グローバリズムの誤謬 -脱ア論再考- 篇
「世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、至る處、草も木も此風に靡かざるはなし。」
1885年(明治18年)3月16日、福沢諭吉が主催する新聞、『時事新報』の社説に、上の書き出しで始まる論文が掲載された。社説の筆者は福沢諭吉その人であり、論文の題名には「脱亜論」とある。
周知のように、「脱亜論」とは、「日本よ、アジアから脱出せよ」という旨を主張する論文である。その論文の内容は、過激という語彙を用いて表現せざるを得ないのであるが、「脱亜論」が、かように過激になってしまった理由としては、福沢自身が、かなり大胆な物言いをする性格だったことに依拠している。
たとえば、あるとき福沢はその生徒に対して、君はどういうつもりで文章を書いているのだ、という趣旨の質問を投げかけたという。そのとき、弟子は、
「私は子供にも分かるように、平易な文章を書くよう心がけています」
と答えた。すると福沢は、それはイカン、と言い、
「私などはサルにも分かるように文章を書いている」
と述べたという。ひょっとしたら、小西議員は福沢を引用したのではないかと思われるほど過激だ。
実際にサルが福沢の文章を読めるはずもないので、この福沢の表現は誇張以外のなにものでもないのだが、いかに福沢諭吉という人物が大胆な表現方法を用いていた人物かという一つの証左でもある。
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