タヌキの親子見聞録 ~東北旅編③~ 宮城(仙台)~岩手(平泉 中尊寺)
第1章 牛タンよりポケモン
仙台駅には午後6時半過ぎに到着した。この旅で立ち寄った駅の中では、一番大きな規模の駅だ。木曜日の夕暮れになるかならないかの境目の街に、大きなリュックを背負ったタヌキ4人が、あたりをキョロキョロしながらエスカレーターで駅から降り立った。今晩の宿泊先のホテルがある方向へ父ダヌキに先導されて、兄ダヌキ、弟ダヌキ、母ダヌキがついて行く。駅をすぐ出たところには、24時間オープンのマクドナルドもあり、「ポテト食べたい」と条件反射のように兄ダヌキがぼそりと言った。途中で横切った公園には、明らかに日本人でない人が、公園のベンチでおしゃべりをしている。この近辺でお仕事されている人だろうか。これまでと違い大都市に来た感があり、あちこち見ているうちに本日の宿であるホテルに到着した。
受付の階に着くと、カウンターに人はいるのだが、受付事務に出てこない。どうやら受付事務自体が機械化されており、カウンター前の受付機で人を介さずに済むシステムとなっているようだった。「すごい!やっぱ都会じゃね」と母ダヌキは父ダヌキが受付機で手続している後ろで驚いていた。子ダヌキたちはウェルカムドリンクがここでもあることに気づくと、「俺、コーラ飲む」と言って取りに行った。しかしあまり種類が無く、コーラもなかったのでがっかりして、他のジュース(レモン水だったか)を飲んでいた。親ダヌキたちも、「お酒が無い」とがっかりした。鶴岡市のホテルのウェルカムドリンクが良すぎたため贅沢になってしまった。仕方なくコーヒーをカップに入れ、今夜泊まる部屋に荷物を置きに行った。「荷物を置いて牛タン食べに行くよ」と父ダヌキが言うと、仙台駅に近いところにポケモンセンターがあることをリサーチ済みだった子ダヌキたちは、「まずはポケモンセンターに行く」と張り切りだした。午後7時になっていたので、せっかく楽しみにしていたポケモンセンターが閉まってはならないので、「じゃあ、明日の電車の切符を買いに行ってくるから、その間にポケモンセンターに行っておいで」と父ダヌキが言った。
ホテルから再度駅方面へ向かい、ポケモンセンターを目指す。ポケモンセンターは駅の隣に立つパルコの8階にあった。父ダヌキは明日朝8時に乗る新幹線切符を買うためにみどりの窓口へ向かい、その後ポケモンセンターで合流する予定となった。ポケモンセンターへ行くと、もうそろそろ閉店となるはずなのに、たくさんの人で賑わっていた。子ダヌキたちはセンターの方々へ散って、自分の好みのポケモンのぬいぐるみなど物色し始めた。ポケモン世代でない母ダヌキは、どうしてもこのポケモン熱が理解できなかった。しかし、弟ダヌキが真剣な顔をして「ミズゴロウが無いな」とぬいぐるみの棚を一生懸命探している姿を見ると、おざなりにはできないのであった。兄ダヌキはカードゲームセットのところを見ていて、「山口では自分の欲しいのが無いけど、ここにはいっぱいある」と目を輝かせて選んでいる。父ダヌキが30分後にポケモンセンターに着いた時にようやく何を買うか決めて、自分のおこづかいでほしいものを手に入れた。「荷物になるけど自分で決めて買ったんだから、ちゃんと持って帰りなさいよ」と母ダヌキが言うと、「わかった!」と、この旅一番の笑顔で子ダヌキたちは返事をした。
第2章 宮城県でしか食べられない牛タン
ポケモンセンターから、急いで駅前のAKビルにある「たんや善治郎 仙台駅前本店」に向かう。もう少しで午後8時になるが、まだラストオーダーまで時間があるから大丈夫だろうと思っていた。店に着くとビルの階段下まで人が並んでいたので驚いたが、とりあえず並んだ。父ダヌキは、予約の紙に名前など書かなくてはならないかもと思い、店の入口まで行くと「もういっぱいで、整理券がある人しか受付できません」と断られた。父ダヌキは驚いて引き返し、並んでいるタヌキたちに伝えると、「あそこならまだ食べられる牛タン屋があるかもしれない」と、調べておいた駅ビル構内の牛タン通りに行くことを提案した。
