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タンザニアでの地獄の3年間を語る。

 
「もう1回、一緒に事業をやらないか?」

裁判所にて、3年ぶりに顔を合わせた相手の第一声は、がちがちに構えたファイティングポーズをフックで躱して顔面をヒットさせてきた。

想定外すぎる提案に思わず吹き出しそうになるのを堪え、『これが元彼に復縁を迫られる女の気持ちか・・・!!!』と、世の真理に触れたレベルで腑に落ちる感覚を全身で感じていた。
過去を振り返り、少し恥ずかしい気持ちになった。あの時の自分をグーパンチで黙らせたい。

一方でタンザニアってこういうところあるよな、という気持ちもあった。
どんなに大きな喧嘩や争いも時間が経てば、ここからは前向きにいこうよ、という精神は素直に好きなところだ。
足の引っ張り合いが度々起きる日本にはない、タンザニアの居心地の良さの正体の一因なのではないだろうか。

僕の回答は「wwwwさすがにwwwそれはwwwないwwww」だったわけだが。
 
いきなり意味不明な導入で恐れ入ります。
ここ数年間、特に発信もなかったので、なにをしてきたのか、なにをしているのか、赤裸々に書きたいと思います。


2019年、中古車の輸出をタンザニア向けに開始した企業の、コンサルの更に下請けという形でお手伝いをするところから物語は始まる。
(本業は広告代理店業務で映像の制作、広告の制作、出稿などを行っている。)

戦略はシンプルかつクリティカルだった。
タンザニアに毎月6,000台と輸入される日本の中古車のほとんどが日本のオークションで買われたものだ。
その点、オークションに出品する立場であるクライアントが直接輸出を行えば価格優位性がある、という理屈である。
しかしアフリカビジネスらしいトラップというか、実際にはクライアントの再販価値基準は市場で少し良質な分、価格優位性はそこまでないのが実態だった。
簡単にいうと、事故車クオリティが安く出回っており、それと同じ価格帯を求められてしまう、ということ。

ナイジェリアやケニアといった大きな市場では、中古車のローン事業が出始めていて、その中心にいたのはUberだ。
各ドライバーがどれくらい長く働いているか、稼いでいるか、評価を得ているか、すべてのデータを持っている。それらを信用情報のベースに利用して銀行やマイクロファイナンス会社と提携をしてローンを組んで販売する、というスキームである。

我々もタンザニアで先駆けてそのスキームに乗ろう、となった。
銀行にとっては、中古車の質の担保、安定的な供給が重要になるため、とんとん拍子で事業提携を結ぶ形となった。

スキーム上は大きな問題点はなかったが、銀行側も審査が厳しいゆえ台数も決して多くはなく、または担当銀行員までねちねちと分け前を要求してくるような、事業の推進力が第三者依存になっている構図になってしまっていた。

それなら自分たちでまるっとやったほうが面白いんじゃないか?ということになり、事業は始動する。

改めて市場について説明を加えると、中古車は一括払いが基本である。

ドライバーとして働く多くの方々にとって、一括で現金を用意するのは困難だが、借りるにしても担保も信用もない。
一方で、貸す側からしても中古車は担保としての扱いが難しい。事故は多いのに保険のプロセスが多かったり、インフラ的に車の価値が落ちやすかったり、等々。
結果的に生涯レンタル料を払いながら、所有者になることはなくドライバーとして働き続ける人がほとんど、という環境なのだ。

そんな中、自分たちで集客をし、審査基準を設け、毎週回収をし、車もメンテナンスを行うようになった。

集客に関しては、一切の広告を打つ必要もなく、UberやBoltといった主要サービスに呼びかけると溢れるほど人は集まった。
それだけ、払っていたらいつか自分のものになる、というのは新鮮でインパクトのある事業なのだ。
そして銀行ができない、やりたいと思わない領域でもある。

審査基準はとにかく経験の積み重ねだ。
車をデリバリーした直後、運転席でぶるぶる震えながらいきなり車を電柱にぶつけた人には驚いた。免許書をお金で買ったような人もいるのだ。そこから、自社内でドライビングテストを実施するようになった。
また、偽造の書類が見抜けるようになったり、年齢や家族構成による傾向であったり、とにかく経験を重ねに重ねた。

回収は事業の肝。
言い訳をするドライバーを説き伏せるのも、GPSで追って捕まえるのも、稼ぎ方を教えるのも様々な施策を打ち続けた。

システマティックなフローを目指しつつも、顧客ひとりひとりと向き合った。
もちろんシンプルかつスマートな仕組みは理想だ。
とはいえ、タンザニアだけでなく多くのアフリカ市場では泥臭さは絶対に必要だと思う。むしろ、泥臭さが優位性における最たる財産だ。

スマホを持つのが当たり前になったからといって空き容量が小さいからアプリは流行らなかったり、常にインターネット環境にあるわけじゃなかったり、充電できないタイミングも多かったり、そんなリアリティとの対峙はどんな良いビジネスモデルもある。
そもそもスキームは完璧だけど向上心がないから流行らない、なんてトラップもある。これは今度別の記事で書く。

システマティックなものをシステマティックに導入させるのではなく、システマティックなものを泥臭く積み重ねて導入させるのだと思う。

手探りの開始から1年には130台の稼働、回収率90%越え、月間売り上げ600万円と好調のスタートを遂げていた。

そんな中、2020年9月に、クライアントの海外事業部からの独立という形でFMG Inc.が生まれた。
現地パートナー企業との今後について整理をしていく中で、様々な不正が発覚した。
ここに関しては片方の視点になってしまう以上詳細に語ることは行わないが、それは積み上げたものを覆すほどの衝撃であった。
(ここでは書きませんが聞きたい方がいれば全然話します。特にアフリカで現地パートナーと遠隔で取引をしている企業さんなど、参考になることもあると思いますのでぜひ。)

