馬鹿が作った日本史(34)戊辰戦争は日本史の恥
イシ: ようやく戊申クーデターまで来たね。
最初に言いたいのは、いわゆる戊辰戦争というのは日本の歴史の中でもっとも恥ずべき出来事の一つだということ。
今までていねいに見てきて分かるとおり、徳川政権はペリー来航の前から世界情勢を察知し、なんとか平和的に開国して、西洋の技術を取り入れながら日本の国力を上げていこうと必死に取り組んできた。
阿部正弘以降の老中の誰もが攘夷などという非現実的な路線は取らなかった。
岩瀬忠震、川路聖謨、永井尚志、小栗忠順、栗本鋤雲、中島三郎助……といった優秀有能誠実な幕臣たちは、自分たちが与えられた現場で諸外国を相手に遺憾なく力を発揮していた。
イギリスは当初、日本と開戦する事態を想定し、武力制圧する綿密な計画も立てていた。それを断念させたのが小栗忠順ら、優秀な幕臣たちによる海軍増強や粘り強い条約交渉での手腕だった。イギリスは、幕府の力を認め、武力による征服よりも経済支配をしかけたほうがいいと判断したんだ。
幕府の外でも、赤松小三郎(信濃国上田藩)、横井小楠(熊本藩)、橋本左内(福井藩)、河井継之助(越後長岡藩)、長井雅楽(長州藩)……などなど、数多くの有能な人物がいた。しかし、彼らのほとんどは暗殺されたり、戊辰戦争という無意味な戦争で命を落としたりして、明治の時代を見ることもできなかった。
一方で過激攘夷派の連中は、幕府の穏健開国政策をテロリズムで妨害し、外国人殺傷テロを続けて、幕府が苦労して結んだ平等条約をどんどん改悪される口実を与えた。その代表格は、水戸藩では徳川斉昭、藤田東湖。薩摩では西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀。長州では吉田松陰、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允。土佐では板垣退助、武市半平太。公家では三条実美、岩倉具視、中山忠能……といった面々。
合理主義・非戦主義がテロリズムに敗れ去るというやりきれない幕末史の最後に、駄目押しのように強行された愚行が戊辰戦争だ。
その一部始終を見ていこう。
慶応4(1868)年の出来事
1月1日(1868/1/25) 江戸での薩摩の無差別テロを知り、会津藩、桑名藩などから上がる「薩摩は許せぬ。討つべし」の声を抑えきれず、慶喜は薩摩藩の罪状を列挙し弾劾する内容の「討薩表」を発した。
一方、土佐の谷干城は、薩土討幕の密約に基づき、板垣退助が兵を率いて上洛するよう国元に要請するために土佐に向かう。
1月2日(1/26) 慶喜、兵を率いて大阪から京都へ向けて出発。夕方、幕府の軍艦2隻が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃。
1月3日(1/27) 京都に入ろうとする幕府軍を待ち構えていた薩摩が一斉射撃を浴びせ、戦闘に(鳥羽・伏見の戦い)。
凡太: ああ~、ついに戊辰戦争が始まってしまうんですね。
イシ: これはもう完全に西郷ら薩摩の策略に幕府が嵌はめられた形だね。
ここが戊申クーデター最大のポイントなので、少していねいに見ていこう。
まず、慶喜が出した「討薩表」については、その内容まで知っている人はほとんどいないんじゃないかな。山川出版社の「新日本史B」では、「王政復古の大号令」は原文が枠囲みで掲載されているけれど、「討薩表」はまったく出てこない。
それでは不公平すぎるので、全文を掲載しておこう。
凡太: 書いてある薩摩の罪状はすべて間違っていないように思います。
イシ: そうだね。まったくその通り、という内容だ。
