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日記の限界
今の日記の限界について考えている。
今のマルチメディアな技術発展の中で、その人を『外側から』トラッキングすることについてはさほど難しいことではなくなりつつあると思う。
でも、それはあくまで外側からの話で。
今の所「その人が外部にアウトプットした何かしらの情報」しかトラッキングは出来ていないのでは?ということを考えたりもする。
この場合の『情報』というのは何もネット上でした発言だけには限らず、何気なく呟いた一言だったり、その日の移動記録だったり、その時々によって遅くなったり速くなったりする心拍数、季節や体調や精神状態によって移り変わる体重の変化、はたまた所有しているアイテムだったりまで広範なものを指していると考えて欲しい。
しかしそこまで広範なものを入れたとしても、それはあくまで「その人が外部にアウトプットした何かしらの情報」の域を出ないのだ。
こういう話をする時に「長い一本道のトンネルに迷い込んだ」と仮定するとわかりやすいかなあと思ったので、そういった小説を書いてみた。
目を覚ますと、見たこともない長い一本道のトンネルに立っていた。どこから始まり、どこへ続くのか、まるで想像がつかない。ただ足元だけがぼんやりとした光に照らされている。後ろを振り返ると、そこには足跡も何もなく、暗闇が広がっていた。「どうしてここにいるのだろう?」そんな疑問が浮かぶが、答えはどこにも見当たらない。
目の前に広がる未知の道。人生そのものの縮図の中に放り込まれたかのようだった。進むべき道が示されていることだけが救いだが、その先に何が待ち受けているのかはわからない。初めての場所でありながら、どこか懐かしいような感覚が胸の中に渦巻いていた。
しばらく進むと、道端に奇妙なものが落ちているのを見つけた。それは、誰かが捨てたらしい残飯だった。パンの端切れや干からびた野菜の皮が散らばり、そこには微かに腐敗の匂いが漂っている。この場で誰かが食事をしていたのだろう。食べ終わった後のその人は、どこへ行ったのだろうか。
足を止めて残飯の跡を眺める。そこに残された物はごく些細なもののように見えるが、それらが語りかけてくるものは意外にも大きかった。捨てられた食べ物の一片一片に、その人が選び、口にし、そして不要だと判断した痕跡が刻まれている。この場でどれほどの時間を費やしたのか、その答えは残飯の状態が教えてくれるようだった。
「ここで何を考えていたのだろう?」と、ふと頭に浮かぶ。このトンネルを歩く中で、こうした些細な痕跡こそが、見えない過去の断片を引き寄せるきっかけになるのかもしれない。
その後もしばらく歩いていると、道端に焚き火の跡が現れた。燃え尽きた木片と、煤けた匂いがわずかに漂っている。ここでは誰かが立ち止まり、時間を過ごしたのだろう。火を囲んで語り合ったのか、それともただ静かに体を温めていただけなのか。その情景を想像すると、ここが単なる道ではなく、誰かの人生の一部だったことに気づかされる。
焚き火の跡は、砂漠の中のオアシスのようだった。その存在は一瞬の温もりを感じさせるが、その場にいた人々やその感情はすでに消え去っている。燃え尽きた灰が残しているのは、過去の痕跡という名の断片だけだ。それでも、その灰が語りかけるものには、思わず足を止めてしまう力がある。
さらに進むと、トンネルの壁に刻まれた文字や絵が目に入った。それらは、この道を通った誰かが残したメモ書きのようだった。「ここで休憩した」「この先は険しい」「進む価値がある」といった言葉が、簡素な筆跡で記されている。それは地図でもあり、物語でもあり、迷子にならないための小さな灯りのように感じられた。
しかし、そのメモ書きも完全な記録ではない。断片的であり、何を考えながらそれを書いたのかまではわからない。それでも、その存在がトンネルの単調さを打ち破り、この場所が誰かにとって意味のある場所だったことを教えてくれる。
時折立ち止まって、焚き火の跡に手をかざしてみたり、壁の絵をじっと見つめたりする。それでも、完全に意味を解き明かすことはできない。もしかするとこれがトンネルの中で得られる情報の限界なのかもしれない。
この場合のトンネルというのは『他人の日記』にあたる。
そのトンネルには、歩いた人々が残した痕跡があって。焚き火の跡や捨てられた残飯、足跡、壁に刻まれた絵や道具作りの傷跡。これらの痕跡は、彼らの行動や一部の生活を推測する手がかりと言える。
これを日記の話に換言するならば、焚き火は睡眠時間、残飯は食事履歴、足跡はGPSトラック、絵は発言やメモ、道具作りは成した仕事や残した作品、といったところだろう。これらを鑑みても分かるように、現在のトラッキング技術も、外部に現れた痕跡からその人の一端を推測することでしかなくて。
近年のマルチメディア技術の発展により、人の行動やデータを「外側から」トラッキングすることは、以前に比べて格段に容易になってる。日々の移動データ、心拍数や体重の変化、所有しているアイテムといった、広範な情報を記録する技術が一般化してきた。しかし、これらはすべて「外側」に現れるもの、つまり「その人が外部にアウトプットした情報」に限られているという点を忘れてはいけないのだと思う。
もし、人が死んだ後に残されるものがトンネルの痕跡に似たものであるならば、それを解き明かす行為は、ともすれば考古学的アプローチとも言えるのかもしれない。考古学が過去の痕跡を基にその時代の生活や文化を再構築するように、現代のライフログ技術もまた、痕跡を通じてその人を理解しようとする試みだ。そしてその限界は、主体的体験の欠落であり、解釈の曖昧さであり、時間の隔たりからくる文脈の喪失であったりする。
痕跡が示すのはあくまで行動の一部や表面的な情報であり、その人の内側、つまり感情や思考、意識のプロセスは直接捉えることはできない。現在の記録技術は、この内側を記録することに関して未だ課題を抱えており、それができるようになれば、私たちは「痕跡からの推測」ではなく、「より完全な自己像」を記録し、未来に残すことができるのかもしれない。