(小説)異・世界革命Ⅱ 空港反対闘争で死んだ過激派は異世界で革命戦争を始める 03
保守派貴族に反対されずに、スラム地区の環境改善策をどうやって通せばよいだろうか?
総理大臣に忖度する日本の官僚と同様だ。官僚貴族が国王にへつらうことを、この王女はよく知っていた。父王を説得できれば簡単だが、それでは娘王女の立場を利用して政治に口出ししたことになってしまう。王族の私室である内宮で「おねだり」するなど最悪だ。権力の私物化と見られても仕方がない。そもそも縁故政治を嫌う父王が、内宮での「おねだり」というだけで承認しないだろう。保守派貴族に警戒感を持たれるだけで終わる。スラム地区の治水事業を、保守派貴族すら喜んで賛同するように誘導しなければならない。
王女といえども国王との公的な謁見を希望する場合は、王室官房に願書を提出する。『一、離宮の建設計画についての私案。二、王都で定期的に発生する伝染病の予防策について』。
ジュスティーヌは直系の王族だ。やっぱり官僚が忖度した。翌日には、「明日の九時に謁見室にお越しくださいますように」という丁重な返書が届けられた。
民衆派の提言とみなされると、適当な口実をもうけて潰されてしまう。なので、レオンは同行させられない。政治的な色のついていない王国大学の教授に補佐を頼んだ。謁見室では、国王を筆頭に関係閣僚や官僚が待っている。
公的な場なので、ジュスティーヌは、娘王女であっても父王に自己紹介しなければならない。ただし王族なので跪礼はしない。おつきの三人侍女たちは、後ろに控える。
並んでいる大臣や高官たちは、自分を子供のころから知っている。儀礼とはいえ、父親に自己紹介をするのが愚かしい。こんなふうに考えるようになったのは、レオンの影響だ。
「ジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクス第三王女でございます」
二人の教授は、跪いて挨拶する。お爺さんの貴族だが、生涯ひたすら学問畑を歩んできた。こんな所に入るのは初めてだ。
「ロベール・ド・エルミール伯爵でございます。王国大学で土木工学教授を奉職しております」
「ヴィクトール・ド・レーベル子爵でございます。大学で医学と公衆衛生学教授を奉職しております」
国王をはじめ大臣高官連は、あのジュスティーヌ王女がなにを言い出すか興味津々だ。マリアンヌ侍女とキャトウ侍女が、両端を持って大判の紙を掲げた。なにやらクネクネと二本の線が描かれている。
レオンがたまげたことに、セレンティアには『グラフ』が無かった。紙の値段が、おそろしく高価かったからだろう。貴族の学者だったら工夫して使っていたかもしれないが、一般には全く知られていない。ジュスティーヌは、小学校の先生のようにグラフの説明から始めることになった。生徒の国王・大臣・高官は、やはり頭が良い。すぐに理解してくれた。
「こちらの青い線が、秋の洪水で冠水した面積を年ごとに繋げたものです。赤い線は洪水から半年以内に伝染病で亡くなった人の数です」
あまりの分かりやすさに、目からウロコが落ちそうだ。国王が身を乗り出した。
「うーむ。きれいに相似形を描いておるな」
ジュスティーヌは、大きくうなずいた。
「はい。洪水の無かったおととしは、疫病の死者は十二人です。ところが大規模な洪水にみまわれた去年は、二百人以上も亡くなっています」
しかし、スラムの住民など人間とも思っていない連中も多い。そんな貴族を説得するには⋯⋯。
「グラフの二十四年前の部分をご覧ください。この年は平民街まで冠水する大洪水となり、一万二千人以上が疫病で死亡しています。五十年前にも同様の大洪水があり、その時も二万人以上が疫病で亡くなりました。資料によると、およそ二十五年周期で王都は大洪水にみまわれ、そのたびに万余の死者を出しています」
大臣どもは、「へー、そうなんだ~」という調子で他人事のように聞いている。だがあとは、伝染病は人を選ばないということを納得させればよい。
「レーベル教授。お願いします」
美しすぎる王女の講義にポーッとなっていたレーベル教授は、我に返った。
「え? あっ、失礼しました。えー、二十四年前の洪水後に広がった伝染性の疾患では、記録に残っているだけで貴族の感染者は約九百人。後遺症が残る例も多く、年配者と小児を中心に四百八十人が亡くなっております。この病、えー、洪水病と名づけましたが、発病するとおよそ二人に一人が死亡いたします。現在も治療薬は、ございません」
だれか大臣がつぶやいた。
「二十五年周期ならば、今年か来年ではないか⋯⋯」