でも、これが大失敗だったわけだよ。西郷の策略にまんまとのせられてしまった。西郷はこのとき大喜びしたそうだよ。
薩摩を討つにしても、江戸の中で完結していればよかった。京都、大坂で動くべきではなかったんだ。
薩摩藩が雇った暴力団が関東で、強盗、辻斬り、放火、強姦などを繰り返し、住民を恐怖と混乱に陥れた。よって、暴力団が根城にしている薩摩藩邸に討ち入りした……でよかった。
それに対して薩摩が報復をするというなら、遠路はるばる江戸を目指さなければならない。それを箱根を超えたところで迎え撃てばいい。畿内で薩摩を討つ兵を挙げたことが最初の失敗。
畿内にいた幕府軍は兵力1万5000で、銃器なども最新式のものを装備していた。対する薩長連合軍は5000人。銃器はイギリスなどから仕入れていて幕府軍に劣らない。兵力では幕府軍が薩長軍の3倍だけれど、基本的に戦意が低かった。
会津藩や桑名藩は「薩長は許せぬ」と気合いが入っていただろうけれど、他藩は「面倒なことになっちゃったな」くらいの気持ちの者も多かったんじゃないかな。指揮系統も甘かった。鳥羽伏見では、薩長軍と対峙しながら銃を撃つ準備もしていなかったという。そこを狙い打ちされて慌てた。
しかし、なんと言っても慶喜がひどすぎるんだよ。薩摩を討てと命令しておきながら、まっ先に逃げちゃうんだから。そりゃあ残された幕府軍はボロボロになるよ。
徳川慶喜の大罪
1月3日(1/27) 朝廷で緊急会議。大久保利通は錦の御旗を立てて徳川を征討すべしと主張。それに対し、松平春嶽は「これは薩摩と旧幕府勢力の私闘だから、朝廷は中立を守るべき」と主張。紛糾したが、ここでも岩倉具視が仕切って倒幕で押しきる。
1月4日(1/28) 薩長軍に錦旗が渡され官軍を名乗る。そこに土佐藩兵も加わる。
1月5日(1/29) 淀藩は敗走する旧幕府軍の淀城入りを拒絶。旧幕府軍はさらに八幡方向へ後退。
1月6日)1/29) 八幡・山崎で新政府軍を迎え撃った旧幕府軍に対し、山崎の砲台担当していた津藩が砲撃。旧幕府軍は大坂に敗走。
1月6日(1/30) 薩長軍が錦旗を掲げたと知った慶喜は、夜に大坂城を脱出し、幕府軍艦で江戸に逃亡。
1月7日(1/31) 朝廷より徳川慶喜追討令が出て、旧幕府軍は「朝敵」とされる。
凡太: 慶喜はなぜ突然逃げ出したんでしょう。
イシ: ほんと、理解に苦しむよね。こればかりは慶喜に訊いてみないと分からないし、慶喜自身、そのときの自分の精神状態を説明することはできないのかもしれない。
まあ、ひとつには、慶喜は基本的に尊皇の人だったということかな。なんだかんだで水戸学で育っているし、自分が朝敵にされたことのショックが大きかったのかもしれない。
もうひとつ考えられるのは、この時点まで慶喜は戦の最前線に立ったことは一度もない、ということだね。長州征討も自分が現場で指揮したわけじゃない。しかも第二次長州征討では実質敗北している。知能が高くても、こういう状況ではパニックを起こすような弱い人間だったとも言えるんじゃないかな。
それにしても無責任極まりないよ。5日、自軍の形勢不利を伝えられた慶喜は、「こうなったのは薩摩の悪行によるものである。薩摩を排除しない限り世情は安定を取り戻さない。運悪く形勢不利となっているが、天は見ている。この大坂城が焼け落ちようが死守する。ここで私が死んでも、江戸には忠臣がいて必ず仇討ちをしてくれる。思い残すことはない。みんな、力の限り戦ってくれ」という、感動ものの演説をぶっている。それを聞いて涙する者もいたという。
それが、次の日には秘密裏に逃げてしまったんだから、もう、何をか言わんや、だな。
凡太: 江戸へ逃亡した船には松平容保さんも一緒だったんでよね。容保さんは止めなかったんですか?