仙台駅構内の3階に急いでいくと、「たんや善治郎 牛タン通り店」の前には長い列ができていた。ダメもとで父ダヌキがお店に聞いてみると、「大丈夫」と言われたので列に並ぶことにした。「マックでいいんじゃない」と兄ダヌキは不服を言ったが、「ここで牛タン食べないでどうするの」と父母ダヌキにとがった眼で怒られ、ポケモンセンターに行った弱みもあり並ぶことに同意した。タヌキ一家が並ぶとすぐ受付終了となり、その後、店に入りたそうに通った人が何人かいたが、もう終わりという看板を見て残念そうに去っていった。
並んで30分以上たっただろうか、午後9時前にようやく店内に通してもらえた。席に着くとすぐに「牛タン定食」と注文した。弟ダヌキは体も小さく、脂っこいものが苦手なので、4枚8切れの定食(2,585円)が通常なのだが、一枚少ない3枚6切れの定食(2,090円)にした。牛タンは、オーストラリア、ニュージーランド産のもので、このお店では塩味が基本とされているらしい。オーダーして先にサラダやスープが出てきた。スープは、テールスープで、長ネギがいっぱい入っており、肉もほろほろで、とてもあっさりした味だった。母ダヌキだけは、サラダではなくとろろ芋を選び、父ダヌキと半分こした。サラダやスープを食べていると、ようやく主役の牛タンが登場した。食べやすく包丁の切れ目が入っている牛タンは見るからに柔らかく、その側には白菜の漬物と南蛮味噌というピリッとした辛さの青唐辛子の味噌漬けが添えてあった。実際、硬い肉が苦手な弟ダヌキは、口に入れるなり「うまい」と叫んだほどだ。肉だけで食べるのもいいが、側にある青唐辛子の味噌漬けを添えて食べると、辛さがアクセントになって麦飯が進む。子どもには少し辛すぎたようで残していたが、父母ダヌキは麦飯をおかわりするほど食が進んだ。辛さに舌がしびれると、麦飯にとろろをかけたものを口内に入れると、口の中が辛さでしびれていたのがおさまって、また辛さを欲するようになる。よく計算されている定食である。弟ダヌキだけ3枚6切れにしたが、おいしかったので母ダヌキの分を1枚2切れもらい、結局、通常の定食分の牛タンを食べた。兄ダヌキは、「牛タンも美味しかったけど、テールスープ最高」と、マックの存在を一瞬忘れたほどだった。この「たんや善治郎」は宮城県でしか食べられないので、頑張って並んでまで食べたかいがあったと、タヌキ一家は大満足でお店を後にした。
旅の予定では、この後、母の好物であり、念願であった海鞘を食べに行く予定にしていた。しかし、並んで牛タンを食べて、疲れと満腹感で次の店に行くのは子ダヌキたちには難しく、泣く泣く諦めるしかなかった。明日は、朝8時には仙台を離れて次の場所へ移動しなければならない。海鞘を食べられなかった母ダヌキは、「今度は仙台メインでやってくるぞ」とひそかに心に誓ったのであった。
第3章 武蔵坊弁慶 最後の場所
次の日は、2日目の朝と同じように、ホテルでの朝食を早くとって出発するため、朝6時には子ダヌキたちを起こして、ホテルの朝食ビュッフェに向かった。もうすでに人が並んでいたので、列に並ぶと、ビュッフェで何が食べられるか遠くから観察した。パンもご飯もあるようだが、ここの朝食の特徴は、ワッフルがあることだ。自分たちの番になると、タヌキ一家はみんなワッフルを選んで、自分の席を見つけて食べた。兄ダヌキはワッフルにチョコレートソース、弟ダヌキはメープルシロップをかけて食べていた。ごぼうと牛肉の煮ものは仙台特有のおかずなのかもしれないと、父母ダヌキは選んで食べた。スムージーもあったが人気があったようで、ミキサーの中はほとんど空に近かった。
朝食後、新幹線の乗車時間に間に合うように仙台駅に向かう。運のいいことに、今回乗るやまびこは、E5系で、はやぶさと同じモデルの車両だった。弟ダヌキは保育園の頃新幹線が大好きで、「こまちとはやぶさが好き」と言って乗りたがっていたので念願が叶った。
きれいな常磐グリーンの新幹線に乗ること約35分、一ノ関に到着した。ここで東北本線に乗り換え、平泉へ向かう。一ノ関の駅では、ピカチュウの置物やピンク、黄色、青色のドア風オブジェがあったりして、20分の乗り継ぎ待ち時間に子供たちが遊んでいた。