「もうそろそろ夏だぞ」
大臣どもには年寄りが多い。自分が死ぬかもしれないとなったら、話しが違ってくる。少しは危機感を抱いたようだ。ジュスティーヌが、たたみかけた。
「治療法のない洪水病から逃れる方法は、ひとつだけです。エルミール教授、お願いします」
この土木工学の先生も、レオンの紹介だ。レオンは、おそろしく顔が広い。干されても腐らずに、親衛隊宿舎を拠点にして軍士官学校、軍大学校、軍司令部、王国大学、学会、商工会議所、カムロ孤児院、子供剣道場、民衆のお祭り、地元ボスの屋敷にまでこまめに顔を出す。レオンの行動力に、ジュスティーヌはすっかり感心している。
「えー、要するにですな、パシテ川が洪水を起こさなければよいのです。あそこは病原菌の巣であります。ジュスティーヌ殿下が集めて下さった洪水の資料を拝見しますと、毎年ほぼ同じ場所から出水しております⋯」
国王が口を入れる。
「その場所をふさぐわけか」
「おそれながら、それでは別の弱い所が決壊いたします。氾濫を防ぐためには、一時に大量の水が流れぬよう上流域に遊水池を掘り、川幅を広げ、堤防をつくる。二十四年前の洪水時の水量でしたら、これだけで氾濫を防ぐことができます。他に方法はございません」
大規模な土木工事で治水するというのだ。国王と大臣たちの顔が曇った。フランセワ王国では、歳入と歳出がほぼ均衡している。借金の無い健全財政だ。もちろん予備費はあるが、今年の分は、早々に使い切ってしまった。健全財政論者である国王は、貨幣の質を落としたり借り入れをするなどとんでもないという考えだ。増税をする気もない。フランセワ王国の発展段階では、そう無茶な政策でもない。過大な支出と増税を繰り返した結果、滅んだ国はいくらでもある。
国王に「カネは出せぬ」と言われたらそれまでだ。さあ、ここからがジュスティーヌの正念場である。
「治水事業には、洪水と疫病対策以外にも素晴らしい効果が見込めます。流れを良くするために、川底をさらい汚物を除きます。川を清潔に保てれば、皆が悩まされている夏のパシテ川の悪臭が、緩和されます」
洪水のたびに伝染病の発生源になるような川だ。生ゴミから糞便、果ては腐った死体まで浮かんでいて、不潔を超越した毒物だらけだ。特に夏場は、風向きによっては王宮にまで耐え難い悪臭が漂ってくる。
もうひと押しだ。
「陛下。たしかに国庫は健全に保たねばなりません。ですが、王都の貴族が四百人以上も犠牲になりかねない洪水病を防がなければ、国家の存続に関わります」
「民衆の生活が~」とか「スラム住民の命が~」などと発言したら、王女とはいえ民衆派とみなされて治水事業は潰される。だから「貴族が~」「国家の~」とかいう言葉がポンポン出てくる。ジュスティーヌは、美しい偽善者だった。
借金も増税も駄目なら支出を削るしかない。
「パシテ川の悪臭が無くなるのですから、夏の悪臭から逃れるため予定していた離宮の建設を延期したらいかがでしょうか? 我がフランセワの土台たる貴族の健康には、なにものも代えることはできません」
実際は、だれ一人として「パシテ川の悪臭が無くなる」などと保証していない。ジュスティーヌは、しれっと嘘をついた。だが、父王は、ちょっと得意な気分だ。ついこの間まで子供だった可愛いジュスティーヌ。今もまだ二十一歳の小娘だが、治水の財源まで見つけてきた。大臣たちも感心している。
ジュスティーヌの腹の中の本心は、貴族の健康などではなく民衆の生存のための治水である。大勢の民の命がかかっている。だからこそ、涼しい顔をして大嫌いな嘘もつけた。ジュスティーヌの本音に気づいた者も、いくらかはいただろう。だが、この事業で大勢の貴族が洪水病から救われるのは間違いない。王族の贅沢にすぎない離宮の建設などとは、重要性は比べものにならない。ジュスティーヌが、離宮建設を「中止」ではなく「延期」としたところも賢い。しかも離宮建設の延期などは、王族でなければ言い出せないことだ。
国王が下問する。
「建設大臣。離宮建設の予算は?」
六十歳を超える建設大臣は、中堅官僚だった二十年程前に、赤子のジュスティーヌを抱いたことがある。良識保守なので、暴れ者のレオンには大いに批判的だった。だが、貴族に対し常に礼儀正しく心優しいジュスティーヌには、父性的な感情を抱いている。それにいい年をして美人が好きだった。くだけた場でジュスティーヌに甘えた声で、「おじさま♡」などと呼ばれると、フニャフニャになってしまう。だから余程のことでないかぎり、ジュスティーヌの味方だ。
「建設費と内装など、総額で百二十億ニーゼを予定しておりました」