イシ: 当然、抵抗しただろう。しかし、「これは命令だ」と、ほとんど拉致みたいな形で同行させられたんだろうね。
このとき、会津藩の中では容保が京都守護職についてからずっと補佐してきた神保修理が「一旦江戸に戻って体制を整えましょう」と慶喜に進言したと伝えられているんだけど、慶喜はその神保さえも置き去りにして、ごく少数の側近と愛妾(正室や側室ではない愛人)を連れて逃げている。
神保は慶喜が逃げてしまったことを知って驚き、すぐに江戸に向かい、慶喜を問い詰めている。
容保も船の中で「退却するならなぜあんな演説をして戦えと命じたのか。これでは不義がすぎる」と慶喜に抗議している。それに対して慶喜は「ああでも言わなければ血気盛んな連中が納得しなかったからだ」というような言い訳をしたそうだよ。
凡太: 会津藩は、天皇と将軍の命令に忠実に従って、京都守護職というやっかいな役割を引き受けて頑張ってきたのに、裏切られてしまったんですね。
イシ: ほんとにね。この時点で慶喜は完全に責任を放棄してしまった。
薩長軍を止めないということは、徳川政権が滅びるということだけでなく、暴力団のような連中が日本の政権を握るということだ。有能な幕臣たちはそれがどれだけ日本にとって絶望的なことか分かっていたと思うよ。だからこそ、小栗忠順や永井尚志はなんとか慶喜を説得して薩長軍の東進を止めて撃破しようとした。
それに対して慶喜は「もうやめた」という態度を貫く。後は知らん……と。そんな総大将がいるか?
1月12日には、小栗忠順が慶喜に薩長軍迎撃作戦を進言している。箱根を降りてきたころを陸軍で迎撃し、海からは榎本武揚が率いる旧幕府艦隊を駿河湾に入れて、艦砲射撃で薩長軍の皇族補給部隊を壊滅。孤立した薩長軍を殲滅させるというものだった。
小栗は慶喜の袴の裾を握って決断を切願したけれど、慶喜はそれを振り払って、小栗を解任した。
後にこの作戦を聞いた大村益次郎は「この作戦を実行されていたら我々の首はなかった」と震え上がったそうだ。
気が滅入るけれど、続けよう。朝廷より徳川慶喜追討令が出てから後、3月の江戸城明け渡しまでに何があったのか、詳しく見ていくよ。
1月9日(2/2) 板垣退助の失脚が解かれ、土佐藩の軍令首脳に復職。
1月10日(2/3) 会津藩・桑名藩・高松藩・備中松山藩・伊予松山藩・大多喜藩が旧幕府側についたとして藩主の官位剥奪、京屋敷の没収。また、小浜藩・大垣藩・宮津藩・延岡藩・鳥羽藩は藩兵が旧幕府軍に参加したとされ、藩主が入京禁止処分。これら諸藩はすべて「朝敵」とされる。(大垣藩は藩主が謝罪と恭順の誓約を出したので、新政府軍の先鋒を務めることを条件に朝敵から外す確約を与えられる)
1月11日(2/4) 備前藩兵が各国外交団を銃撃(神戸事件)。
1月13日(2/6) 土佐藩、深尾成質を総督、板垣退助を大隊司令として迅衝隊を編成し、土佐を出陣。
1月14日(2/7) 明治天皇元服。大赦が行われ、王政復古を各国公使に布告。
1月15日(2/8) 朝廷が東久世通禧を派遣して各国外交団に開国和親・条約遵守を宣言。神戸事件の交渉も開始。
1月15日(2/8) 慶喜が小栗忠順を正式に解任し、全面的恭順を表明。
1月15日(2/8) 尾張藩14代藩主・徳川慶勝(会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬の兄)に、藩内の「姦徒誅戮」(佐幕派家臣の処刑)のため帰国せよという朝命が下る。
1月19日(2/12) 外交団で孤立したロッシュが大坂から江戸に戻り、慶喜に再起を促すが、慶喜は拒否。
1月20~25日(2/13~18) 帰藩した尾張藩主・慶勝により、家老・渡辺在綱(別名・青松葉)ら、藩内佐幕派の家臣14名が処刑される(青松葉事件)
凡太: なんか、完全に朝廷が薩長に乗っ取られたように思います。尾張藩に家老や幕府寄りの家臣を殺すように藩主に命令する……って、ひどすぎますよね。
