞化(natal+ity)としては「〇〇性」になるのでは?
・そうだとしても、"natal性"って何なんだ?
こういう疑問を抱きつつも、「まぁ専門家が言うなら……」ということで疑問を呑み込んだ方もいらっしゃるでしょう。しかし、こうした疑問はあながち間違いではないと思います。あるいは少なくとも、こういう素朴な疑問こそスルーしないというのが哲学的、学問的態度というものでしょう。以下ではこういった疑問をできるだけ晴らしていきます。
2. 日本における「出生」という訳語
日本で「出生(natality)」という翻訳が広く浸透したのは、志水速雄による翻訳(『人間の条件』ちくま学芸文庫)によるところが大きいでしょう。志水による翻訳は、精確さと読みやすさを兼ね備えた「名訳」と呼びうるものだと思いますが、時代的な制約もあり、今では使われていない訳語がいくつかあります。
例えば、"activity"という用語です。志水訳では「活動力」と訳されています。しかし、これでは「労働」、「仕事(制作)」、「活動(行為)」を行うための力や能力を意味することになってしまいますので、今では「活動」や「営み」などと訳されることが多いです。また、"plurality"も「多数性」と訳されていましたが、マジョリティという意味の「多数」を連想させてしまうためか、現在は「複数性」と訳すことが一般的です。
そんな中で、「出生」という訳は志水訳からずっと受け継がれています。
(くどいようですが、"plurality"も「複数"性"」だし、"mortality"も「可死"性"」なのに、"natality"は"性"ないの?という疑問も忘れないでおきましょう)。
「新生」や「出生性」、「誕生性」という翻訳もありますが、これらの訳語については後に検討するとして、ひとまず、「出生」という翻訳が支配的だと考えておいてよいでしょう。そこで、こうした背景から距離をとるために、少し海外の文献に目を向けて紹介してみたいと思います。
3. トチュニッグによる先行研究の整理
参考にするのは以下の文献です。
Wolfhart Totschnig. “Arendt’s Notion of Natality. An Attempt at
Clarification.” Ideas y Valores 66, n.° 165 (2017): 327-346.
http://www.scielo.org.co/pdf/idval/v66n165/0120-0062-idval-66-165-00327.pdf(URLから無料で読めます)
研究者としては不満の残る解釈ですが、海外の先行研究の整理としてはよくできていますし、また、副題が「an attempt at clarification(明確化の試み)」となっているのも「アーレントのnatality概念ってよくわからんよね〜」という発想が前提になっているように思えて好感がもてます。
海外の研究を一望することで、"natality"が一筋縄ではいかない用語であること、「natality=出生」という理解が安易にアーレント解釈の前提にしてしまえるようなものではないことは、少なくともはっきりすると思います。
Totschnig(以下、トチュニッグ)が先の論文で上手く整理するように、アーレントの"natality"概念の不可解さは、次の2点に集約されます。
・natalityは、"生まれる/生まれてきた"という「人間の条件」である
・natalityは、新しく始める(行為actionする)能力の源泉である
これら2つの定義めいたものがいかにして重なり合うのか、いかにして統一的に理解されうるのか、アーレントはあまり明示的に論じていません。なので、この辺りをどう理解するかがアーレントのnatality論解釈の争点になります。
*なお、とりわけ後者について、もう一つの難問があります。
アーレントは『人間の条件』や『活動的生』で次のように論じています。
・「行為の能力は存在論的にnatalityに根差している」(HC: 247)
・「これ(Natalität、Geborensein)こそ、何か行為といったようなものがそもそも存在しうるための存在論的な前提である」(Va: 316)
(前者が『人間の条件』から、後者が(そのドイツ語版の)『活動的生』からのものですが、両者とも同箇所からの引用です)。
アーレントはnatalityを存在論的なものとして論じているわけですが、この「存在論的」の意味がもう一つの難問であるわけです。
そして、私の立場としては、natalityを安易に「誕生」や「生まれること」と同一視しないという点ではトチュニッグ論文に賛同しますが、「存在論的」の意味をほとんどスルーしているという点では不満が残る、ということになります(この点については本稿の最後で扱おうと思います)。
3-1. natality=生物学的な誕生?