「予定しておりました」などと、すでに過去形だ。
「エルミール教授。直答を許す。百二十億ニーゼで、パシテ川の治水事業は可能であるか? ⋯それにだ、まことに『悪臭は無くなる』のか? どうだ?」
父王は、ジュスティーヌを見てニヤニヤ笑った。ジュスティーヌは、すました表情だ。でも、ちょっと脇に冷汗をかいている。
有力貴族には、年寄りが多い。そろそろ流行すると予想される洪水病で、年寄りは死ぬかもしれないと学者に警告された。二十四年前。まだ若いころに、洪水病で悲惨な死に方をした貴族を何人も知っている。洪水病対策が優先だ。
国王は、離宮建設を延期して浮かせた予算で洪水病対策の治水事業を行い、貴族どもに恩を売ることにした。王様だって洪水病に感染するかもしれないのだから、当然の判断だ。
ジュスティーヌは、「この人たちにも、すぐに戦争の足音が聞こえてきます。そうなれば、離宮どころではなくなるでしょう」。そう考えている。
ジュスティーヌが、親父さんからカネを引っぱってきてくれたおかげで、スラムのドブ川がなんとかなりそうだ。うまくやってくれた。
妻が提案者ということもあって、レオンがパシテ川治水事業の総指揮者に納まった。こんな汚い仕事を他の貴族は、だれもやりたがらない。百二十億ニーゼも動く巨大公共事業なのに、バカだねえ。うまいこと工事を成功させれば、政権中枢へ復権する目が出てくるかもしれない。
結婚披露宴会場を造ってくれたスレット建設を請負業社に指名した。現場作業には、スラムの住人を優先的に雇用させる。住民は、治水事業で働いてカネを貯めさせたい。左翼らしくない言葉だが、カネさえあれば大抵のことはなんとかなる。スラムからの離脱を助ける福祉事務所も設置した。スラムの住民というだけで、まともな仕事にありつけないのだ。
川幅を広げるため、千軒を超えるスラム小屋が移転することになった。単なるボス交ではなく、何度も足を運んで公開の席で移転住民の代表と話し合い、一緒に何カ所か候補地を見てまわって移転先を選定した。顔役のムーラスも、住民の意見をまとめるのに役立ってくれた。
毎年のように水害に見舞われ、今年は数カ月後には洪水で沈むかもしれない土地だ。皆さん喜んで無料の新居に移転してくれた。
どうせ不法占拠なのだから、警備隊か軍をつかって追い散らせというヤツがいた。民衆派が民衆を弾圧してどうする? そんな日本政府のような馬鹿なマネはしない。数千人もの住民の頭越しに空港建設を決めたため、分かっているだけで十二人もの死者と万を超える負傷者を出す大闘争となった成田空港を反面教師にした。日本国なんかより、よほど民主的に話し合いを進めたつもりだ。万一スラムで暴動でも起きたら、治水事業どころではなくなる。
一カ月ほどで住民の移転が完了した。ようやく工事を開始する。セレンティアでも地鎮祭らしきものがある。レオンとジュスティーヌに三人侍女が最前で跪き、続いてスラムの代表になったムーラス、工事を請け負ったスレット社長が続く。
飾り立てられた馬車で運び込まれた女神セレン像が設置され、神官がなにやら祝詞みたいな呪文を唱えた。⋯⋯オレが女神だった時には、こんな儀式はなかったぞ? こんな宗教でも二十五年も経つと、いろいろ儀典が整備されるもんだ。しかし、なぜに前前世の自分の像に跪かなけりゃならんのか?
こんな儀式になんの御利益もないことは、元女神が保証する。こんなものにすがらねば生きるのが苦しい民衆には、マジナイ的な安心感を与えられるんだろう。
運んでこられた女神像が、またひどく陰気臭くて出来が悪かった。「ひでえブスだな」とつぶやいたら、隣で祈りを捧げているジュスティーヌに思いっきり脇腹をつねられた。ジュスティーヌは、王女のくせに敬虔な女神正教徒だ。「宗教なんかは民衆の阿片で迷信だ。階級支配の道具で麻薬なんだ」といくら教えても、絶対に譲らない。
ジュスティーヌがあんまり意地を張るものだから、実際に殺された当人であるレオンは、ムカムカと腹を立てた。
「女神なんかいねえよ。人間が殺した。自分から棄てて困った時だけ拝むとか、ずいぶんご都合がいいな。神は死んだ!」
至極もっともなことを言ってやった。普段はしっかりしたジュスティーヌだがなのに泣いてしまい、いつもどこかふざけているキャトウまで神罰が下ると真っ青になった。しかも、ジュスティーヌが泣いたせいで、アリーヌが怒る怒る怒る怒る怒る怒る!⋯マルクス主義者は、唯物論者で無神論者なんだから仕方ないだろっ。
ようやく妙な祝詞が終わってくれた。つぎはオレの演説だ。