イシ: 完全な私怨だね。渡辺在綱は尾張藩の軍制改革に尽力した人で、自費で西洋式の銃や馬具を購入し、大砲まで鋳造した。
忠実な家臣を、藩主がインチキな朝命に従って処刑するんだから、家臣はたまったもんじゃない。
忘れてはいけないのは、長州征討は孝明天皇の意思、つまりは朝廷の意志だったってことだ。征討軍はそれに従ったわけだ。これこそまさに勤王、尊皇だろう? それに対して、朝敵とされた長州が、戊辰戦争を利用して恨みを晴らそうとした。まだ十代半ばの明治天皇は利用されるだけ。こんな卑劣なことがまかり通ってしまったんだな。
こうなると、慶喜のあまりのふがいなさ、無責任ぶりに呆れた諸藩、特に西の諸藩は次々に薩長側になびいていく。
特に、土佐藩が慶喜を見限って西郷の側についてしまったことは大きい。
山内容堂はぎりぎりまで慶喜を入れた合議的政治体制を目指していた。容堂の考えを実現させるために奔走していたのが後藤象二郎。後藤は、容堂が「師」と仰いで重用した吉田東洋に学んだ有能な藩士だ。
それに対して、東洋を殺害した土佐勤王党を率いた武市半平太や最後まで武力倒幕を叫んで容堂を困らせ続けたのが板垣退助と中岡慎太郎だね。
容堂は板垣をなぜか甘やかしていたフシがある。「またあの過激な問題児がとんでもないことをしでかしたか。困ったもんだ」くらいの感じで、一時的に謹慎や蟄居は命じても、完全に潰すことはしなかった。そういう優柔不断さは、徳川斉昭を御しきれなかった阿部正弘にも似ているかもしれない。
容堂に使えた後藤象二郎も、明治以降は藩内の政敵だった板垣と組んであれこれやっていて、なんとも中途半端な印象をぬぐえないね。
凡太: 幕末から明治にかけての土佐藩って、坂本龍馬以外はなんだか印象が薄いです。その坂本さんも、実像からかけ離れた英雄に仕立てられているようですし……。
イシ: そうだねえ。これは完全な私見なんだけれど、薩長に比べて土佐というのは、思想がまったく相容れなくても、根底のところでは同郷のよしみというか、お友だち感覚が強い人たちが多い気がするね。
吉田東洋を暗殺した過激派の筆頭・武市半平太に対しても、龍馬は最後まで仲間意識みたいなものを持っていたし、平和的新政府樹立を目指して動いていた後藤と、それをことごとく破壊した板垣が、明治になると一緒に行動している。
ある意味、人間としてのゆらぎが大きくて、怨恨で動くテロリストたちよりはいいとしても、掴み所がないキャラクターが多い。後藤や坂本はその典型だね。
1月25日(2/18) パークス、戊辰戦争に対する英国の中立を宣言。他国もこれに倣う。
2月9日(3/2) 徳川慶喜征伐の部隊が編成され、薩長以下20余藩の兵が配属される。
2月12日(3/5) 慶喜が江戸城を出て上野・寛永寺に謹慎。
2月14日(3/7) 土佐藩・迅衝隊(総督・板垣退助)が御親征東山道総督府軍先鋒隊として京都より出陣。
2月15日(3/8) 土佐藩士がフランス帝国水兵と銃撃戦の末に殺傷。仏水兵11名が死亡(堺事件)。
2月23日(3/16) 勝海舟が陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命され、幕府全権として新政府軍との講和に動く。
2月30日(3/23) 各国公使らが朝廷に初めて参内。しかし、英国公使パークスは襲撃され、参内できず。犯人は2名で、護衛していた中井弘蔵と後藤象二郎が撃退した(パークス襲撃事件)。
3月5日(3/28) 板垣退助率いる土佐藩・迅衝隊が甲府城に入城。翌日、甲州勝沼で甲陽鎮撫隊と名を変えていた近藤勇率いる旧新撰組の部隊を撃破。近藤の部隊は敗走した。
凡太: この時期になってもまだ外国人殺傷事件が続いているんですね。
イシ: 1月の神戸事件にしても、そのひと月後の堺事件にしても、パークス襲撃事件にしても、それがどれだけ日本を危うい状況に追い込むかなんて、まったく分かっていない連中が起こしている。
