自殺願望と希死念慮。それでもしがみつきたい「死なない」という事。
何を言っているんだお前は。そう思われるかと思います。
自分自身も腹の奥にくゆらせている感情であり、同時に台本の中の彼女達に投影されている部分です。
自傷行為の中には「死にたい自分」との戦いの時間もあるのです。「死にたい」そう思った自分が憎くて仕方ない日。
自分の中の別れた感情が手に余ってパニックになった日。
そんなことの積み重ねが溜まりに溜まって
「生きること」
を捨てたくなる時があるのです。
「もう、なにもかも嫌だ」そう言ってうずくまる日。
「死にたいなんて思いたくない」って、その自分を殺したくて手首を切り刻む日。
「明日が来るくらいなら死にたい」そう言って薬を飲み込む日。
生きることを辞めれば「終わらせることは出来る」それが救いであり、酷い甘えです。
自分から逃げて安直に吐き出した答えでしかない事が自分自身で認められない、認めたくないとせめぎあいが起きるのです。
1人で疲弊していくのが私です。
そんな時に励ましてくれた言葉は「頑張ったね」でも「辛かったね」「分かるよ」なんて同情でもなく、
「死んでもいい」
この言葉でした。
私みたいなひねくれた人間は
「私を否定する私」は受け入れなかったあなたたちが私に対して勝手に抱いた感情を拒絶せず受け入れるべきって決めつけは何?
って、意地の悪いことを考えます(笑)
生きていたくない
死にたい
消えたい
上の3つは全部同じでしょうか。
わたしには全く違うものなのです。「理由」としては。
でも解決策には「死」が共通項として含まれる事実がある。
屁理屈かもしれないけどこれに抗えるのは
生きること
じゃなくて、
死なないこと
それが今も私が持っている答えのひとつです。
何だか纏まらないけど。私の土台は今はそんな感じ。
死にたいなら0に戻す。戻せないなら死ぬ資格はない。
そう考えたら
「生きることを咎められて」も「自殺」って最大の裏切りは起こしてないって、ほんの少しだけ許される気がします。
…やっぱり、甘いかな考えが(笑)