「まず、住居の移転に同意してくれた住民の皆に礼を言いたい⋯。我々は、洪水と疫病に悩まされてきた。毎年、多くの者が家財を失い、病に倒れた。だが、それも今日までだ。我々は、手にスコップを握りしめ、立ち上がった。汗を流して働き、自らの手で洪水と疫病を根絶する。スラムの住民と蔑まれてきた我々が、王都の人びとの生命と財産を守るのだ。もし我々を蔑む者がいるならば、こう言ってやろう。手に血マメをつくり、日に焼かれ、全身に汗を流している我らの働きが、おまえたちの生活を守っているのだ。我々は、その努力にふさわしい当然の権利を要求する。この工事は、自然の力と人間の労働との戦いである。我々は、この戦いに打ち勝ってみせる。フランセワ王国国王から委任されたこのレオン・ド・マルクスが、必ずおまえたちに勝利をもたらすことを約束する。スコップを振るいツルハシを振り下ろすことで、我らは天に至る道を切り開く。共に汗を流す兄弟姉妹たちよ。戦う仲間たちよ。労働は尊い。自らを誇れ。団結せよ。労働者人民万歳! 我々は、必ずやり遂げてみせる!」
労働を卑しいものとして蔑んできたフランセワ王国で、初めて労働と労働者を賛美したレオンの演説は、地鎮祭の神官によって書きとめられ、歴史に残った。
過激派だった前前前世の癖が抜けず、アジ演説をぶってしまった。スラム住民労働者たちは、最初はポカンとしていたが、どうやら空気が入ったようだ。スコップを振り回したりしとる。
仕事は、明日からだ。今日は前祝いにフランセワ=マルクス伯爵家が、皆に酒と食い物をふるまう日だ。樽酒を持ち込み蓋を叩き割った。食い物は、安くて量があって高カロリーなものを選んだ結果、モツ鍋になった。いい仕事をしてもらうために、このモツ鍋は毎日出すことにした。昼の給食つきの現場だ。
同じ釜の飯を食った仲だと示すために、一番にオレがモツ煮をよそって食ってみせる。調味料といっても塩ぐらいしかないが、よく分からない内臓のダシがきいててけっこう美味い。「全部食ったよ~」とお椀をひっくり返して見せると、拍手喝采だ。スラム住民と同じものをお貴族さまが食ったことが、嬉しいのだ。
でも、これをジュスティーヌが食うのは⋯⋯無理だろうな~。
「さあ! おまえたちの番だ。思いきり食って飲んで楽しめ!」
労働者の皆さんは大鍋に群がり、王女サマのことなんか忘れてくれた。
あとで見えないところでジュスティーヌにモツ煮を渡してみた。匂いをかいだだけで「うぅっ!」とえずいてしまい、口にも入れられない。アリーヌは、「ケモノの内臓など! 汚らわしいっ!」と、匂いをかぐことすら拒否。伯爵家の令嬢らしくお高い。平民出身のマリアンヌは、苦労してきたクセに「わざわざ食べたいものではありませんわ」などと言って、やんわりと拒否した。出世したタヌキ侍女は、お高くなっちまったようだ。キャトウは、「あはははっ。なっつかしー! おいしー! もっと下さいー」と、バクバク食っていた。ネコみたいな顔と性格だから、肉が好きなのかな?
比喩ではなく、ヘタしたら死ぬほど不潔な川の工事だ。現場で伝染病が発生したら、冗談にならない。労働終了後に小樽一杯分のお湯と布を支給し、体を拭いて清潔を保ってもらった。いずれ余った建設資材を活用し、どうにかして公衆浴場を建てるつもりだ。工事が終わってもスラム住民が利用できるようにそれなりのハコを建てたい。十万人に風呂場がひとつでは、焼け石に水だろう。だが、人気取りにはなる。
「スラム住民を気にかけて下さるただ一人の王族、マルクス伯爵さま。伯爵さまが、悪い貴族をやっつけてもっと偉くなられたら、二週間に一度くらい風呂に入れるようになる。毎日モツ煮が食えるようになる。今より良い暮らしができるようになる⋯」。決して空手形ではないぞ。自己満足の慈善でもない。スラム住民を組織化することで、十分可能になる。
貴族がスラム住民を搾取しているというのは、間違いだ。スラム民には、ほとんど生産手段がない。だから搾取できるほどの資産さえ持たない。彼らの多くは、飢餓線上の極貧にいる。
レオンら民衆派は、そんなスラムの住民に人間的な生活を保障する。そして、すり潰されるように死んでいった人々を、新たに社会活動や経済活動に組み込む。それによって、眠っていたスラムの生産力が目を覚まして動き始める。スラムがあるのは、なにも王都だけではない。フランセワ王国を覆い、社会を荒廃させてきたスラムの状態の改善は、国力の底上げに直結する。
民衆派が敗北したら、スラムは希望のない元の地獄に逆戻りするだろう。それまで動物あつかいだったスラム民は、手に入れた人間的な生活を命がけで守る。スラムは、民衆派の不抜の拠点になるだろう。百五十万人の王都民のうち、スラム住民は十万人ほどだ。彼らは民衆派の岩盤支持層となり、レオンの手足として動くようになる。
