小野田寛郎さんはサイコパスだった
小野田寛郎氏と同郷だという、私より少し年上のかたから、私が7
年8か月前に書いた「小野田寛郎さんはサイコパスだった」という日記の感想をいただいた。
小野田氏のことを書いたことは覚えていたが、内容の詳細については忘れていたので、日記の中をGoogle検索して、当該記事を見つけ出し、読み返してみた。
自分で言うのもおかしいが、なかなか読み応えのある文だった。
また、今、私が書き続けている「馬鹿が作った日本史」シリーズの執筆動機にもつながる内容が書かれていたので、以下、そっくりそのままnoteにも転載しておきたい。
小野田寛郎さんはサイコパスだった
(2016年3月16日 執筆)
フェイスブックの今日は何の日的な書き込みで、「57年前の今日(1959/03/15)、フィリピン、ルバング島の小野田寛郎少尉と小塚金七一等兵が日比合同捜査隊に発砲する」というのを目にした。
横井庄一さん、小野田寛郎さんの帰還はテレビで大々的に中継されていたから鮮明に覚えている。でも、小野田さんと一緒に潜伏していた日本兵が複数いて、仲間は戦後だいぶ経ってから銃撃戦の中で死んで、小野田さんだけが戻って来たことは、記憶としては残っているけれど、詳細については知らないことが多いと気づいた。
そこで、実際はどういう経緯だったのか、調べてみることにした。
時系列でまとめると、
1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日本軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。
1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
1945年12月 二度目の勧告ビラを確認。山下奉文将軍名による降伏命令と参謀長指示。小野田らはこれも敵の謀略と断定して無視。
1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた他の兵士二人が投降。この二人の協力で同年3月下旬まで計41名の日本兵が森を出た。
1949年9月 最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津一等兵が耐えきれず、小野田グループからの脱出を3回くりかえすも島田伍長にとらえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功。森を出てフィリピン軍に保護される。赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ生存して潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と記したが、小野田ら3人はやはり無視。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけたが3人は潜伏し続ける。一般の日本人はそのときまだフィリピンに入国を禁止されていた。
1952年1月 日比賠償交渉が始まり、日本政府団に随行した新聞記者団が初めてフィリピンに入国を許可される。同年2月、元陸軍中佐がフィリピン空軍の飛行機に乗って島上空を旋回し、拡声器で呼びかけ。小野田、島田、小塚の家族から託された手紙や家族の写真をのせたビラを撒いたが、やはり無視される。
小野田らの島民襲撃、略奪が続くため、内政不安定で手が回らなかったフィリピン政府も「残留兵討伐隊」を送ることを表明するが、最初の救出隊帰国後も現地に残って3人の救出に尽力していた辻豊朝日新聞記者が大統領に討伐隊派遣の延期を直訴し「私がルバング島に渡って投降勧告にあたりたい」と申し入れた。辻記者はフィリピン軍の協力で島に入って懸命に呼びかけた。知っている限りの日本の歌を歌い、上半身裸になって「この白い肌を見てくれ。日本から来た日本人だ」と叫んだが、小野田はそのすぐそばにいて見ていたが無視。
1954年5月7日 共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊を自分たちの討伐隊と勘違いした小野田グループ3人が部隊に発砲。応戦したレンジャー部隊の弾にあたり、島田伍長が即死。小野田、小塚の二人はなんとか逃げた。
