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「トマト」を思い出せなかった友人

1. バーにて

寮に住む友人とバーに行った時のこと。
彼は初めてのバーにそわそわしながら、「レッド・アイ」というカクテルを注文した。

まもなくカクテルが運ばれてきて、彼はごくりと一口飲んだ。

「うまい!これ、あれだ!あれが入っている!この味はほら、あれ!」

「あれ」が「どれ」を指しているのかはわからなかったが、名前がギリギリでないくらいの、赤色(レッド)のおそらく果物だろうから、たぶん無花果とかドラゴンフルーツとかそこら辺を指しているのだと合点していた。

彼はその味の正体をどうしても自力で思い出すことができず、ついにGoogle先生にお伺いを立てた。
Google先生の答えは「トマト」だった。

僕は愕然とした。彼は将来の夢が外交官である男である。「トマト」すら思い出せない男が、複雑極まる領土問題に対処できるだろうか。優秀な海外の外交官との瀬戸際の交渉を行えるのであろうか。僕は日本の将来が心配になった。
彼は「なーんだ、トマトかあ。えへへへへへ」とニコニコしていた。
僕はますます日本の将来が心配になった。

2. トマトはいつ存在するようになったか

我々がこの世に生まれた時点において、トマトは世間的には存在したが、我々にとっては存在しなかった。そして存在しない期間がしばらく続いたのちに、ある日突然、トマトは存在するようになった

自分と赤ちゃんとの間にトマトを置いたとしよう。
我々は目の前にトマトが存在することを認める。しかしながら、赤ちゃんにとってそれは「何か」でしかない。それは赤くすらも、丸くすらもない「何か」である。なぜならまだ言語を使うことができない赤ちゃんには、赤い・丸いという形容ができないからである。ましてやその「何か」がトマトであるはずがない。「トマト」という言葉も、「トマト」という言葉によって意味されるものも、赤ちゃんは知りもしないし言葉にもできないからである。
よってトマトはこの時点では存在しない。

では果たしていつトマトは存在するようになったか。
それは、我々が言語経験を積んでいく中で、「トマト」という言葉と、「トマト」という言葉によって意味される内容とが結びついた瞬間である。
「トマト」という言葉が「赤くて丸っこい形をしており、緑色のヘタがキュートで、食べると酸っぱくて嫌な感じがする口の中に心地よい酸味が広がる野菜」を意味すると了解し、反対に「赤くて丸っこい・・・(中略)・・・野菜」を「トマト」と呼ぶということを受け入れた時に、初めて我々にとってトマトが存在するようになる。

3. 言葉ともの

言葉は「ものの名前」ではない、というのは、ソシュールの言語学がもたらした重要な知見として認知されている。
内田樹は『寝ながら学べる構造主義』において、この知見を簡潔にかつ分かりやすく解説している。

言語活動とは「すでに分節されたもの」に名を与えるのではなく、満点の星を星座に分かつように、非定型的で星雲上の世界に切り分ける作業そのものなのです。ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになるのです。(内田 2002: 67)
内田樹,2002,『寝ながら学べる構造主義』文藝春秋.

「名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになる」のであれば、言葉以前にものは存在しえない。これは先の赤ちゃんとトマトの例に合致する。赤ちゃんの目の前に転がるものは「何か」としては存在し得ても、決して赤ちゃんにとってトマトとしては存在しえない。


言語活動とは世界の分節化である。分節化されておらず混沌とした世界を切り分け、あるものが取り出されたときに「それ」は存在し始めるが、この存在の瞬間、分節される瞬間とはまさしく、先述の「言葉」とその言葉によって意味される内容が結びつくときである。そうであるとすれば分節化とは、言葉とその意味内容の結合が我々によって受け入れられることであると換言できる。

ものは言葉のないところに存在しない。言葉とその意味内容の結合を人々が定め、受け入れるとき、そのものは社会にとって存在する。そして私はそのような社会の中で育ち、多数の言語経験を積んでいくなかで、我々の社会に特有の結合方式を(多くは無意識的に)受け入れ、まさにその瞬間にそのものは私にとって存在する。

4. 彼の「トマト」の場合

彼が「レッド・アイ」を飲んだ時に、彼は「トマト」という言葉が意味するもの(形状・色合い・風味など)を想起したに違いない。しかしながら意味内容とセットで想起されるはずの「トマト」という名称は、どういうわけか忘却の彼方へと消え去ってしまっていた。
彼は「ほら、あれ!」という言葉に見られるように、必死にその言葉を追い求める。しかしながら一向に「トマト」の名前を思い出す事は出来ない。

「トマト」という名称の(一時的)忘却によって、極端に言えばその瞬間においてトマトは、彼にとって存在しなかった。トマトはその名称をとどめていた時のおぼろげな感触をわずかに残しながら、非分節化された混沌への退行を始めつつあった。Google先生が「トマト」の名称を彼に教えてあげなければ、もしかすると彼にとってトマトは、確かに一度彼にとって存在したにも関わらず、その後一生存在しなかったかもしれない、というのは大げさの極みであるが。

次会ったとき、果たして彼は「トマト」を覚えているであろうか。このテスト結果は日本の将来と直結するので、僕は気が気でない。

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