馬鹿が作った日本史(30) 禁門の変
イシコフ: さて、長州が京都御所に向けて発砲するという禁門の変が起きた元治元(1864)年は、その前にも後にもいろいろなことが起きた。
まず、元号が文久から元治に変わった直後の3月、薩摩藩で島流しになっていた西郷隆盛が呼び戻されて、藩軍賦役(軍司令官)に任命されている。
西郷が薩摩藩に戻ってきたことが、その後の日本の運命を大きく変えることになるんだ。
凡太: 西郷さんはなぜ島流しになっていたんですか?
イシ: 西郷は2度島流しされている。最初のは、島流しというよりは、死んだことにされた。
京都の清水寺成就院に月照という僧がいた。過激尊王攘夷派の公家や西郷ら、攘夷派藩士たちと深い関係を持ち、将軍継嗣問題では一橋派として朝廷工作もしていたため、幕府からは危険人物と見なされていた。
西郷が主君の島津斉彬が急死したときに後を追って殉死しようとしたのを説得して止めたとも言われているね。
将軍継嗣問題で一橋派が破れると、月照も捕縛され処刑されるんじゃないかということで、親しかった西郷が薩摩に逃がそうとしたんだけれど、藩としてはそんな厄介者を抱え込みたくない。日向国に移送して国境で殺害するように命じる。
追い詰められた二人は海に入って自殺するんだけど、西郷だけ生き残ってしまった。
そこで藩は、西郷は死んだことにして、名前を変えて奄美大島で隠遁させることにした。
凡太: その時点で、西郷さんはすでに自殺未遂を2度しているようなものですね。
イシ: 昔の武士は、命に対する感覚が現代人とは全然違うんだろうね。
で、奄美大島からは文久元(1861)年に呼び戻されている。久光が兵を率いて京都に向かう前だね。大久保一蔵(利通)らに説得されてのことだった。
久光と西郷はとにかく仲が悪い。しかし、久光としても勝負のときだから、西郷を呼び戻して使うことにしたんだな。
ところが、西郷は久光に向かって「あんたのような無位無冠、江戸も京都も知らない田舎者が上洛して朝廷を動かそうなど、無理に決まっているからやめたほうがいい」と言い放った。
当然、久光は激怒したものの、大久保らになだめられ、結局、西郷を下関待機組として残して上洛する。
ところが、京都で有馬新七ら過激攘夷派が決起しようとしていると聞いた西郷は、下関待機の命令を無視して久光より先に勝手に京都に入り、過激派藩士たちの説得を試みた。
命令を破って勝手に動いた西郷に対する久光の怒りは頂点に達して、西郷を捕縛して鹿児島へ護送させた。
その後、久光が京都にいた自藩の過激派藩士を処分するという寺田屋事件が起きる。
寺田屋事件の実際の斬り合いには巻き込まれなかったものの、このとき京都の各宿に分散していた過激攘夷派の中には、西郷の弟・西郷従道(後に明治政府で海軍大臣などを歴任)や、従弟の大山巌(後に明治政府で陸軍大臣などを歴任)も含まれている。
これで、もともと悪かった久光と西郷の関係は、決定的にこじれた。
西郷は徳之島へ、西郷を兄と慕い、行動を共にしていた村田新八は喜界島に、それぞれ遠島処分された。
これが西郷の2度目の島流しだね。
この2度目の島流しからまたまた復帰したのが元治元(1864)年のことだ。
この西郷の2度目の復帰直後、水戸では藤田東湖の四男・藤田小四郎率いる過激攘夷派が北関東一帯で放火、略奪、殺戮をする天狗党の乱というのが起きている。
さらに6月(西暦では7月)には京都で池田屋事件が起きた。
京都から追い出された長州藩士を中心とした過激攘夷派が報復を計画しているという情報を得た新撰組が、池田屋で謀議中の過激攘夷派を急襲したという事件だね。
これによって長州藩の吉田稔麿はじめ、肥後藩、土佐藩、久留米藩、林田藩などの藩士20名以上がその場で死んだり、捕らえられた後に獄死、処刑で死んでいる。宿を使わせて協力したということで、池田屋、近江屋、和泉屋、丹波屋といった宿の主人や関係者も処刑された。
凡太: 西郷さんは、仲間たちの死を見続けてきたんですね。
イシ: そうだねえ。ドラマや映画では骨太で豪快なイメージで描かれるけれど、実際には若いときの経験が凄まじすぎて、精神を相当やられてしまっていたのかもしれないな。久光とうまくいっていなかったというのも薩摩や自分自身の命運を決めた点で大きいね。
で、池田屋事件の直後、イギリスに密出獄していた長州の5人のうち、伊藤俊輔(博文)と井上聞多が長州藩が大変なことになっていると聞いて急遽帰国した。イギリス領事・オールコックの斡旋もあって、長州藩内での過激攘夷派をなんとか説得しようとした。西洋列強の技術力を相手に戦争なんかしても勝てるはずがないと説明したけれど、まったく相手にされず失敗。
久坂玄瑞を筆頭とする過激攘夷派は、かくなる上は京都に進軍して武力を持って自分たちの正当性を訴えるという方向に突っ走った。
玄瑞らが京都に向かう前夜に池田屋事件が起きているのも要注意だね。
池田屋事件の詳細については諸説あるんだけれど、玄瑞ら過激派が京都に進軍して街を焼き払い、天皇を連れ去って主導権を握るというトンデモな計画を立てていたことが新撰組の耳に入って、新撰組が必死で京都市内の潜伏過激派を探していたときに起きた、という説がある。
そこまでのことは計画しておらず、捕らえられた仲間を救出する作戦だったという説もあるけれど、その後の展開を見ると、天皇誘拐計画というのも実際あったのかもしれないと思えるね。