バレちゃしょうがねえなという感じで相手も開き直り、400台を超える車両とビジネスの権利を主張しはじめた。勢いですべて持っていかれないように、こちらも対抗をした。

そのあたりの話は是非、こちらの記事を読んでほしい。
僕が大学生のころタンザニアにインターンにきた頃からお世話になっていて、いまも一緒にFMGで働く金谷さんの記事。

そこからは裁判に発展した。
それでも相手側の嫌がらせ、両社に広まる悪評、顧客からのクレーム、ここぞとばかりに刈り取ろうとする役所等々、ある種の身の危険が続いていた。

幸い車両はこちらの管理下にあり、それで営業することも認められていた。それでも訳あり車両での経営は厳しかった。

裁判はとても非システム的で、笑ってしまうほどだ。

相手側の弁護士がこないからリスケ。裁判官も前の用事が長引いたからリスケ。
一番笑ったのは、当日時間通りに行くと裁判所で送別会が行われているからリスケ。
せめて前日には伝えてほしいが、サプライズが漏れないように俺も騙されちゃった感じ??

リスケも1か月後とかがざらでとにかく予定通りに進まないのだ。


2021年、2022年、ずっとそんな日々が続いた。


2022年末に、前任の代表が諸事情で継続が困難になり、僕が代表を引き継ぐ形になった。実質、しんがり。

沈みかけの船であったことは間違いない。
これ裁判いつまでも終わらないんじゃないの?と全員が思っていた。
それでもこの事業に関わったたくさんのタンザニアの方々を思うと引き受ける以外の選択肢はなかった。


小舟の浸水を両手でかき捨てながら、止まらないようにオールをこぎ続けた。
訳ありの車両でなんとか事業を維持できるだけの売り上げを作った。
裁判を理由に支払わない顧客とたくさん戦った。
その結果一部から抗議活動のようなことをされたり、事務所のゲートを封鎖されたり、別の裁判もたくさん経験したりした。
弱っていると見えて少しでも刈り取ろうとする人たちと対峙した。
支払いを待ってほしいと税務署も事務所のオーナーも弁護士も頭を下げまくった。

牛歩で進む裁判に足しげく、アフリカ生活長い人とは思えないほど健気に時間通りに通い、遂には前哨戦で有利な判決が下された。

その時点でスケジュールが組まれ、1年以内に判決という期限が設けられると同時に、和解を話し合う期間が設定される。拒否して裁判に突入することも可能だが、1年後勝訴しても上告されたらさらに数年かかる。
また、ここまで時間稼ぎととれるアクションに徹していたと感じられた先方からの提案があったため、前向きに応じる方針で話し合いに応じる決断となった。
 


・・・ここで、冒頭に戻る。
 
もう1回、一緒に事業をやらないか?」と。
3年間温めた沸騰寸前の因縁の結末がこれでは、ブレイキングダウンなら興ざめもいいところだ。
 

・・・そんなこんなで、もちろん一緒にビジネスをする気は今後も一切ないけれど、和解も話し合いから半年以上かかったが、無事に着地を迎えることができた。
 
・・・と、思えた・・・

調停後からもさらに半年ととにかく大変で、、、だけどこれはいつかどこかで。

とにかく、無事にこの件は終わりました!(後処理は山積み~~)

時間を巻き戻すと、2023年12月30日、会社の忘年会をこじんまりと行った。
和解が完了した状態でこの時を迎えたかったという僕の申し訳ない気持ちと裏腹に、スタッフたちの熱い思いや、日本に逃げない僕のお蔭だと、感謝を伝えてくれる言葉のひとつひとつが、柄ではないのだが胸が熱くなった。


 
アフリカビジネスの恐らく一番ハードな部分を経験し乗り切れたことは本当に得難い経験値だったと胸を張って言える。ストレス耐性の強さには我ながら天晴れ。
空白というよりも血と泥が混ざった赤黒い3年間、ぐんぐんと成長し前進する他社をみて羨ましい気持ちも、なんで自分はこんな状況なんだろう、と思っていないといえば当然ウソになる。

それでもいまは、重しが外れたからだがとても軽くて気持ちがよくて、これから本気を出すときのジャンプの主人公のような気分でもある。

耐え忍ぶために築いた負の遺産は巨大にあるけれど、それでもこれから覆すまでだ。

最後に。
自分のメンタルの強さは自負もあるところだけども、本当に多くの人に支えてもらって生き残ることができた。乗り越えられたのはそのお蔭でひとりでは無理だった。特に、現地スタッフはどんな状況でも裏切ることなく誠実に一緒に戦ってくれた。
タンザニアにとって価値のある事業だと、応援してくれる方もたくさんいた。きっとこういう人たちがタンザニアの未来を支えていくのだろうと思えた。

人間の一生を考えたときに、貴重な若い時間(おじさんの主観)をこれに費やすことが正しいかったのか?
切り替えて楽しく実りある過ごし方も間違いなくあったしたぶん正解。
けれど、大手を振って自分の意思でタンザニアにきて、ふざけんな!帰るわ!!ってつばはく自分が嫌だった。
我を通せたことは間違っていてもこれもまた人生。



良い話風だけど、結果がすべての世界だ。
まだなにかを成し遂げたわけじゃない。
ようやく再度スタートラインに立てたということを、大袈裟に騒ぎ立てているだけだ。

それでも、自分で言うことじゃないけど、決して楽ではない試練を乗り越えることができたとは思う。それは自信に変えたい。

これからはしっかりとポジティブに伝えていけるように、数字に真摯に向き合って邁進します。

日本人をなめんな精神!!!!押忍っ!!!!!


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