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日本人のための古典の勉強法①

前回までの記事で

「日本人は世界で最も勉強しない人たちである」

そして

「現代に生きる私たちは、いま何を勉強すべきなのか」

という2点について紹介してきた。

※前回までの記事はコチラ👇

これまでの記事を読むと「ああ、なんて日本人はダメなんだ・・・😰」と自信を無くしてしまう人もいるかもしれない。

だが今回の記事で自信を取り戻せるかもしれない。いや、少しでも自信を取り戻してほしい。

この記事のメッセージは1つだ。

「古典の叡智を今に活かす」という点において、日本人は世界で最もポテンシャルがある。


とくに、以下にあてはまる方には是非読んでもらいたい。

古典に興味はあるものの、どうやって勉強したらいいのかわからない。
古典の現代語訳を読んだこともあるが、正直あまりピンと来なかった。

はじめに

はじめに断っておくが、この記事で取り扱う「古典」とはズバリ「漢籍」のことだ。

漢籍のイメージ

漢籍とは「史記」「論語」「老子」「孫子」「貞観政要」など、(主に)古代中国で「漢文」で書かれた書物を指す。

古典」=「漢籍」と聞いて

「古典って、てっきりソクラテスとかカントとか、そういうのかと思った!」 
「日本人なら古事記とか源氏物語じゃないの?」

と、この時点で「思ってたのと違う!」と感じた方もいるかもしれない😅。確かに西洋の古典は普遍的で学びが多いし、古事記も源氏物語も日本人のアイデンティティを語る上で欠かせない書物だ。

でも漢籍は、間違いなく現代の日本人に多大な影響を与えている古典だ。東洋の古典を代表する書物として是非この機会に目を向けてほしい。

で、ここからが本記事の主題だ。

私たち日本人が持つ「古典へのアクセス能力」は、じつは世界で類を見ないほど超絶チート級なのだ。

具体的に何がチートなのかというと、

漢字で雰囲気がつかめてしまう

ことだ。

『何を言っているのかよくわからない』と思うが、以下の漢文を見てほしい。

子曰。
「学而時習之。不亦説乎。
 有朋自遠方来。不亦楽乎。
 人不知而不慍。不亦君子乎。」

『論語』 学而第一より

これは「論語」の冒頭の文章だ。有名なので知っている人もいるかもしれないが、初見だと何を言っているかサッパリだと思う。でも文章をよくよく眺めてみると、中には知っている文字や単語があることに気づくはずだ。

例えば以下のようなものだ。

「学」「習」「遠方」「楽」「君子」

これらの字に気づければ、「学ぶとか習うとか、これは勉強っぽい話かな?」とか「遠方ってことは、距離に関する話題かな?」とか「君子・楽ってことは、組織とか偉い人の話かな?」といった具合に、正確な訳は分からないけど、知っている文字を拾うだけでも文章のテーマとか雰囲気が何となく分かる気がしないだろうか。

ちなみにこの文章が書かれたのは紀元前5世紀頃だ。

つまり(義務教育を受けた)日本人であれば、誰でも二千年以上前の書物に書かれた内容を「雰囲気」でダイレクトに読めてしまうのだ。これが日本人の古典へのアクセス能力」の一端だ。

このチート能力、「天空の城ラピュタ」で例えるとこんな感じだろうか。

ムスカ 「読める!読めるぞ!」

「天空の城ラピュタ」 (c)1986 二馬力・G

ONE PIECE」で例えるとこんな感じだろうか。

ポーネグリフを読むニコ・ロビン

(c)尾田栄一郎/集英社

漢字が読めることが、そんなにスゴイのか?

「いやいや、漢字がちょっと読める程度で『古典へのアクセス能力』とか『超絶チート』とか、ちょっと大げさ過ぎじゃない?」

と思った方もいるだろう。本当に「大げさ」なのだろうか。

続いて以下の文章を見てほしい。

これはソクラテスやプラトンがいた時代、つまり古代ギリシア語で書かれた文章だ。

お茶の水女子大のHPより画像引用

さて、この文章を見て先ほどの漢文のように知っている単語を拾い読みながら内容を「雰囲気」で理解できる西洋人はどのぐらいいるだろうか?