スラム民の十万に平民の一部が合流すれば、三十万人にはなる。彼らを煽動して貴族街でデモらせたり暴動を起こすことさえできる。取り締まる側の王都警備隊は、愚連隊狩りで手懐けて民衆派寄りだ。軍部にも着々と民衆派が浸透している。
そうなったら領主貴族の次は、官僚貴族の番だ。いつまでもおまえらの思い通りになると思ったら、大間違いだ。封建制と串刺しにして貴族を滅ぼしてやる。単に殺すのではない。貴族という階級を地上から根絶するのだ。今のうちだ。せいぜい宮廷政治を踊っていろ。
過激派だった前前前世では、よく工事現場で働いたものだ。過激派だって飯を食うし、闘争資金は絶対に必要だ。どこかの駅前でスピーカーを片手に情宣することもあった。アレは、まあ宣伝活動でカンパはそんなに入らない。働いた方が実入りは多い。手分けして団結小屋から外に働きに出た。
なかには大学を辞めてタクシーの運転手になった人もいる。得体の知れない過激派学生を雇ってくれるようなところは、工事現場ぐらいだ。留置所で知り合った下っ端ヤクザの手配師と話しをつけ、日雇い仕事を紹介させた。人数がいると、手配師の運転するワゴン車が団結小屋まで送迎してくれる。こんな資金かせぎのバイトを『赤労』なんて呼んでいた。
ドヤ街から手配師ワゴン車がやってきて、現場に労働者を降ろしてゆく。九時から土工仕事だ。日雇いの人たちは、意外なくらい真面目に働く。たまに役人や建設会社の社員が現場を見にきたが、日雇い労働者を露骨に見下すようなことはなかった。墨を入れてるような労働者もかなりいたから、ぶっ飛ばされるのが怖かったのだろう。暴力の威力だ⋯⋯。
夏の飯場では、塩の錠剤が置いてあったり冷えた麦茶がヤカンに入ってたりと、世間の持つイメージよりもずっと待遇が良かった。だが、アオカンしながら日雇い労働についている労働者は多かった。
暖かい季節のアオカンはまだよいのだが、真冬のドヤ街でたき火を囲んでいると、オマワリが水をかけ火を消して追い払ったりする。暖をとれずに凍死した労働者もいた。日雇い労働者は、ヤクザの路上バクチを目こぼしするくせに威張り返ってアオカン者を虐待する警察が大嫌いだった。だから死人がでるまで機動隊と衝突し空港反対闘争をしている学生たちに同情的だった。「おう、ゼンガクレン。こっちこいや!」。こんな調子だ。
レオン=新東嶺風は、昼飯休みの時によく日雇い労働者と話しをした。彼らは、手配師にかせぎの一割を抜かれる『ピンハネ』に怒っていた。怒りが爆発した労働者は、時には暴動を起こしてドヤ街を監視しているマンモス交番に投石し、暴力手配師や私服刑事を捕まえて袋叩きにして土下座させた。労働者が立ち上がり実力で戦ったから、ピンハネが一割でおさまっていた。
なんでも二十一世紀の日本では、『派遣業』と名を変えたピンハネ業が合法になり権力者が社長に納まり、五割や六割の中抜きは当たり前だそうな。ヤクザの手配師だってハネるのは一割だった。戦わない者は、労働を盗まれ富者を肥やすカモにされ、人生を棒に振る。
新東嶺風は、この世界では死んでいる。もう関係ないことだが、そう思わずにはいられない。
翌日から工事が始まった。
既に何日も前からパシテ川の上流で軍の工兵隊が遊水池を造っている。軍を使えば、資材代だけで人件費は無料だ。よい訓練にもなる。国王は、レオンの献策に一も二もなく飛びついてくれた。
全国に散らばっている十個軍団が持っている工兵隊を集結させ、さらに独立工兵部隊も加えた。さすが軍隊だけあって仕事が速かった。いい機会だとばかりにレオンが各部隊を巡って様々な便宜を図り、兵士と交歓し、中堅将校と顔をつないだ。高位貴族の将官どもは、いずれ軍権を握ったら総入れ替えするつもりだ。
遊水池が出来たら、川をせき止めて水を逃がす。数日後、歴史上初めて王都のパシテ川が干上がった。これは王都民の間で大変な話題になった。
何カ所も造った遊水池が満水になり、再びパシテ川に水が戻るまでが工期だ。まず、溜まった毒ヘドロを除去し、増水しても簡単に溢れないように川底を掘り下げる。建設する堤防は、川に面した部分が石積みで、後ろから土嚢で支える。
小脇にスコップを抱えたレオンが、短い演説をした。
「これより工事をはじめる。怪我をした者、体調の悪い者は、必ず申し出ること。我々はたった今、王都から『洪水』という言葉をなくす。かかれ!」