島田伍長の遺体確認のために厚生省(当時)の係官と小野田少尉の長兄・敏郎(としお)、小塚一等兵の弟・福治が島に入り、呼びかけ、ビラ撒きを行ったが、小野田・小塚の二人は出てこなかった。
1959年 小野田・小塚による島民殺傷や略奪行為が続くため、フィリピン政府が大規模な討伐隊を派遣することを決定。それを受けて、日本では家族や友人らが救出活動を呼びかけ、国会でも全議員一致で救出を決議。同年5月に小野田敏郎(寛郎の長兄・医師)、小塚福治(実弟)らを含む救出隊が島内で徹底的な捜索を開始。しかし、小野田・小塚の二人はついに現れず、11月には日本政府、フィリピン政府が共同で「小野田元少尉、小塚元一等兵はすでに死亡したものと認め、今後は日本兵が現れたという情報があっても一切取り上げない」と表明。
1972年1月24日 グアム島で元日本兵・横井庄一が発見されて日本中をゆるがす。
1972年10月19日 ルバング島で小塚金七がフィリピン国家警察軍によって撃たれ死亡。原因は小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたこと。小塚の遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたため、直接の死因が銃弾によるものか、その後、住民によって斬りつけられたことによるものかはっきりしない。マニラ警察の検視書には「下顎、咽頭、臼歯、腕骨の破砕。顔面、胸部、右腕の弾着傷による衝撃と出血」と記されている。
この事件で小野田の生存が確認され、厚生省はただちに小野田の兄弟、同期生ら大勢を引き連れた捜索隊を派遣。捜索は翌1973年4月まで三回にわたって行われたが、小野田は最後まで姿を現さなかった。このとき、捜索隊の携帯品をのせた飛行機が転覆炎上し、装備品すべてを消失するという事故も起きた。このときの捜索総費用は1億円(当時)にのぼった。
1974年2月 鈴木紀夫という青年冒険家?が単身ルバング島に渡り、小野田と対面。写真も撮り、「上司である谷口少佐の命令があれば山を出る」と約束させる。その写真は2月28日に日本のテレビで放映された。
1974年3月9日 約束の場所に小野田が姿を現し、谷口少佐からの命令を受け、投降。
1974年3月12日 日本航空特別機で帰国。
……となる。
小野田さん帰国後、各出版社、新聞社は彼の手記出版権をなんとかとろうと争奪戦を繰り広げ、講談社が獲得に成功した。
そのときのゴーストライターが作家の津田信氏で、津田氏はその後、あまりにもひどかった出版までの経緯や内容の歪曲を黙っていることができず、1977年に『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』という本を出版したが、それほど話題にはならなかった。
「ゴーストライターの仁義を忘れた恥ずべき行為」「私怨や主観が入りすぎている」などの批判も受けた。
その本『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』は絶版後、彼の子息によってネット上に長年無料全文公開されていたが、僕はまったく気づかなかった。
今回、気になって、Kindle版 を購入して読んでみた。
上記の時系列まとめも、主にこの本の内容をもとに、ネット上で検証しながら書いたものだ。
アマゾンの読者評を読んでいたので、正直どうなのかな……と思って読み始めたのだが、想像以上にスリリングで、一気に読んでしまった。
本を一気読みしたのは何年ぶりだろうか……というくらい面白かった。
本書は津田氏がゴーストライターを引き受け、そのことを後悔しながらも週刊誌連載を続けて、それが単行本化されるときにも様々なトラブルがあって……という体験談として書かれている。だから、一般的な読者には、津田氏の心情を細々と書き綴った部分などはうるさいと感じるかもしれない。
しかし、僕は津田氏と同業で、若いときにはタレント本のゴーストライターも経験している(どういうわけかそのタレントたちは今ではネオコンや保守政治家になっている)。
だから、津田氏の心情はよく分かるし、彼が書いていることに私情や「恨み節」がたくさん混ざっていても「嘘」はなさそうだということが理解できる。
