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人生の目的は「幸せになること」なのか?
こんばんは。
寒くなってきましたね。いよいよ冬が来たなって感じがします。
すっかり更新をサボってしまいました😅
このポストのテーマは
「人生観」
です!
久しぶりの投稿で割とヘビーなテーマですが🤤
最近の学びの中で「そうか!」と思わず膝を打ったのがこの話だったので、記憶が薄れないうちに残しておきます。
「人生観」とはなにか
そもそも日常会話であまり使わない言葉ですね。「人生観(ジンセイカン)」。
仲の良い友人や会社の同僚と飲みにいったときに、二次会の中盤ぐらいから語り出すテーマですかね🍺少なくとも一次会で話すようなネタではないので…。
まぁ、平たく言えば
「自分が生まれて来た意味って何だろう?」
とか
「ここから先、自分はどのように生きるべきなんだろう?」
についての「個人的な見解」でしょうか🤔
言い換えれば「人の一生は何のためにあるのか」という根源的な問いに対する自分なりの「答え」ですかね。
そういうのを引っくるめて「人生観」と呼ぶんじゃないかと思います。
*****
たとえば
「自分は●●を成すために生まれて来たのだ」
あるいは
「自分は死ぬまで●●をやり通す!これこそが私の人生だ」
と言い切れる人ってたまにいますよね。立派な人とか。
こういう人は人生の「答え」を自分自身の行動レベルにまで落とし込んでいるので強いです。ブレないです。そこまで達する人ってなかなかいないと思います。あ、もちろん私もそんな立派な「答え」は持っていません。ブレブレです🤣
でも。
いまはまだそんな「答え」を持ってないけど、今後こういう考え方に立って歩めば、いつか自分も自分なりの「答え」=「人生観」を見つけられるかな?っていうヒントを教えて貰ったので、これは多くの人に共有したい!と思ってこのポストを書いてます。
「人生の目的」は「幸せになること」か?
話は変わりますが、過去、会社の研修や社外のセミナーで、こういうシーン(問答?)に出くわすことがありました。実体験です。
講師:「さて質問です。皆さんは、なんのために働くのですか?」
受講者:「それは、家族を養うためです」
講師:「では、なんのために家族を養うのですか?」
受講者:「えっ・・・、それが私の幸せだからです」
講師:「では、なぜあなたは幸せになりたいのですか?」
受講者:「えっ、えーと・・・それは・・・幸せになりたいから??」
講師:「そう、私たちは皆、究極的には”幸せ”になりたいんです」
「なんのセミナーだよ」というツッコミはさておき、私たちの人生におけるあらゆる行動の「目的・理由」を突き詰めていくと、それは必ず「幸せになること」である。と。
つまり、
人生の究極の目的は「幸せになること」である。
これがあたかも「人類共通の見解」であるかのように言われていました。
*****
・・・これって、どう思いますか?
いやもちろん間違ってはいないと思います。
「むしろ幸せになんて、ならない方がいいんだ!」
とかナゾの天邪鬼になるつもりもないですし、幸せであるに越したことはないと思います。
でも「それがオレの人生の究極の目的でええんか?」とも思うわけです🤔
なぜかと言うと。
そもそも「幸せ」ってなんだっけ?
醤油のCMじゃないですが、そもそも「幸せ」って何だっけ?という話です。
私はいま会社員をやってます。定時に帰宅して家族と暖かい食卓を囲み、寝るまでの時間をリビングでソファーに寝そべってアイスとか食べながらダラダラ過ごす時間が最高に幸せです。(定時に帰れるのは非常にレア度が高いので尚更)
あるいは、大好きな東洋思想を学び、学んだことを他の人と分かち合ったり新たな気づきを得ることに至福の幸せを感じます。
これはあくまで私個人の「幸せ」です。もちろん上の2つ以外にもたくさん幸せを感じることはあります。皆さんにも色んなカタチの「幸せ」があると思います。世の中には上のような「幸せ」を手に入れたくても入れられない方が沢山いることも知っています。だから今の状況には感謝するしかありません。
ありませんが。
「人生の究極の目的」達成済み?