レオンは、川底に降りるとスコップで毒ヘドロを掘り始めた。貴族⋯いや、王族が下民と一緒になって危険な肉体労働をするなど⋯。驚いた者、感激した者、怒った者もいた。
これはキューバ革命の英雄、カストロとゲバラの真似だ。カリブ海の島国・キューバは、アメリカの傀儡独裁政権を倒し革命を成し遂げた。しかし、経済利権を握っていたアメリカは、経済封鎖を発動。小国のキューバを締め上げにかかった。
物資の欠乏にあえぐキューバに、アメリカが送り込んだ反革命軍が上陸。革命軍が迎え撃ち、戦闘の末に全滅させる。戦闘には勝ったが、キューバの食糧は尽きつつあった。キューバ革命政府は、全世界の良識派に解放運動の危機を訴え、救援を求めた⋯。
民衆を鼓舞するために、ゲリラから革命政府首相となったカストロと運輸大臣のゲバラは、農場に出て特産のサトウキビの刈り入れ作業を行った。もちろん政治宣伝だ。キューバ革命を救おうと、世界中の良識的な若者たちが数千人もキューバに集まり、サトウキビの刈り入れを手伝い、キューバの民衆と交歓した。
この若者たちが、キューバの経済に貢献できたとは思えない。しかし、将来の左派や民主派の指導層となる若者が数千人も集まり、強い感銘を受けて故国に帰ったことは、キューバ革命にとって計り知れない利益をもたらしただろう。
一日だけの宣伝とはいえレオンが川底で作業することに、ジュスティーヌは強硬に反対した。ドブ川は死病である洪水病の巣である。涙を浮かべ腕を掴むようにして止めるジュスティーヌに、レオンは冷ややかな目をして言った。
「スラムの民衆よりオレの命がそんなに重い理由を、分かるように説明してくれ」
この冷ややかな目になった時のレオンを止めることは、誰にもできない。ジュスティーヌと三人侍女は、それを知っていた。
レオンだってコレラなんかで死ぬつもりなどない。油紙製のカッパやタールを染み込ませた防水皮靴などの防護服を大量に用意した。この防護服を着ると、なんとなく土偶に似る。夏場は暑くてかなわないが、皆の命を守るためだ。
工事のために川をせき止めて干上がらせるというだけでも驚きなのに、王族が先頭に立って半日もドブさらいをはじめた。それを川岸に鈴なりになった民衆が見ている。顔を隠すと宣伝効果が落ちる。レオンは、マスクをせず顔をさらした。
レオンが倒れたり死んだりしたら、工事は止まってしまう。ここで治水事業が止まったら何度でも洪水が起こり、大勢の人たちがコレラで死ぬ。これが一般民衆よりレオンの命が重いとされる理由だ。レオンがコレラヘドロをいじるなど、本当は愚の骨頂だ。
だがレオンにとって、コレラをなくすことは二つ目の目的だ。本来の目的は、国のカネで大衆の人気を取って自分の権力基盤を強化することなのだ。レオンとって、治水工事などうまくいって当たり前だ。工事を口実にして、スラム住民の生活水準の向上と、それを梃子にした住民の組織化を目指していた。
清潔な講堂でインテリエリートに講義するだけでは、お話しにならない。たとえ一日だけでも悪臭を放つ泥の中に入りドブさらいをやってみせることで、大衆の信頼を勝ち得ることができる。
「洪水病が発生したら工事どころではない」という理屈で、工夫して浮かせたカネを流用し格安銭湯を何軒も建てた。「栄養価の高い食べ物を与えると作業が進む」といって昼食を出し、現場にいる時には牛や豚の内臓とクズ野菜の汁をスラム住民と一緒に食った。もちろん人気とりのためだ。
王都の平民の人気者だったレオンは、もう愛され尊敬されるようになった。レオンは、民衆派の勢力を伸ばすためだったら、毒ヘドロの中にも入る。必要ならば、人だって殺す。
レオンは、カムロに命じて洪水病の噂を大げさに広めさせた。さらにコレラの予防法と治療法を印刷し、無料で大量にばら撒いた。二十四年前に王都が洪水病の地獄となり、数万人が死んだ。このことは三十歳以上の者なら覚えている。今年は洪水病が流行しそうだというので、王都に恐怖が蔓延した。
そこでマルクス伯爵の登場だ。王様を説き伏せて洪水病が発生する毒川をきれいにしようとしてくれている。しかし、王族が先頭に立ってヘドロの中に入り、作業をするなんて思いもよらなかった⋯。ありがたい⋯⋯。
過激派だった前前前世で新東嶺風は、赤労で『ぼっとん便所』から汚物を回収する汲み取り作業もやっていた。仲間とバキュームカーでウンチを吸い出して回る。しつこくクソバエがまとわりついてきたり、いつの間にかウンチが作業着に付いたり、鼻が曲がるほど臭かったりしたが、慣れれば土方仕事よりもいい軍資金稼ぎになった。