また、彼はただ感情的に「小野田寛郎は……」と批判しているのではなく、きちんとその理由や背景を、事実に即して説明している。
最初に断っておくと、僕はこの本を根拠に小野田さん個人の人格批判や犯罪行為の断罪をするつもりはない。小野田寛郎という人物の生き方を通じて、当時の社会情勢や時代の空気をより正確に知りたいのだ。さらには、自分があの時代に生きていたらどうなっていたかを想像し、人生を見つめ直してみたいのだ。
また、なぜ小野田さんブームが起きたのか、彼が英雄的に取り上げられ、今でもほとんどの日本人の小野田寛郎像は「偉人」的なものとして根づいてしまっているのかについての分析も、自然とすることになった。
メディアによる意識的、無意識的なコントロールは、今も昔もあった。ただ、あの頃は今ほどは意識することがなかった。若かった僕には、他にやることがいっぱいあったし、小野田さん帰還のニュースは週刊誌ネタ的なものだった。
でも、還暦を過ぎて死を意識する毎日である今は違う。
知らないでいることが幸せなこともあるが、知らないまま死ぬのはつまらないとも思う。
この本は、まさにそうした部分でインパクトがある本だった。
以下、『幻想の英雄 小野田少尉との3ヶ月』を読んで、特にインパクトのあった部分、興味深かった部分を並べてみる。
小野田さんは現地の住民たちを「人」と思っていなかった
ネット上の「小野田寛郎の人物まとめ」的な書き込みを見ると、基本的な部分での誤解がたくさん見うけられる。
代表的なのは、小野田さんらは戦後も任務を完遂するために島に潜伏して「アメリカ軍と戦った」という誤解。
その際の「銃撃戦」で、仲間が次々に殺され、最後に残った小野田さんはひとりでも「戦いを続けた」というようなもの。
まるで、大勢の武装した兵士を相手に、三八銃だけで応戦したゲリラ戦士のようなとらえ方をしている人が多いのだが、調べていくとまったく違っていた。
小野田さんらが殺した相手の多くは武器を持たない現地の住民であり、武装兵士ではなかった。
4人のグループのうち、赤津一等兵は最初にグループを抜け出して保護された。残った3人のうち最初に撃たれて死んだのは島田伍長で、1954年5月7日のことだが、このときの相手は、共産系反政府ゲリラ「フク団」討伐の演習をしていたフィリピン軍レンジャー部隊だ。
このレンジャー部隊は残留日本兵掃討のために島に来たわけではなく、戦闘演習をするためだった。
演習していたところ、突然何者かに銃撃されて驚いたレンジャー部隊が応戦し、そこで島田伍長が撃ち殺された。
二人目の小塚一等兵はフィリピン警察軍に撃たれたが、その原因は、小野田・小塚が住民が収穫したばかりの陸稲に火をつけたことだった。
二人は「敵」の食糧強奪、急襲、放火は「遊撃戦」の基本戦法だと教え込まれていたため、現地住民をたびたび襲って恐怖に陥れていたが、現地住民にしてみたら食糧や日用品を奪われるだけでなく、収穫した米に火をつけられるのだからたまったものではない。
小塚さんの遺体には蛮刀で切りつけた傷跡が多数残っていたという。これは銃で撃たれて倒れた後に、現地住民が寄ってきて、今までの恨みを晴らすために斬りつけたのだろうといわれている。
家族を理不尽に殺され、なけなしの蓄えに火をつけられて燃やされたりしていた人たちの恨みはそれだけ深かった。
小野田さんらが現地住民の食糧を奪う程度でやめておけば、展開はずいぶん違っていただろう。
以下は『幻想の英雄~』からの抜き書きだ。
*格郎:小野田格郎は小野田寛郎の次兄。ブラジル在住。若いときの寛郎が最も影響を受けた兄
*敏郎:小野田敏郎は寛郎の長兄。軍医から戦後は病院院長になった。エリートの敏郎は格郎・寛郎からは疎まれている様子が本書の中では何度も出てくる
南京殺戮の検証番組や、戦争体験者の証言記録などのドキュメンタリー番組を見ていると、ときどき、現地人を殺したことを笑顔で得意げに話す老人がいる。
「今思えば、可愛そうなことをしたもんだ」などと口にするのだが、表情は険しくなく、薄ら笑いを浮かべていたりする。話しぶりにも、「どうだ、驚いたか」というような、自慢げなニュアンスさえうかがえ、そういう場面を見るたびに、人の心の深層に潜む恐ろしい闇を感じるのだが、小野田さんの発言の背景にも同じものがありそうだ。
筆者の津田氏は、より正確でリアルな文章を書くために、執筆中に現地ルバング島を訪れているのだが、そこではこんな場面がある。