正解は「ほとんどいない」。

もちろん、その手の専門家や、高度な教育を受けたエリート知識層なら読めるであろうが、その割合は西洋社会全体で見ればごくわずかだ。

ソクラテスと孔子は同時代(紀元前500年頃)の人物だ。

そして繰り返しになるが、義務教育が終わった日本人で漢字が全く読めない人は『ほぼいない』。

つまり、紀元前5世紀に書かれた書物を、かたや西洋では読める人がほとんどいないのに対し、東洋(日本)ではほとんどの人が読めるというわけだ。

さて、ここまでの話で色々とツッコミたくなる人もいると思うが、ひとまず以下2つの疑問(ツッコミ)を先にあげておく。

1) 漢字が読めるのって別に日本だけじゃないでしょ?
2) そもそも原文を読むのがそんなに重要なの?現代語訳を読めばよくね?

以後、これらの疑問(ツッコミ)に対して順を追って答える。

日本発!漢文の読み方イノベーション

突然だが、ここで「漢文の読み方」をおさらいしてみよう。

「おさらい」と言っているのは、ほとんどの日本人は中学や高校の古文の授業で「漢文の読み方」を習っているからだ。なので、今から紹介することは義務教育を受けた日本人なら誰でも知っている(ことになっている)はずだ。
※余談だが、私の周りで古文の授業が好きだったという人は一人もいない😅

先ほど例に挙げた「論語」の冒頭文で説明すると、漢文の読み方は左から右へとこんな感じで進化(?)していくと教わったはずだ。

漢文の読み方の進化

まず、図の左端にある原文そのままの文章を「白文」と呼ぶ。

続く「訓読文」は、日本語の語順にあわせて白文に「送り仮名」と「返り点」を付加したものだ。

その次の「書き下し文」は、「訓読文」を一定のルールにしたがって、さらに読みやすくなるよう書き下したものだ。

最後の「現代語訳」は「書き下し文」を現代語風に訳したものだ。

さて、この中で注目すべきは「訓読文」と「書き下し文」だ。

この2つは、なんと日本人が日本人のために発明した「日本オリジナル」の表記法なのだ。

「訓読文」と「書き下し文」があるのは日本だけ

訓読文が生まれたのは奈良~平安時代とされている(※諸説あり)。当時、中国から大量の漢籍が日本に輸入されるようになったのはいいが、日本の知識人でも白文のまま読むのはさすがにツラかった。

なぜツライのかというと漢文は「表意文字」の漢字だけで構成されているので、読む順番を間違えると本来の意味とは真逆の意味に解釈できてしまうことが多々あるからだ。

中国の知識層は白文のままスラスラ読めるので、当時の日本は中国からわざわざ講師を呼び寄せ、白文の読み方を指南してもらったりもしていた。

やがて当時の日本人は「送り仮名」と「返り点」という画期的なシステムを発明し、漢文の読み方を日本流にアレンジ・標準化することに成功した。これにより、日本人の漢籍へのアクセス能力が飛躍的に向上した。その後、訓読文をさらに日本語の文法に合わせてさらに読みやすくしたのが「書き下し文」だ。「書き下し文」の登場により古典を読む敷居がグッと下がり、知識人だけでなく一般庶民までもが気軽に古典にアクセスできるようになった。

つまり「訓読文」と「書き下し文」は、古典の叡智を後世の人が手軽に利用できるように、日本の先人が創意工夫の末に産み出した大発明(イノベーション)なのだ。 

訓読文も書き下し文も、原文のエッセンスを丸ごと残したまま読みやすいという点が実に優れている。

一方、中国ではこのようなイノベーションが起きなかった。そもそも中国は社会構造上、知識人層(士大夫)と非知識人層との断絶が大きく、白文のままでも読める知識人層の知識を、非知識人層にまで拡大する必然性が生まれなかったのだ。

2024年の現在、漢字を使っているのは日本・中国・台湾の3国だが、現在の中国人・台湾人で漢籍の「白文」をダイレクトに読める一般人はいない。現代の中国語とは文法も使っている漢字も全く違うし、読む順番もサッパリ分からないそうだ。(あと、中国の知識人層は中共が誕生した時に皆いなくなってしまったという事情もある)。

ということで

「訓読文」と「書き下し文」は漢籍を原文のエッセンスを残したままアクセスできるツールである。
「訓読文」と「書き下し文」を使えるのは日本だけ。

ひとまずこの事実をよく覚えておいてほしい。

その上で、もう1つのツッコミに答える。

原文が読めなくても現代語訳があればよくね?