思い出してください。
人生の究極の目的は「幸せになること」である。
これが「人類の共通理解」であると言いましたが、本当にこの言葉通りであれば、私はもう定時に帰れた瞬間に「人生の究極の目的を果たせた」ことになります。
人生ゲームで言えば「あがり」ってやつです。まだあと人生何十年もある(はず)のに。
「いやいや、別にそれでええじゃないの。何が不満なのよ?」
という内なる声も聞こえます。それは仰る通り。こんな幸せを得ていながら、これ以上何を望むのかと。分不相応も大概にしろよと。
それどころか
「そんな小さな幸せでお前は満足なのか?もっとビッグな幸せ掴もうぜ!」
という内なる声や外野の声には断じて「NO」を突き付けてきました。
だって、怖いじゃないですか。
幸せの定義なんて人それぞれ。「幸せの”大きい小さい”ってどこ基準だよ?」と思うわけです。「もっと大きな幸せを」とか余計なお世話ってもんです。
いま自分が手にしている「幸せ」よりももっと大きな「幸せ」を求めようと欲を出した結果、道を踏み外したり、分不相応な「幸せ」を手に入れようとしてかえって不幸になったり。そんな話は探せばうんざりするほど世の中にあるわけで。私はそんな欲深くない!(と思っている)
既に「幸せ」を手にしているなら、ヘタに欲を出さずそれを「キープ」する
これが最適な戦略だとずっと思ってました。
「俺は決して悪魔の囁きには決して乗らないぜ!」的な。
でもこれって、見方を変えてみると
自分の「人生」から「追求」という行為を奪うことにもなっているとも言えませんかね。
人が何かを追求する姿勢って美しいと思います。人間国宝の方や、大谷翔平選手、ノーベル賞を受賞した人達を見ればわかりますが、すごく健全で、創造的で、エネルギッシュで、何かに夢中になって生き生きとしています。
「人生、守りに入ったら終わり」だなんて言いますが、これって「幸せを追求する」フェーズから「幸せを維持する」フェーズに転換した状態を指すんじゃないでしょうか。
ただ「幸せ」を追求しただけなのに、なぜこんな結果になるんでしょう。
個人的な仮説ですが、
「幸せ」には「リファレンス」がない
というのがあるんじゃないかと。
「幸せ」ってリファレンスすなわち参考にしたり目指すべき「基準」がないんですよね。だって人によって幸せの定義はバラバラだし、他人にとって「幸せ」を感じることが自分にとって「幸せ」だと限らないのは誰だって分かります。だから「今以上の幸せ」と言われても何を参考にして追求すればいいのか分からない=怖い=足が止まる。ということがあるんじゃないかと。
「幸せ」の追求でなく「境地」の追求という提案
東洋思想では「人生の目的」は「境地の獲得」にあると表現します。
この通りドンピシャの表現が東洋の古典に書いてあるわけではないのですが、儒教や仏教、禅、老荘が主張していることが「自己の修養」にあることを考えれば自明です。
自己の人格や精神をどこまで高められるか。東洋思想では、その基準としてリファレンスになるのが聖人や偉人の言行、あるいは「精神」です。リファレンスは実在の人物じゃなくてもいいんです。理想像ですから。
儒教で言えば、孔子や孟子、尭舜禹、あるいは五常(仁義礼智信)とか。
仏教で言えば、お釈迦様。あるいは四聖諦、八正道とか。
禅で言えば、無とか空とか般若とか。
「あの人ならこう考える」「あの人だったらこうする」
「こういう時にこんなセリフが言えるようになる」
「こういう時にこんな行動ができる」
これが「境地」なんだと思います。
宮沢賢治が残した詩「雨ニモマケズ」には次のように書かれてます。
雨にも負けず 風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだを持ち
欲はなく 決して怒らず
いつも静かに笑っている
東に病気の子供あれば 行って看病してやり
西に疲れた母あれば 行ってその稲の朿を負い
南に死にそうな人あれば 行って怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろと言い
独りの時は涙を流し
寒さの夏は おろおろ歩き
みんなにデクノボーと呼ばれ
ほめられもせず 苦にもされず
そういうものに わたしはなりたい
これぞまさに「境地」って感じですよね。
また「論語」には以下のように書かれています。
子曰わく、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がう。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。
これ自体は有名な言葉ですが、とくに「境地」という観点で見ると凄いのは70歳のところです👇
「七十にして心の欲する所に従って矩(のり)を踰(こ)えず」
これって「自分としては自由奔放・好き勝手に振る舞っているつもりなのに、まったく道徳の規範から外れない」っていう境地です。70歳でこの状態に達するってすごくないですか?スーパーで万引きを繰り返して警察の厄介になっているご老人、刑務所に戻りたいがために罪を犯すご老人とは大きな違いです。
まとめ
「幸せを追求する」という人生観は不可欠だと思います。これがないと人生に張りと潤いがないからです。でもそれだけだと、ある年齢、どこかの時点で多くの人が「追求」型の姿勢から「維持」型の姿勢に転換してしまうんじゃないでしょうか。私もそうでした。いま十分幸せで、ヘタにさらなる幸せを追求して逆に失うのが怖いから。
そこで「幸せ」とは別に「境地」を追求するという人生観を加えてはどうでしょうか。「境地」ならいくら上を目指しても決してマイナスになることはありません。なんせ「自己修養」ですから。生涯をかけて自分がどこまで到達できるかだけの話です。そこに他者は一切関係ありません。
そして、そんな「境地」のリファレンスとして東洋の古典は最適です。ガイドブックみたいなもんです。人生論だけでなく組織論、経営論、戦略論、教育論、創造論とあらゆるジャンルの境地が揃ってます。
もちろん西洋の古典にもリファレンスとなるものはたくさんありますが、私たち日本人はどこまでいっても東洋人なので、「しっくりくる」というか、より身体に馴染むのは東洋の古典なんじゃないかなーと個人的には思います。
おまけ
「境地」の追求を日本では「道」と呼びますね。茶道、華道、柔道、野球道・・・。人間国宝の方も大谷翔平選手も「幸せ」を追求したというより「境地」を追求したんだと思います。
おしまい。