島民を惨殺したことを罪の意識なく、むしろ得意げに話す小野田さんと、小野田さんに島民を何人も殺され、理不尽な被害を受けた一方的な被害者であるにも関わらず「小野田さんは立派な軍人のはずだ」と信じようとするフィリピン軍人や現地ガイド。
なんとも対照的だ。
津田氏は短いルバング島滞在中でも、現地のガイドや軍人たちの優しさや親切な対応に何度も感動しているが、同じことをかつての救出隊に参加した日本人記者なども書いている。
ルバング島は小野田さんグループさえいなければ、貧しいながらも平和で静かな島だったはずなのだ。
小野田さんらが殺害した現地住民らは30人以上、負傷者を含めると百数十人、略奪・放火被害などは1000人以上にのぼるという。
小野田さん自身も自ら概ねそのように証言している。
グループから抜けて投降した赤津一等兵への異常なまでの怒り
時系列での出来事まとめの最初のほうを再掲する。
1945年2月28日 米軍がルバング島に上陸。装備もまともになかった日本軍はあっという間に壊滅状態で、一部兵士が山の中に逃げ込んで潜伏。生き残った数十名が投降。小野田寛郎少尉は島田庄一伍長、赤津勇一一等兵、小塚金七一等兵と一緒に4人のグループで山奥に潜伏。
1945年8月15日 終戦。その2か月後の10月中旬に小野田らは投降勧告のビラを見る。
1945年12月 二度目の勧告ビラを確認。山下奉文将軍名による降伏命令と参謀長指示。小野田らはこれも敵の謀略と断定して無視。
1946年2月 日本語による拡声器での投降呼びかけに、潜伏していた他の兵士二人が投降。この二人の協力で同年3月下旬まで計41名の日本兵が森を出た。
1949年9月 最後まで残っていた小野田グループの4人のうち、赤津一等兵が耐えきれず、小野田グループからの脱出を3回くりかえすも島田伍長にとらえられて連れ戻され、4度目にしてようやく脱出に成功。森を出てフィリピン軍に保護される。赤津の証言により、小野田、島田、小塚の3人がまだ生存して潜伏していることが分かり、フィリピン軍はさっそく投降勧告ビラを島内にばらまいた。赤津もそのビラに「投降した私をフィリピン軍は友達のように迎えてくれました」と記したが、小野田ら3人はやはり無視。その後もフィリピン軍は飛行機からビラを撒き、スピーカーで呼びかけたが3人は潜伏し続ける。
赤津一等兵は小野田グループから3回逃亡を試みたが、森を抜け出す前に島田伍長に見つかって連れ戻されていた。4回目でようやく脱出に成功し、フィリピン軍に保護された。
この赤津一等兵への小野田さんの怒りは異常なほどで、帰国後も「ぶっ殺してやる」と何度も言っていたそうだ。
津田氏はそれをそのまま手記に載せるとまずいと思い、殺意を抱いていることまでは伏せて書いた。しかし、小野田さんはゲラが上がってきてから、津田氏には相談せず、担当編集者に猛烈な申し入れをして、赤津さんへの敵意、殺意を書き加えるように主張した。
赤津さんがフィリピン軍に保護され、あと3人潜伏していることが分かってからの初期の捜索隊はフィリピン軍によって行われたが、そのときの様子を津田氏は小野田さんから聞いた内容に沿って以下のように書いていた。
この部分に、ゲラが出た後、小野田さんは津田氏には黙って、こう書き加えていた。
これを知った津田氏は強く懸念を表明し、どうしても削らないと主張して譲らない小野田さんに手を焼き、実兄の敏郎氏にまで「なんとかならないだろうか」と相談している。
小野田さんがブラジルに行く前、最後に会った料亭での送別会の席上でも、こんなやりとりがあったという。
『幻想の英雄~』のその部分を抜き出してみる。
あまりにも強硬な小野田さんの姿勢に辟易し、それから先はもう出版社側にすべて任せたという。
実際に出版された手記(単行本)ではどうなっているのか確認してみた。
入手できたのは初版のすぐ後に出た2刷本だ。
小野田さんは赤津さん以外にも、作家の野坂昭如氏が週刊誌に書いた文章に怒って「轢き殺してやる」(自動車教習所に通い始めていたときだった)と、出版社スタッフの前で息巻いていた。
大東亜共栄圏思想にとらわれていた?
小野田さんは終戦を知っていたし、それどころか、捜索隊が置いていった大量の新聞を隅々まで読み、ラジオで日本語放送を聞いて競馬中継まで楽しんでいた。それなのになぜ出ていかず、現地で山賊生活を続けていたのか?