トチュニッグは先の論文で、"natality"を「生物学的な誕生」と同一視する解釈について検討するところから始めています。
まぁ、猫も虫も鳥も魚も人も、母体からであれ卵からであれ、生まれるものであるという発想からすれば、わかりやすい解釈なのかもしれません。
しかし、〈natality=生物学的な誕生〉という解釈は、この解釈を採用する論者からさえ、一定の疑問を投げかけられてきました。
そういった疑問をかなり早い時期に提示したのはマーティン・ジェイです。トチュニッグも引用する箇所をジェイから引用しておきましょう。
「〔アーレントが〕しばしば「誕生(birth)」を、あるいはアーレントがそう呼ぶことに固執する「natality」を、〔新しい始まり〕のプロトタイプとして強調することによって、行為(action)は自然的世界のリズムに結び付いてしまうが、その自然的世界のリズムは、アーレントが通常、労働する動物の領域として謗るものである」
ジェイの批判は要するに、
アーレントは、ゾーエー(生物学的生)とビオス(人間的な生)を厳密に区別し、公的空間において「行為と言論」をするビオスを特権化するのに、natalityという生物学的生に属す事柄だけは称揚するの?どういうこと?
ということです(トチュニッグは触れてませんが、アガンベンなんかもより自らの思想に引きつけつつ同様の疑問を示しています)。また、面白いことに、ジェイは"natality"という表現そのものについても難色を示していますね。
実は、ジェイの解釈は〈natality=生物学的な誕生〉という誤読に基づいています。トチュニッグはまずもってこうした誤読を斥けることでジェイの抱いだ疑問を解消しています。そして、トチュニッグもそうするように、この誤読を斥けるには、次の箇所を『人間の条件』から引用することが最も効果的でしょう。
自然と、あらゆる生き物が自然によって押し込められる円環的運動は、我々が理解するような誕生も死も知ることがない。人々の誕生と死は、単純な自然的出来事ではなく、個々の人々が、すなわち唯一無比で、代替不可能で、繰り返し不可能な存在者たちが、現われては立ち去る(depart)世界と関わっている。誕生と死は、絶えざる運動の中にはない世界を前提にしており、その耐久性と相対的な永続性が〔人々の〕現われ(appearance)と消え去り(disappearance)を可能にする。(HC: 96f.)
ここでアーレントは、誕生と死が人々の生に固有のものであり、また、人間が生まれたり死んだりすることができるのは、無数の制作物によって築き上げられた永続的な世界との関係においてのみである、と論じています。人間の死や誕生は自然的、生物学的な出来事ではなく、また、世界をもたない動物や植物には死も誕生もない、ということです。(この箇所を読むと、私はいつもアウシュビッツに象徴される絶滅強制収容所のことを想像しますが、世界との関係が断たれてしまうところでは、人間もまた、生まれることも死ぬこともできない存在者にされてしまうのではないでしょうか)。
「natalityは生物学的な誕生である」というジェイ(ら)の解釈が誤読であるということは、この引用から明らかでしょう。
〈natality≠生物学的な誕生〉をひとまずの成果として、ここで少し日本の研究に触れてみたいと思います。というのも、先のジェイからの引用は日本のアーレント研究でもある種の分岐点になっているように見えるからです(トチュニッグ論文に日本のアーレント研究に関する言及はありません)。
3-2. natality=非-生物学的な誕生?