東北本線に平泉へ向かうため乗車する。車内には中尊寺観光と思しき人たちが朝早くから、平日なのにまあまあの人数乗車していた。一ノ関から2駅目、約7分乗ると平泉に到着した。ここでは、世界遺産の中尊寺を巡る。タヌキ一家は、リュックを駅のコインロッカーに預け、駅前から出ているバスで中尊寺へ向かった。
午前9時20分頃中尊寺前に到着。中尊寺入り口前の松の木の傍らに武蔵坊弁慶の墓が建っていた。
文治5年(1189)、奥州藤原氏4代目藤原泰衡が源頼朝の圧力に屈し、かくまっていた源頼朝を襲撃した際に、弁慶は君主を守るためこの墓の近くの衣川近くのお堂で、義経を守るため薙刀で防戦し、無数の矢を受けて立ったまま絶命した。有名な「弁慶の立往生」である。ここ中尊寺は、奥州藤原氏の初代藤原清衡が、戦乱の悲惨な体験から、仏教思想をもとにした平和な国を実現しようとして1100年代の初めに建立された。その約90年後、このような願いとは裏腹に戦いが起こり、奥州藤原氏は滅亡してしまった。弁慶の墓は大きな岩だが、気を付けていないと「これが弁慶の墓」というのがわからないくらい入口にさりげなくたっている。
そこから歩いてすぐ、大きな杉に挟まれた上り坂が見える。中尊寺の入口だ。東北の名所には、必ずこのような大きな木があるのだが、ここまで大きくなるには長い時間と適切な管理が必要だったであろう。入口は、急な坂道になっていて、寺に参るというより、これまで歩いてきたような山を登るというイメージに近い。大きな木に囲まれた舗装されていない道は、なんだかタイムスリップしたような気分にもさせてくれて、歩くだけで神聖な気持とアトラクションを巡っているような楽しい気持ちが味わえる。この日も朝からいい天気で、帽子と手ぬぐいで武装してきたタヌキたちだったが、大きな木に木陰を提供してもらい帽子を脱いで、一番奥にある金色堂を目指した。
第4章 世界遺産 中尊寺
約560mの月見坂を上り、総本山比叡山延暦寺より分灯された「不滅の法灯」が灯る本堂へ着いた。本堂の奥に鎮座する大きな仏様の両脇に灯籠があり、この中に1200年前に本山延暦寺から分灯された「不滅の法灯」があるようだったが、薄暗くてよくわからなかった。
その隣に峯薬師堂がある。タヌキ一家の中尊寺での目的は、金色堂を見るのと、もう一つはここの「目の御守」をいただくことであった。新型コロナウィルスが流行して外出できない日々となり、子ダヌキたちは家でじっとしていないとならない時期があった。その時に、どうしても鬱々となってしまう日々を何とか乗り越えるために購入したのがゲームだった。このため、特に弟ダヌキは、本当に小さい時期からゲームを始めてしまい、目に悪影響を及ぼした。今年の3月には、とうとう眼鏡をかけなくてはならなくなり、これ以上度が進まないように、この峯薬師堂で「目の御守」をいただくことにしていたのだ。薬師堂前には、かわいらしいカエルの石像があったので、お守りを売っている人に聞いてみると「『旅から無事カエル』など縁起のいい意味があり、また前の池がモリアオガエルの生息地ということで建てられた」とのことだった。「目の御守」(600円)を子ダヌキたち分購入し、大きな目をしたカエルの像の目を撫でて、「目を前のようによくしてください」とお願いして奥のほうへ進んだ。
入口とは打って変わって、なだらかな参道を奥へ行くと、左手に「金色堂拝観券発行所」の看板が見えてきた。ここで金色堂と讃衡蔵という宝物館は、拝観料を支払って入ることになる。大人800円、中学生300円、小学生200円だ。まだ午前10時前で、観光客も少ない時間帯なので、早めに金色堂に行って見学することにした。