『幻想の英雄~』の中から、筆者の津田氏が小野田さんに「本当に戦争が終わったことを知らなかったのか?」と確認する場面の一部を、以下、抜き書きしてみる。
一見滅茶苦茶な話をしているように思えるが、よく考えると、今の日本でも、似たような発想で行動している人、しかも上層階級の人間は多いのではないかとも思い直した。
特に最後の言葉にはドキッとさせられた。
金儲けは金儲けで割り切ってやる。そこにイデオロギーや正義、倫理は関係ない。それで儲けた金を軍事力に注ぎ込んで戦争を続けることこそがより大きな目的だ……という発想というか思考回路。
その戦争の目的がなんなのかはあまり関係がない。小野田さんが信じていたのは「大東亜共栄圏」で、仮想敵国はアメリカだったのかもしれないが、それを「国際社会」とか「中国、朝鮮」と置き換えれば、今の日本の世相・風潮・政情と重なる部分があるのではないか?
「戦争請負業」という言葉も、今の世界情勢を見ると、まさに言い得ているではないか。そういう意味では小野田さんの戦争観は狂気とばかりはいえない。むしろ、当時の大衆レベルよりずっと鋭いかもしれない。
「戦争請負業に金をやって、アメリカと戦ってもらっている」を「アメリカに金をやって、戦争請負業をやってもらっている」と言い換えれば、まさに現代の日本のことではないのか?
そして、その戦争請負業は大金が動くから、そこに参加して分け前をもらいたがっている日本……。
小野田さんの天皇観
小野田さんはいわゆる「右翼」というのとは違う。
津田氏は、小野田さんの天皇観を2回聴いていると『幻想の英雄~』の中で書いている。
小野田さんはこれを本の中に書き込まれることを拒否したという。ここでも言っているように「今の自分が、自分の考えを喋ったら、あちこちで問題になると思ったから」だ。それは本当だろう。
また、この天皇観が、次兄の格郎氏の影響によるものだということも津田氏は指摘している。
島を出て行くまでのミステリー
『幻想の英雄~』では、小野田さんが一人になった後、鈴木青年の前に姿を現し、帰国するまでの経緯について、様々な不自然さや疑問を投げかけている。
鈴木紀夫青年は自衛隊特殊部隊所属の工作員だったと証言する人物の話まで出てくる。
また、正確には直属の上司ではなかった谷口少佐の名前を小野田さんが「逆指名」した意図や、恨みを募らせた現地の人たちから(小塚一等兵のように)殺されずに日本までたどり着くための「サバイバル戦略」を緻密に組み立てていたのではないか、といった記述もある。
例えば、本の表紙にも使われている、軍服を着て敬礼している有名な写真は、谷口少佐からの命令を受けたときの写真を鈴木青年が撮影失敗したことが分かって、翌日にマスコミ発表用に「撮り直し」したものだそうだ。そういう「演出」もなんのてらいもなく受け入れてきっちりこなしたのは、小野田さんがすでに「日本への凱旋」を成功させるための戦略を綿密に練り上げていたからではないか、と津田氏は推察している。
そのへんも小説を読んでいるかのような面白さがあるのだが、ここでは深く掘り下げない。
津田氏の推察が合っているかどうか判断するだけの材料が乏しいし、細部はどうでもいいかな、と思うからだ。
しかし、全体的に、小野田さんの偏屈さや矮小さと、驚異的な粘り強さ、強靱さが結びついた結果がああなったのだろうということは理解できる。
小野田さんはサイコパスだった
小野田さんの思考回路には、一般人には理解しがたい頑固さ、偏狭さと、超人的な粘り強さ、意志の強さ、無慈悲でドライで迅速・正確な行動力が同居している。
こうした特質はいわゆる「サイコパス」気質というものだと主張する学者がいる。
NHKで放送された『心と脳の白熱教室』という番組に登場するケヴィン・ダットン博士(オックスフォード大学)はサイコパスを研究している。
彼によれば、人は誰でも多かれ少なかれ「サイコパス的気質」を持っていて、その程度がどのくらいか、それを実生活でどのように活用できるかによって、猟奇犯罪者にもなれば経済的な成功者にもなるのだという。
大企業のCEOや弁護士などは、一般人よりもサイコパス度合が高いというのだ。
ダットン博士自身、サイコパステストをするとかなりの高い得点が出るそうで、彼は自分を含めて、サイコパス的な人間は、その性格・才能をどのように利用するか、活用するかが重要だと主張する。
007ジェームズ・ボンドやゴルゴ13は完全なサイコパスだが、お話の中ではヒーロー的にも描ける。
しかし、ボンドやデューク東郷みたいな人物がルバング島の森の中に潜伏して、その強靱な意志で「決して出ていかない」と決意し、島民を相手に殺戮・強奪を繰り返したら、これはもう地獄絵になること間違いない。
まさに小野田グループが潜伏したルバング島はそうなっていたのではないか。
小野田さんが(ダットン教授がいうところの)サイコパスであったことは間違いないと思われる。
問題は、小野田さんがそのサイコパス性をあのような方向に発揮した背景だ。
彼が軍隊に入らないで、例えば企業人として終戦を迎え、戦後日本を生きていたらどんな人生を歩んでいたのだろうか。
ブラック企業の経営者として大金を稼いでいた? それとも慈善家として尊敬されるような人物になっていた?
