パラダイムシフト 平安 篇
今昔物語集 vol.004 藤原氏列伝(下)において、藤原 時平について記していた。
浄瑠璃や歌舞伎の世界でベストセラー、かつ今の世にまで受け継がれロングランとなっている『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の影響で、藤原 時平というと悪の権化のように思われがちだが、延喜の治を支えた殊勲者として名宰相であったことに疑いはないことは述べた通りだ。
ひるがえって見ると、菅原 道真は家庭を省みることもなければ、遊びも知らないという、とにかく勉強しかしないという堅物であった。道真と時平の年齢差は、なんと26歳差である。
勉強に勉強を重ね、堅物の道真が五十歳を超えて、権大納言と右近衛大将を兼ねて学問の分野から政界に君臨しようとしたちょうどその頃、藤原 時平がようやくデビューする。弱冠十六歳である。
大貴族の藤原氏の嫡流である北家に生まれ、まさに平安の貴公子としての名をほしいままにしていたが、当時はまだ「女がすなる(たしなむ)もの」とされた和歌に没頭して美女を探しては恋歌ばかりを詠んでいた。和歌が女のたしなむものとされた理由は、それが女性言葉とされていた「ひらがな」で書かれるからであり、当然、時平も「ひらがな」で恋歌を量産していたものと考えられる。
一方の道真はというと、当時の一大先進国である中国(唐)の文献を読み漁っていた。つまりは、漢文の勉強ばかりをしていた。もちろん、道真ほどの知識人であるから、和歌に興味を示すこともあったが、ひらがなで書かれた和歌をわざわざ漢字で書き直すという徹底ぶりである。
漢(おとこ)と書いて漢と読む。
男の中の男。
道真の世界観の中では、漢とは、漢字マスターを指すのだ。
さて、菅原 道真は三十二歳で文章博士となり、着々と学問により出世を果たしていくのだが、四十歳を超えたころに讃岐守に任じられ、政治家としての現場仕事も体験している。
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