『〈始まり〉のアーレントーー「出生」の思想の誕生』(岩波書店、2010)
においても著者の森川輝一(敬称略)は、先に引用したジェイによる批判を取り上げつつ、natalityを生物学的な誕生と同一視するジェイの誤読を指摘しています(森川, 2010: 356)。森川による記述を引用しておきましょう。
この解釈は、ジェイが批判の対象としている『人間の条件』における「出生」概念には妥当しないが、人間の多数性を「誕生」ではなく生殖と結びつけていた『〔全体主義の諸〕起源』初版のアーレントの発想の問題点を言い当てているのである。(森川, 2010: 356)
森川はここで〈natality=生物学的な誕生〉というジェイの解釈を斥けています。先述した理由から、この点に関して私は森川に同意します。
その一方で、森川は、natality を「誕生」の換言として、「出生」すなわち人々一人ひとりが「世界に生まれてくる born into the world」こと」(森川, 2010: 281)として解釈しています。
それゆえ、森川の解釈は〈natality=非-生物学的な誕生〉と、とりあえず定式化しておくことができます。こうした森川の解釈は、日本アーレント研究会編『アーレント読本』(法政大学出版局, 2020)の「出生」の項目でも維持されています。
ちなみに、『アーレント読本』とほぼ同じ時期に出版された、
戸谷洋志・百木漠『漂白のアーレント、戦場のヨナス――ふたりの二〇世紀 ふたつの旅路』(慶應義塾大学出版会、2020)
におけるnatality解釈は、森川の指摘にも拘らず、ジェイの誤読(〈natality=生物学的な誕生〉)に逆行してしまっているように見えます。
「ただし、この「第二の誕生」への衝動は「私たちが生まれたときに世界のなかに持ち込んだ『始まり』から生じている」とも、アーレントは付け加えている。これは、われわれがこの世界に生まれてきた「第一の誕生」のことを指しているのであろう。そうであるとすれば、「言論と活動」に伴う「第二の誕生」は、生物学的な「第一の誕生(出生)」にその起源を持っていたということになる」(戸谷・百木:109-110頁)。
百木がなぜこのような読解をしてしまったのかは本書を読んでも正直よくわかりませんでした。ヨナスとの関係なのか、『全体主義の諸起源』初版との関係を読み込んだのか、、、。いずれにせよ、百木による箇所が『人間の条件』に関する記述である限り、〈natality=生物学的な誕生〉という解釈は受け入れがたいと言わざるを得ません。
ところで、ジェイは"natality"という表現そのものにも違和感を示しています。「アーレントが固執する呼び方」であると言っていました。ジェイ自身は明示していませんが、その違和感とはおそらく、natalという形容詞の名詞化であるnatality(「natalであること」)がbirthと同義であるということの違和感でしょう。
そうだとすると、〈natality=非-生物学的な誕生〉(&その意味でアーレントのnatalityを「出生」と訳す)という森川の解釈では、少なくともジェイの違和感には答えきれない、ということになります。
もちろん、ジェイの違和感に答えきれていないという理由だけで、森川の解釈を斥けるだけの十分な理由にはなりませんが、一つの指標にはなると思います。そして、実は、こうしたジェイの違和感に答えうる解釈が日本にもあります。詳細は、本稿の最後で触れたいと思いますが、2つ挙げておきましょう。
一つは、森一郎による解釈です。
『人間の条件』のドイツ語版『活動的生』の翻訳者である森一郎は、その訳註でアーレントのnatality(ドイツ語ではNatalität, Gebürtlichkeit)を次のように解釈しています。
「「出生性Natalität」という、生まれ出づる者たちの始まりをはらんだ存在性格(森訳、508頁)。
もう一つは、齋藤純一による解釈です。齋藤は『アーレント読本』の「自由」の項目で『過去と未来の間』(cf. BPF:193)から適切に引用しつつ次のように論じています。
「アーレントは、人間には世界に新しいはじまりを導き入れることが可能であることを「出生(natality)」という言葉で表現した。これは、「誰もが生まれることによって世界に入り込み、誕生によって世界が絶え間なく更新されていく事実」を指す」(齋藤『アーレント読本』223頁)。
森と齋藤の記述は互いに少しずれているようにも思えますが、いずれも、natalityを、始まりの可能性を有するという人間存在の事実やあり方のことを意味する概念として解釈している点では共通しています。また、その意味で、両者とも〈natality=生物学的な誕生〉というジェイの解釈および〈natality=非-生物学的な誕生〉という森川の解釈から距離をとっています。そしてそれは、少なくとも、〈natalであること〉としてのnatalityという語で表現するのに適しているように思えますし、「出生」という訳語が不適切であるような意味内容でしょう。(結論を先取りしてしまえば、だいたい以上のような理由で、私はnatality(ドイツ語では、Natalität, Gebürtlichkeit)は「出生性」や「誕生性」といったように、「性」という、特徴や性質を表す語を付けて訳すべきだと思いますし、実際『アーレント読本』の『人間の条件/活動的生』の解題で私はnatalityを「誕生性」と訳しました)。
日本の研究同行についてはひとまずこれくらいにして、トチュニッグ論文に戻って話を進めようと思います。
(続きは以下から:https://note.com/taoki0046/n/nf0b7f0ac00a4)
3-3. natality=始める能力(the capacity to begin)?
3-4. natality=新参者が次々に世界に到来すること?
4. 反出生主義と「人間の条件」としてのnatality
5. おわりに
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