まあ、それはどうでもいい。
小野田さん個人の人生をどうこう想像するよりも、幸運にも、彼のような人生を歩まないで済んだ私たちは、彼をひとつの「題材」として、自分の人生、人間の本性、歴史の残酷さといったことを、より深く考察することこそ重要なのではないだろうか。
読後、妻に内容をざっと話したところ、こう返してきた。
「戦争を知らない世代に生まれていたら普通に一生を送っていた人──いい人、ちょっと変な人、ちょっと嫌な人程度の『普通の人』が、あの時代に生まれたということだけで、一生自分でも知らなくてよかった人間の暗い本性をさらけだしてしまった、と考えると、気の毒だし、怖い」
そうだな~。
もし、自分があの時代に生まれ、軍隊の士官として中国大陸や南方戦線に行っていたらどうなっていただろうか?
とてつもなく怖い。
戦後に生まれたというだけで、自分の人生がいかに幸運だったかが分かる。
平和な時代の非暴力的サイコパスには成功者が多いというが、自分にはサイコパス要素がどのくらいあるのか……。
ネット上に出ている診断テストの類をいくつかやってみたが、すべて平凡な結果しか出なかった。
どうやらサイコパス的な才能はないらしい。
しかし、別の要素で人生を狂わせていた可能性は大いにある。
こうして戦争のない時代に生まれていても、若いときに大成功してちやほやされて大金を得ていたら、とんでもなく嫌な人間として一生を過ごしたかもしれない。それに気づくことなく死んでいったかもしれないし、何か大失敗して(女とか薬とか……)、悲惨な後半生になっていたかもしれない。
酸っぱい葡萄ではないが、自分が凡人であったこと、社会的な成功を得られなかった人生だったことも、幸せなことだったと思うことにしよう……。
国外のA級サイコパスに操られる現代日本
★ ↑ ……以上が2016年3月16日に、日記に書いた文章だ。
細部をすっかり忘れていたが、「小野田さん個人の人生をどうこう想像するよりも、幸運にも、彼のような人生を歩まないで済んだ私たちは、彼をひとつの「題材」として、自分の人生、人間の本性、歴史の残酷さといったことを、より深く考察することこそ重要」という部分は、私が今書いている「馬鹿が作った日本史」シリーズの執筆動機にも通じる。
また、サイコパス気質は多かれ少なかれ誰もが持っているが、暴力的で知性の高いサイコパス(タイプAとしよう)は特殊部隊や犯罪組織の黒幕。暴力的で知性の低いサイコパスは下級の悪党や犯罪組織の実行員(タイプB)などになりやすい、というダットン博士の研究は、幕末のテロリストたちにそっくりそのままあてはまるのではないか。前者の典型が西郷隆盛、後者の典型が西郷の指示でテロ活動を続けた相楽総三らだろう。
非暴力的で知性の高いサイコパスは投資家、実業家、弁護士に多いという「タイプC」は後藤象二郎や岩崎弥太郎だろうか。そしてその頂点にいるのがアーネスト・サトウで、サトウはタイプAの西郷らを操った……というような分析をすることもできそうだ。
現代日本の政界、財界、学界、メディア業界にいるサイコパス気質の者たちの能力はずいぶん落ちているとも思える。
サトウのような超AクラスのタイプAサイコパスに国全体がいいように操られている。操られたタイプCの者たちと、その下で働く、限りなくタイプBやタイプDに近い日本人たちが一緒になって、日本という国を破滅に追い込んでいるのではないか。
そんなふうに思えてならない。
ここから先は
現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。