おそらく、ここが本記事で最大のポイントになるだろう。

原文を現代語に翻訳した書籍が既にあるんだから、それを読めば何が書いてあるか分かるんだし、べつに原文にこだわらなくてもいいんじゃないか?

ただでさえ忙しい現代人がそのように考えるのは当然だ。手っ取り早く『結果』だけもらえば済んでしまうコトは世の中いくらでもある。

古典(漢籍)において『結果だけもらう』というのは、先ほど使っていた図で示すとこういうことになる👇

誰かが現代語訳したものを見れば十分?

要するに、誰かが汗をかいて翻訳して現代語に訳した「結果」を享受すればショートカットできるよね?という話だ。

実際、こういった現代語訳本が出ているのは、まさにショートカットの一例といえる。

原文を現代語訳した論語の解説書

原文が読めなくても現代語訳があればよくね?

このツッコミは「西洋の古典」についてはその通りだと思う。

苦労して自分で原文を現代語(例えば英語)に翻訳しながら読み解いて内容を理解するのと、誰かが英語に翻訳したものを読んで内容を理解するのとでは、得られるものはあまり変わらないのではないな。なぜそう思うかというと、西洋古典は「表音文字」で書かれているからだ。

ここが西洋の古典と漢籍の大きな違いだ。

漢籍の原文にあたることの最大の意義は「漢字」にある。

先ほども述べた通り、漢字は「表意文字」だ。これは「文字そのものに意味がある」ということだ。一方、アルファベットの「A」とか「K」は「文字そのものに意味はない」。

文字そのものに意味がある

これの何が重要かというと、文章を読んだとき「読み手によって解釈の幅を広げられる」ことにある。

もっと端的に言えば「いくらでも深読みができる」ということだ。

そう、この「深読み」こそが古典の叡智を現代に活かす上で不可欠なのだ。

例えば先ほどから例に挙げている論語の冒頭文、よくある現代語訳はこんな感じだろう👇

先生がおっしゃった。
学問をして、機会のあるたびに復習する、
なんと喜ばしいことではないか。

『論語』 学而第一(現代語訳)

極めてフツーだ。


うん、それはそうだね」としか言いようがなく「毒にも薬にもならない」文章だと思わないだろうか。

誤解なきよう断っておくが、私はこのような現代語訳が一切無だとか意味がないとか主張するつもりは毛頭ない。たとえば「孫子」のような実用的な漢籍は現代語訳でも十分役立つし「史記」も現代語訳で十分に学びが多い。ただでさえ疎遠になりがちな古典へのアクセスの敷居を下げるのに、現代語訳が果たす役割はとても大きいと思う。

ただ、せっかく忙しい合間を縫って古典を読むのに、それを実生活に生かせるのか?役に立つのか?という点でいえば、漢籍の現代語訳はぶっちゃけ効率が悪いと思う。

古典は数千年前に書かれたものが現代まで淘汰されずに残ったものなので、内容は非常に普遍性に富んでいる。そこには「原理原則」しか書いてないので、それをそのまま現代語に翻訳すればどうしても「当たり前のこと」になりがちだ。その結果「毒にも薬にもならない」文章になるのは、ある意味仕方がない。

また、そもそも「漢字を読むこと」自体のハードルが極めて高い西洋人や他の国の人たちには漢籍の現代語訳は需要がある。深読みできるほど漢字に慣れていなければ、無理せず現代語訳を読んだ方がよい。

しかし、表意文字としての漢字の表現力と奥深さを幼少期から肌感覚で理解している日本人であれば、古典を深読みし、その叡智をもっと現代に生かしてもよいのではないか。

せっかく先人が発明してくれた日本人のための「訓読文」と「書き下し文」というチートツールがあるのだから。

「古典の深読み」とか、そんなことで実際に成果出した奴なんて存在するの?www

実は私たちが思っている以上に古典の深読みで成果を上げた日本人はたくさんいるし、その成果の恩恵を私たちは今でも享受している。

次回は「古典の深読み」の具体的な方法と「古典の深読み」による成果を紹介する。

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