その後、松代藩の佐久間象山が暗殺されている。
象山という人はかなりクセの強い人だったようだけれど、西洋の知識も豊富で、自由な発想をする人だったから、やはり惜しい人材がテロで失われてしまったんだね。
で、長州は京都に進軍することを決め、京都に入ると、3000人の兵を伏見、嵯峨、山崎の3か所に陣取らせた。
ただ、最初から戦闘を決めていたわけではない。3000人の兵で脅しをかければ、朝廷も幕府も自分たちの要求を呑むんじゃないかという甘い考えがあった。ひと月くらいは、長州藩寄りの攘夷派公家や諸藩と面会して、自分たちの考えを訴えるんだけれど、うまくいかない。
そこで、長州過激派の中でももっとも過激な来島又兵衛はすぐにでも会津や薩摩を叩きのめすと気勢を上げたが、久坂玄瑞は、藩主が率いる本隊到着まで待とうと主張。
来島という人はどうしようもなく過激だったんだな。
長州藩の中で慎重論を唱えた周布政之助は、来島に「そなたの尊皇の気持ちが人一倍強いことは分かっているが、他の藩の者と話したり、幕府の者と複雑なことをやりとりしたり、朝廷に訴える力があるとは思えない。話しているうちに必ずキレて、刺すの突くのということになるに決まっている」と諭していたそうだ。
しかし、来島の激情は収まらない。
8月18日の政変で京都を追われ、長州に入っていた真木和泉(保臣)も来島に味方して強硬論を主張する。真木は天皇が先頭に立って攘夷を決行するという思想で、過激派公家たちに取り入り、偽の勅許を乱発させたことで孝明天皇の怒りを買った人だね。
このとき、朝廷内でも激しい分裂・対立があった。
長州寄りの攘夷派である有栖川宮幟仁、有栖川熾仁、中山忠能らは、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えたが、孝明天皇は頑として長州勢の追討を主張した。
一橋慶喜はなんとか話し合いで長州軍を撤退させられないかとしていたようだけれど、孝明天皇の「長州は追討すべし」の意志が強く、最終的には武力での排除やむなしと覚悟する。
長州内でも、久坂玄瑞らはぎりぎりまで来島らの暴走を止めようとしたと言われている。しかし、最終的には来島や真木に押しきられて挙兵する。
そんなこんなで、7月19日、ついに禁門の変が起きてしまった。
凡太: 禁門というのはどこのことですか?
イシ: 禁裏の門、つまり皇居、御所の門のことだよ。御所全体を指すこともある。
御所にはいくつかの門があって、西側にある蛤御門での攻防戦がいちばん激しかったので、禁門の変は「蛤御門の変」とも呼ばれているね。
長州軍が御所突入を狙っていると知って、幕府以下、会津藩、福井藩、薩摩藩、大垣藩、桑名藩、そして京都守護職の配下に位置する新撰組が禁門の警護を固めた。総勢2万とも3万ともいわれている。
そこに3000人に満たないくらいの長州軍が時間差でバラバラに突撃していったわけだ。
一旦は御所内に乱入できた隊もあったが、薩摩藩が加わった反撃に遭ってことごとく敗退。追い詰められた来島、久坂、真木らはことごとく自決した。
桂小五郎(木戸孝允)は、但馬方面に脱出し、潜伏に成功し、生き延びた。
生き残った長州兵は、逃げる際に長州藩屋敷に火を放った。追撃する会津兵らは、長州藩士が隠れていそうな中立売御門付近の家屋を攻撃。この二か所、あるいは他にも火元はあっただろうけれど、戦火によって京都市内の広範囲が焼け野原になってしまった(「どんどん焼け」)。東本願寺の阿弥陀堂、御影堂も全焼している。
凡太: とんでもなく迷惑な戦いですね。この時点では薩摩と長州は敵同士で殺し合っているんですね。
イシ: そうだよ。
西郷隆盛もこの戦には加わっていて、銃弾を受けて負傷している 。
西郷の弟分を自負する村田新八も薩摩藩兵の一隊を率いていたんだが、長州藩兵が立て籠もった天龍寺において、生涯ついてまわる汚名を残してしまった。
村田の隊と幕府軍が天龍寺を囲むと、長州藩兵は逃走した。それを確認した上で、村田の隊が天龍寺に入り、寺の備品などを略奪した上で、最後は大砲を撃ち込んで寺を全焼させたんだ。
凡太: 長州だけでなく、薩摩も戦に紛れてとんでもないことをしてるんですね。
イシ: 戦争というのは人を狂わせるんだろうね。
しかし、この長州の大敗ということでは戦は終わらなかった。
こうした一連の騒動を冷静に観察していたイギリスが、薩長への接近をさらに進めていった。
薩長土佐の要人と積極的に面会した総領事のパークスや、武器を売りまくったグラバーの動きが注目されがちだけれど、実はパークスのブレーンともいえる若きアーネスト・サトウがいなければ、日本の幕末史はあのようにはなっていなかっただろう。
……というわけで、禁門の変後の展開についてはまた回を改めよう。
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現代人、特に若い人たちと一緒に日本人の歴史を学び直したい。学校で教えられた歴史はどこが間違っていて、何を隠しているのか? 現代日本が抱える…
こんなご時世ですが、残りの人生、やれる限り何か意味のあることを残したいと思って執筆・創作活動を続けています。応援していただければこの上ない喜びです。