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大黒伝説 予兆 篇(2)

 現在は、ごく普通のサラリーマンにして良心的な父親、かつ献身的な夫となってしまった大黒くんの、若き日の波乱万丈の物語、第二弾です。前回をお見逃しの方は、ぜひ、第一稿から読み始められることをおすすめします。


 さて、大黒がSocial Cafe を通じてTAOにチラホラと顔を出すようになってから幾許かの時が過ぎた。時は2006年。Social Cafeは、当初、まだ、大学が学生の就職支援に大々的に取り組んでいなかったこともあって、「キャリア・デザイン講座」というタイトルを持っていた。そこでは大学生のための就職活動対策プログラムを中心に実施していた。

 主に、九州大学福岡大学西南学院大学の学生を20名程度、集めて実施していたのだが、このキツネ目の男は、就職活動そのものには大した興味もなく、ただ、

「いやぁ、人と知り合えるのが楽しくて来てるんですよねェ、ぐへへへへ。」

という具合で、プログラムそのものよりも、講座の後に開かれる懇親会での出会いを目的にSocial Cafeに通っているようにみえた。初期のSocial Cafeを客観的に総括してみると、主催者である、ぼくたちにとっても、受講者である学生にとっても、不毛な時間を過ごしたものであったと感じている。

 何せ、ぼく自身が、

「就職活動とは、4年間の大学生活を問われるのみにとどまらず、それまでの20年間の人生の中身を問われるのだッ」

という哲学の持ち主で、自分の人生を振り返り、そこに何かを見いだした人は、その何かをブラッシュアップすべきであるし、もし、何も見いだせなかった人は、今からでも遅くはない、経験を積み上げていくべきだ、という立場にたっていた。仮に、自分の想う第一志望の企業に就職できなかったり、活動自体が失敗したとしても、自己を内省し、専門性を磨き、教養を身に付け、経験を積み上げるべく自分を変革していくことは、その後の人生を必ず豊かにしてくれるのであって、無駄ではない、と説き続けたのである。

 それゆえ、Social Cafe の講座の中身は、例えば、市場主義と国家統制型の経済はどちらが優れているか、といったものや、当時、流行した新しい哲学(ぼくは、そう捉えている)、web 2.0の概念を、梅田 望夫『ウェブ進化論』をベースに学ぶといった講座を開催したりしていた(こうした学びの場は継続していて、実はあまりやっていることは変わっていない)。

 ときには、20世紀の三大経済学者と呼ばれる、カール・マルクスジョン・メイナード・ケインズヨーゼフ・アロンソ・シュムペーターを取り上げ、それぞれの経済哲学を学ぶ、などの、経済学部生向けの専門的なものから、アリストテレスプラトンなどの古代ギリシャの哲学から、法や正義について学ぶ、といったものを行ったりしていた。

 一方で、受講者である学生たちの思惑というのは、まったく別のところにあった。大方の学生は、いかに就職活動を切り抜けるか、そのノウハウを知りたい、という目的意識で集まってきており、エントリー・シートは、どう書けば通りやすいのか、面接で、自分を見破られないようにするためには、どう振る舞えばいいのかが関心の一大事で、就職活動は、あくまで高校受験や、大学受験の延長線上にある「試験」であり、これまでの人生を振り返ったり、今後の自己の方向性、指針を探る作業よりも、面接会場に入るときのドアのノックの仕方、面接官との想定問答をベースとした模擬面接などに需要があったように思う。

 後に、ハーバード大学教授でコミュニタリアンを自称するマイケル・サンデルが、大ブレークした状況をみて、ぼくは初期Social Cafeの活動は、5年くらい早かったのかもしれないと思った。もちろん、ぼくがハーバード大学の哲学科の教授ではない、という要素も看過できないのだが、、、総じて、互いに不毛であった、と断定していい。

 だが、ひとつだけ良いこともあった。

 それは、現在のTAOを形づくる、有為の人材が、この時期に集ったということである。現在、大和証券に勤務する向山君を皮切りに、江頭君(あいおい日生同和損保・広報室長)、赤星君などの、当時、福岡の学生の中でも突出した人材が、TAOの門を叩いた。彼らは、ぼくに師事する、というわけではなく、互いに切磋琢磨して成長を続け、TAOはある種の道場のようになった。もちろん、向山君や、人呼んでキツネ目の男、大黒も、この輪の中にいる。

 人あつまる所に人有り、で、ここに九州大学の芸術工学院の院生たちも絡んで、一時期、非常に知的で面白い空間になった。これは、この時期に実際にあった話なのだが、タオのあるお客さんが、中州の飲み屋で飲んでいるときに、隣についた女の子に、

「よく通うお店はどこなの」

と訊ねられたことがあった。彼が、清川にあるTAOというバーだと答えると、彼女は、

「ああ、あの頭の良い人しか入れないお店ね」

と言われたのだという。一時期、TAOは午前7時までオープンしていたことがあったのだが、そのときは、よく中州で働く女の子たちが通っていてくれていた。そのとき、タオのカウンターでは、夜な夜な政治やら経済やら哲学やらの話題が、談論風発、沸き起こっていた。特に、芸術工学院でデザイン・ストラテジーを専攻していた桑山君は、若年ながら、ぼくも舌を巻く知の巨人で、デザインから芸術、政治・経済、歴史までオール・ジャンルに精通しており、彼がカウンターにいるときには、話が尽きなかった(ちなみに、この桑山君は、後に、建築の巨匠、安藤 忠雄の双子の弟が経営する北山創造研究所に就職した。手癖も悪かった)。