凡太: この時点ですでに諸外国は新政府のほうを向いてしまったんでしょうか。
イシ: そうだねえ。慶喜が完全に投げ出してしまったんだから、当然そうなるよね。
諸外国の親分を自認していたイギリスはどうだったんだと気になるけれど、パークス公使は、表向きは薩長と旧幕府勢力との戦いにおいては、一応中立を宣言している。
というのも、イギリス本国ではフランスと対立していたパーマストン首相が1865(慶應元)年10月に死去して、外相だったラッセルが首相に、親仏派のジョージ・ヴィリアーズ(第4代クラレンドン伯爵)が外相に就任したことで、対日外交政策を内政不干渉路線に転換していたからだ。
ヴィリアーズ新外相は1866年4月9日 (慶応2年2月24日) 付でパークスに「武力衝突が起きても中立を守り、どちらを支持するというような表明は一切しないこと。また、諸大名と個別の取り決めを結んではならない」という注意を公式に伝えている。
この指示書が船便でパークスのもとに届いたのは1866年6月 (慶応2年5月)のことで、武闘派のパークスにとっては不満だらけの内容だっただろう。このときすでにパークスは、薩長を筆頭とする反幕府の諸藩をうまく瞞して徳川政権を倒すという秘策を各国公使に送っている。幕府を援助してイギリスに対抗しようとするフランスをはじめ、米、仏、露、蘭はイギリスを警戒していたため、これには乗らなかった。
その後、パークスは本国の意向に沿って動いているようなふりをして、サトウやグラバーを使って薩長への工作を進めていた。グラバーを通じて薩長に大量の武器を買わせるという目的もあったし、どう転んでもいいようにだね。
慶喜が突然大政奉還を表明したとき、そのまま慶喜が入った新政権ができるならそれでいいと思っただろうが、火をつけた薩長は止まらない。ここまでくればもう幕府が壊滅するのは時間の問題だと踏んでいたはずだ。
幕府にはライバルのフランス公使・ロッシュが就いているから、ロッシュを抑え込むためにも、薩長を暴れさせる方向でいい。
実は、パークスが各国公使を集めて「局外中立」、つまり、諸外国は日本の内戦に一切関与しないという提言をする裏には、幕府を援助していたフランスや、昔から幕府と密な関係を持っていたオランダ、そして貿易面で最初に条約を結んだアメリカなどを、幕府から切り離す目的があった。
フランスは幕府に最新式の兵器を提供し、軍事顧問団まで送り込んでいる。鳥羽伏見の戦いでも、フランス製の最新兵器が使われている。
オランダは最新式の大砲を搭載した軍艦・開陽丸を幕府に提供している。
アメリカもすでに開陽丸より強力な軍艦を売る契約を幕府と結んでいる。
現時点でも幕府には強力な陸海軍があるのに、これ以上仏蘭米が幕府に軍事援助をすれば、薩長による倒幕は不可能になる。「中立」という名目で、諸外国を幕府から切り離すという作戦だ。
これには特にフランス公使・ロッシュが強硬に抵抗したんだけれど、最終的には「戦闘が激化することで外国商船が巻き込まれ、日本国内では自国民の生命が脅かされる。それでもいいのか」というパークスの論に屈する形になった。
アメリカはすでに契約していた最新軍艦の引き渡しを凍結。フランスも軍事顧問団を引き上げさせた。
諸外国から見放された形の慶喜は、これで完全に観念してしまった。
パークスは日本を実効支配することに絶対的な自信を持っていた。紳士面で中立宣言とかやっていながら、裏では笑いが止まらなかっただろう。
諸外国の思惑や動きなどについては、別途、まとめて見ていく必要があるだろうから、それは次の回にしよう。
『新釈・クレムナの予言 タラビッチが見た2025年』
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現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。