金色堂は、覆堂の中にあり撮影は禁止されている。天治元年(1124)に建立。建物の内外を金箔で覆い、随所に螺鈿細工・蒔絵や精緻な彫金を施した「皆金色」の極楽浄土を表しているという。三基の須弥壇の上には、それぞれ本尊である阿弥陀如来、両脇に観音菩薩・勢至菩薩、さらに6体の地蔵菩薩と持国天・増長天がそれを囲む。その中央壇には、奥州藤原氏初代清衡公、向かって左の壇に二代基衡公、右の壇に三代秀衡公のご遺体が納められているらしい。金色堂の周りにはガラスが張り巡らされ、見える場所からも距離があり、細かい装飾や仏像の表情がよくわからなかったが、中央壇の像が一番美しくかつ貫禄があるように感じた。見学後、遠くにもともと金色堂を保護していた覆堂があるようだったので、もう少し奥まで行ってみる。その途中、またもや俳聖松尾芭蕉像と出くわした。松尾芭蕉は、源義経没後500年目にこの平泉にも立ち寄り、数々の名句を残している。この金色堂では、「五月雨の降残してや光堂」という句を、すぐ近辺の、義経最後の地、高館では「夏草や兵どもが夢の跡」という句である。
江戸から平泉まで、門人曽良と44日もかけてやってきた芭蕉は、少しだけの間12~13km歩いてヒイヒイ言っているタヌキ一家からすると、鉄人、いや超人である。子ダヌキたちは、この旅の途中で何度もお会いする俳聖に少しずつ親近感が湧いてきただろうか。「これで俳句に興味を持って、少しでも国語の点数が上がれば・・・」とよこしまな考えを持ちながら写真を撮る母ダヌキであった。
第5章 執念と根性の修復作業
旧覆堂では、昭和37年(1962)から昭和43年(1968)に行われた昭和の大修理の映像が見ることができた。
はがれてしまった螺鈿一つについても、どれがどこに当てはまるか、ジグソーパズルよりも難しく根気のいる作業をされていたことがよく分かった。修復士の方々が、諦めず一つ一つ螺鈿の形を確認して、これまでの修復作業の間違いも正し、なければ当時に最も近い形で補修するという作業は、タヌキたちにとって、俳聖松尾芭蕉と同じような超人のする作業に思え、ただただ感心するばかりであった。30分くらいの映像だったので座って見ていると、何匹か蚊に攻撃され、一番美味しそうな子ダヌキたちが犠牲になって刺されていた。時計を見ると午前10時半になっていた。父ダヌキは「蚊もいるし、宝物が見られる讃衡蔵にも行ってないから見に行こう」と提案した。あまりゆっくりしていると、この後のスケジュールが押してくるからだ。急いで讃衡蔵へ向かい、奥州藤原氏の残した文化財を見学した。とにかく印象は、金色できらびやかな極楽世界という感じだった。もっとゆっくり見たかったが、人も増えて来て、かつ、次の電車への乗り継ぎのバスが午前11時ごろ中尊寺入口に来るので、トイレに行って入口までの参道を駆け足で下った。下る途中で、上る時に見た猫がいたので、弟ダヌキはまた撫でに寄った。猫好きの弟ダヌキには、金色堂よりもかわいい猫のほうがいいようで、名残惜しそうに何度も撫でていた。
中尊寺入り口付近にはいろいろなお土産屋さんがあったが、ゆっくり見ている時間が無かった。これから電車で花巻に向かい、昼食は宮沢賢治も通った「やぶ屋」という蕎麦屋でわんこそばを体験するのだ。中尊寺の周りのお店でもわんこそばはできたようだが、「賢治の通った蕎麦屋でやることに意義がある」ということで、花巻の「やぶ屋」でわんこそばを体験することにしたのだ。バス停でバスを待つ間、父ダヌキがやぶ屋に予約を入れて準備完了。これから平泉駅へ戻り、そこから東北本線で花巻まで約40分電車に乗る。平泉駅に着くと、コインロッカーに預けた荷物を受け取り、しばらく駅舎でお茶などを飲み休憩した。駅にある「ニューデイズ平泉」というコンビニでおみやげがあるか見たが、とても喉が渇いていて、お饅頭やおせんべいを買う気にはなれず、涼しげなビールやアイスに目が行ったが、これから「やぶ屋の『わんこそば』」という戦いが控えているのに、そちらにも手を出せず生殺し状態で花巻へ向かう電車を待った。
電車が到着すると、平泉からはタヌキ一家と同じようなリュックを背負ったり、カメラを持った旅行客が花巻行きへ乗り込んだ。「多分、中尊寺から宮沢賢治ルートだな」と母ダヌキは思いながら、これから待っている戦いに臨んで、お腹をぐぅと低く鳴らしながら車窓を流れる緑を気もそぞろに見ていた。