仕事が上がるとバキュームカーを事務所に戻す。風呂があって使わせてもらえた。機動隊にからまれながら団結小屋に帰ると、泥まみれの仲間の中で風呂上がりの自分が一番きれいだった。
汲み取り業は、実力闘争の役にも立ちそうだった。いざ戦闘になったら満タンのバキュームカーを持ち出して、さんざん小突き回しやがった機動隊の前に立ちふさがる。タンクのテッペンに上ってノズルを開き、クソと小便の混合液を逆噴射して百人くらいの敵をまとめてクソまみれにして戦闘力を奪う『フン激決起』なんかを考えていた。ガソリンではなくウンチを撒いて機動隊を追い散らしていれば、新東嶺風は死なずにすんだだろう。
汚物処理の経験があってちゃんと防護していたので、レオンはコレラなんぞに感染しなかった。
王宮の居候部屋に戻ると、三人侍女が洪水病ノイローゼに感染しており、マスクやら頭巾やら手袋やらで完全武装して待ちかまえていた。風呂場に追いたてられ、熱湯をぶっかけられ、頭まで湯船に沈められ、得体の知れない薬を浸したモップで執拗に擦り立てられ、着ていた服はまるで毒のようにゴミばさみでつまんで焼却炉に持っていかれた。
父王命令でジュスティーヌは、王族の間に連れていかれてしまった。侍女たちも、当たり前のようにジュスティーヌについていった。
一週間も夜の生活がなくなり、まだ子ができないジュスティーヌが寂しがった。それに子づくりは貴族、ましてや王族の義務だ。だがジュスティーヌにその知識がまるでないのをよいことに、レオンは黙って避妊していた。子供ができても、必ず殺されるとみているからだ。貴族からすれば、これからレオンは女を利用した極悪の簒奪者となる。簒奪者の子を見逃すほど甘くはあるまい。
レオンの仕事は、王宮の居候部屋に帰宅してからが本番だった。前前前世で、赤労の工事現場から大学生だというので引き抜かれ、事務仕事をやらされたのが役に立った。まず、過去の天候の記録を調べた。そこから高校の数学レベルの確率と統計を使って可能な施工期間を定めた。現場組織表をつくって組織構成を明確にし、計画工程表をつくって施工計画を立てた。面倒くさいが、レオンにしかできない仕事だ。
それまでは、工事といってもいい加減な勘だよりで、計算に基づいた計画は、ほとんどなかった。レオンによる確率と統計を利用した作業工程表の作成は、エルミール教授とレーベル教授、それにスレット社長を激しく感動させた。
この知識は、軍事に転用できる。効率的な輸送や補給計画。各戦闘での部隊の損耗率まで計算に入れた作戦計画。必要な予備軍の数。敵の作戦行動まで、ある程度予測できてしまう。つまり効率的に戦争ができるようになる。
再びクラウゼヴィッツになるが、戦争能力は戦闘員や戦闘器材などの『資材の量』と『意志の強さ』の積であるとしている。レオンはそれに『組織能力』を加えるべきだろうと考えた。ドイツ軍が、資材の量は少ないのに強かったのは、組織能力が優れていたためだ。
戦争能力 WP(War potential)
資材量 AM(Amount of material)
意志力 WI(Willpower)
組織力 OC(Organizational capacity)
WP = AM × WI × OC
Own country WP > Enemy WP → Victory
レオンは、こんなヘンテコな必勝公式までつくって喜んでいる。戦争とは不確実で刻々と流動する営為なので、こんな方程式で勝てれば苦労しない。
とにかく確率と統計の軍事転用は、他国に知られると危険だ。軍事機密に期間指定して、七年間は発表しないよう三人に約束させた。機密漏洩するとスパイ罪となり、最高は死刑となる。とはいえ、どの国の軍中枢にもスパイが浸透しており、いずれ技術は流出する。機密が保てるのは、せいぜい七年だろう。
離宮ひとつ分の予算しか与えられずに、しかもたった数カ月で王都を貫通する川の治水工事が完成するとは、国王は最初から期待していなかった。いくらレオンが頑張っても雨の季節に間に合わず、完成は来年だろう。追加予算をどこからひねり出そうかと考えていたが、予定通りに治水工事が完成するという報告を受けて驚いた。今の日本でも同じだが、公共事業はどんどん予算が膨んでいき工期が延びるものだ。
治水工事で一番カネがかかるのが、堤防の材料費だ。石材の切り出しと運搬に大変な手間がかかる。この費用が大きく節減できたのが大きかった。
川向きの三分の一だけに石材を使用した。堤防の外側は、タールに浸したりた麻袋に砂利を詰めた土嚢を重ね、さらに後ろから丸太を組んで支えた。
麻袋作りでは、経済弱者である女に男と変わらない個数賃金を支払い、神様あつかいされるほど喜ばれた。
