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仕事じゃないんだよ、人間関係は 篇

1. 富の源泉は信用

 チノアソビ本編でも、何度か触れてきたが、富の源泉、つまりお金持ちになるための一番の近道は、信用を得ることなのであります。

 悪い大人たちがよく使う「お金持ちになるために必要なのは信用である!」という論理において、もっとも使用される陳腐な例は次のようなものです。

「1万円札の原価は22円なんだよ。22円の紙を1万円として使用できるのは、人々がそれを1万円の価値があると信じているからなんだよ。だから、信用が金になるんだよ」

 この三段論法は、一見、非の打ち所がないように見えるんですが、では信用とは何なのかという部分に一切、踏み込んでいないんですね。価値論としてのマネーと信用との関係性を語る上では薄っぺらい、拝金主義の成金がいかにも使いそうな例です(こういうこと「だけ」を言う大人に出会ったらご用心、ご用心)。

2. モースの『贈与論』

 では、価値論としての富の源泉「信用」とは何なのか。

 そのヒントとなりそうなのが、マルセル・モースが著した『贈与論』にあります。日本では明治期に、政府の助っ人外国人教師として来日し大森貝塚を発見したモースが有名ですが、彼はエドワード・モースといい別人です(以下、モースという表記はマルセル・モースを指す)。

 モースは、アメリカの原住民やパプア・ニューギニアなど原始社会により近い生活を営む人々の生活構造を明らかにすることで価値論について考えました。ちなみに、最近、ラノベなどで魔力の源泉として使用される用語「マナ」も、呪術について論じる際にモースが創造した概念です。

 『贈与論』において、モースはポトラッチ(アメリカ大陸北西岸部の先住民が行なっていた儀式)やクラ(パプア・ニューギニアにおける交易)などの物の交換の構造を分析することで、経済学法学、果ては宗教に還元できない「全体的社会的事実」の概念を確立しました。

 もう少し簡単にいうと、贈り物を受け取ったらお返しをする、というのは日本人だけでなく、世界中のあらゆる文明において義務的に行われてきました。つまり、あらゆる社会で贈り物(贈与)とお返し(返礼)が価値の交換として存在していたわけです。貨幣経済、つまりお金、マネーが普及していない形態の社会では、物だけでなく労働も含めた交換がなされ、人々は何かを贈られたら「急いで返さなくちゃ、もっと返さなくちゃ」という競争的な全体的給付体系(ポトラッチ)の中に生きていました。

 さらにモースは、これら贈与の体系には、

① 贈り物をする

② 贈り物を受け取る

③ 返礼をする

という三つの義務が含まれていると言います。つまり、鶏が先か、卵が先かの話になりますが、贈り物をする人には贈り物をする理由があるんですね。誕生日が来たとか、子供が生まれたとか、成長して学校に進学したとか、就職したとか、結婚したとか。こうした理由があるときには、人は義務として贈り物をしなければならない

 そして、これらの贈り物は受け取らねばならないんです。

「いやいや、そんな。私なんて」

とか謙譲しない。今でもおめでたいときの贈り物は「祝儀」と言いますが、こうした贈り物は意味づけが行われており、すなわち、呪術的な、霊的な力があり、受け取らないと呪われてしまう

 そしてこうした呪術性を宿した贈り物には霊的な力があり、元の所有者のところに戻ろうとする力があるため、贈られた物にふさわしいお返しをしなければならないと考えられていたわけです。

 モースは、こうした全体的社会的事実の存在を明らかにすることで、現代の資本主義における社会主義的な修正が、過去の道徳や制度への回帰であり、社会全体で共生、連帯するためには、贈与の体系を取り戻す必要があると主張したんですね。

3. 仕事じゃないんだよ、人間関係は

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