 今となっては、このときの経験を活かして、カウンターでは、無闇矢鱈に難解な議題は振っかけないように心がけているし、なるべく、ぼくは、実はアンポンタンなのではないか、というくらいに砕けるように心がけるようにしている。あまりにもやり過ぎて、本当に、自分はアンポンタンなんじゃないかと思うこともあるくらいなのだが、このときはそんな反省もなく、しかも、みんなそれぞれに一家言を持っているクセ者ばかりだったから、朝方、コーヒーでも飲もうか、とやって来た中州の女の子たちが、

「このお店、そういうお店なのね、なんだか、居づらいわ」

と勘違いされたとしても仕方のない状況になっていた。

 さて、彼らが就職活動を開始する前に、ぼくは、江頭くんと、その友人A君を目の前にして、或る予言をしたことがあった。

 「江頭君は、来年の4月には、どこか就職が決まっているだろうね。A君は、おそらく、一般企業には就職できまい。もがき、苦しみ、病んだ挙げ句、どこかのNPOで小銭を稼ぐようになるよ」

 この予言を聞いたとき、江頭君は、高らかと笑った。
 勝利の爆笑である。

 しかし、この予言には、ぼくなりの根拠があった。

 こなた、江頭君は、まだ若く、勉強はそれほどしていなかったのは一見して分かるのだけれど、すでにその論理的思考能力は確立していた。つまり、知識はなかったが、知識のある人の話を聞いて理解することができた。さらに、耳から入って来た知識を、自分なりに咀嚼して、自分の意見として表現することもできた。

 お洒落で、いつも身奇麗にしているし、顔もハンサムで、声の張りも良い。女癖が悪いことを除けば、ぼくが女なら付き合いたいと思うほどだ。

 当然、ぼくが企業の採用担当者であっても、彼を欲しいと思うだろう。
 才能が、突出していた。

 かたや、A君である。協調性がなく、他人のことに著しく興味を持つことができない。江頭君ほどの論理的思考もまだ身に付いておらず、かといって、何か専門分野を持つほど勉強もしていなかった。また、他人のことに興味がないからといって、自分のことを話すのはもっと嫌がる性質で、何かことあれば、

「もう、ぼくのことは放っといてください」

が口癖であった。

 この時点での二人の実力差は、相撲に例えれば幕内と序二段くらいに離れていたといっても過言ではあるまい。

 だが、A君には二つだけ、江頭君を凌駕する才能があった。

 ひとつは、プライドが高く、鼻っ柱が強く、自分を卑下する他者を心から軽蔑しているくせに、自分を批判してくれる人のところへ足しげく通うことであった。ふつうは、プライドが高くなくとも、一度、

「オマエは、ここがダメなんだッ」

とダメ出しされると、その人のところには二度と行きたくなくなる。これは、その人のことを嫌いになってしまうからではなく、現在の自己を否定されるのが怖いからだ。だが、A君は、むしろ率先して、そういう人のところへ通い続けた。

 就職活動も繁忙期を終え、5月が終わり、6月へ入ろうとする頃、ぼくの予言は的中したかのようにみえた。江頭君は、早々と大手損害保険会社への就職を決めていたが、A君は、未だ路頭に迷っていた。

「林田さん、就職が決まらないんです。なぜでしょうか?」

 ぼくは、迷わず答えた。

 「A君には徳がないからだよ」

 この返答には、さすがの彼も堪えたようで、目に涙を浮かべながら、そのあとは一切、何も語らなかった。

「もう、来ないかもしれないな?」

と、ぼくはさすがに反省したが、彼は翌日も、翌々日も、ぼくに批判されにTAOへとやって来た。やがて、気付いた。

「ハハぁ、さては、こやつ生来のMだな」

 もう一つ、A君には、美点があった。
 それは、彼が目上の人に愛されるということである。

 これだけ、自分のことしか見えていないにも関わらず、福岡財界の大物も、彼のことをかわいがった。江頭君が、男気があり、義侠心に厚く、目上の人には礼儀正しく、後輩の面倒見が良かったのに対し、A君は、同級生や、後輩は眼中になかった。

「ぼくがみて、面白くないと思った人とは付き合わない」

と公言していたし、彼が付き合う人は、彼よりも明らかに格上の実力者たちばかりだったから、端から見ると、その行為は、ある種のヘツライに見えた。このことも、ぼくが、彼を「徳がない」と蔑んだ所以である。だが、M気質が為せる技なのか、なぜか、大人たちは、彼に一目を置き続けた。

 A君は、採用が決まると、すぐにぼくに電話をくれた。

「林田さん、無事、内定が取れました。リクルートの本社です。」
「ついに、徳を積みました!」

 ぼくは、彼からこの報告を聞いているうちに、おお、A君、凄い、とは思わなかった。フフフ、やはり、あのときの発言を根に持っていたか、と少し言い過ぎた自分を反省するとともに、リクルート社とは、何と懐の広い会社なんだろう、と感じ入った。

 さて、このA君を通じて、紹介されたのが小松 政 氏(佐賀県・武雄市長)である。小松氏は、東京大学法学部を卒業後、総務省に入省した。ぼくと出会った当時は、福岡市市民公益活動推進課に課長として出向してきていた。ぼくよりも一つ年長で、年齢が近かったことや、元内閣官房長官 仙谷 由人氏との関係から、ぼくの兄貴分に当たる上ちゃんこと、上里 直司氏(沖縄県・那覇市議会議員)とも知己があったことなどから、ぼくたちは、すぐに仲良くなった。

 この小松氏との出会いが、ぼくの福岡での活動の幅を広げてくれることとなろうとは、このときは気付かなかった。そして、この出会いが、大黒とぼくの数奇な運命を形作っていくことになるのである。

(つづく) 2025 vol.050

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Podcast「チノアソビ」では語れなかったことをつらつらと。リベラル・アーツを中心に置くことを意識しつつも、政治・経済・その他時事ニュー…

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