レオンと違って姿をさらして人気を取ろうと考えない国王は、レオンに案内させお忍びで視察に出ることにした。そこで工事の手際の良さ以上に、レオンの独特の考え方に感心されられた。
過去五十年の統計から予想される降雨日数と工事可能な期限を算出し、そこから作業可能日数を割り出した。それらのデータを基礎にして工程ごとに必要な作業日数を割り振る。工区ごとに気心の知れた者同士の集団を振り分け、資材を配置して工事を進める。現場監督に指揮を任せるが、監査係が進捗状況を毎日確認して報告する。なにか問題が起これば、最高責任者のレオンが乗り出す。監督だけでなく実際に作業している者も交えて合議させ、できるだけ現場の者に解決させる。人員と資材が最適になるように数日ごとに検討し、必要なら再配置する。
さすがに国王は賢かった。レオンが軍関係に行きたがっていることも知っている。
「このやり方は、戦争にも転用できるのではないか?」
レオンは、我が意を得たりという感じだ。
「はっ。すでに軍事機密に指定しました。圧倒的な物量を背景にした戦争能力で敵を圧倒し、確率と統計、さらに偵察による情報を活用した柔軟な部隊運用が、これからの戦争の勝敗のカギを握ると思われます。また、中隊指揮官に幅広く指揮命令権を持たせることで、戦場における柔軟な作戦行動が⋯」
主戦派のレオンが売り込みを始めた。治水工事と同様に戦争でもレオンは、天才的な手腕を発揮しそうだ。
「まてまて、ここに軍関係の話をしにきたのではないぞ」
王族の入り婿で、後ろ盾は、妻王女と義父の国王だけだ。王宮内での政治的野心やセンスは、まるでない。だが、天才的な指揮者で組織者だ。大衆の人気も極めて高い。戦争の危機が高まっている時期に、これほど使い勝手のよい臣下はいない。
これ程の才気を見せられた国王は、いずれレオンに戦争の指揮をとらせるつもりになった。とりあえず佐官から将官に階級を上げなければなるまい。親衛隊中隊長と軍司令部の参謀でも兼務させるか⋯。いずれ内戦が開始されたら、レオンがフランセワ王国軍の指揮をとることになりそうだ。
刻々と戦争の足音が迫っている。二人とも最後まで気付かなかったが、このレオンとの会話が国王アンリ二世の命取りとなった。その意味で、レオンが国王を殺したと言えるかもしれない。
「いくら川をさらって清掃しても際限なく大小便が流れ込んでくるようでは、いずれまた伝染病の発生源になります」
それは当然そうだろうと国王も考えた。
「下水道を造って汚水を浄化し、浄化した水を川下に流せば衛生問題は解決します。スラム住民や貧困層に職を与えることもできます」
国王は眉をひそめた。言うのは簡単なのだ。
「大規模な工事になるな。莫大なカネがかかるぞ。財源がない。増税はできぬ」
レオンが、こともなげに言った。
「国民を所有物として酷使し、国庫に入るべき税を横領し、莫大な財を蓄え、多数の騎馬兵を養っている⋯。そのような者からの徴税を検討されたらいかがでしょう」
国王には、レオンが理にかなったことを進言していると分かっている。領主貴族をこのまま放置するならば、フランセワ王国の発展はない。
「領主貴族からの徴税の強化か⋯。検討せねばなるまいな。来年の予算編成時に議論するか⋯」
国王といえども大きな税制改革には、それなりの根回しが必要だ。根回しの内容は、領主貴族に筒抜けになるだろう。独立公国の公主気取りで「領主領は領主貴族が女神に与えられた土地。国に税など納めさせられるなど女神の意思に反する」という領主貴族の領主権神授意識を、国王は甘く見ていた。この油断が命とりになった。
戦争が始まるまで、あとわずかだ。
「人間の意識がその存在を規定するのではなく、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである」(マルクス『経済学批判序説』)
「経済要因が意識を決定する」(マルクス)
銭湯と給食に支出しても、まだカネは残った。レオンは、国王に「資金をお返しします」などとは言わない。
「スラムの環境改善のために、つかわせていただきます」
いつもの厚かましさを発揮して、当たり前のように言った。これでもスラムの状態は、工事前に比べればずいぶんマシになったのだ。スラムのひどい有り様を実見して驚いた国王は、支出を承認した。レオンの実務能力にも、舌を巻いていた。
帰城後に国王は、王宮保安部に命じてレオンが治水工事にかけたカネの流れをたどらせた。数日後、レオンが帳簿と証拠書類を提出してきた。保安部の会計検査報告とつきあわせた結果、不正は一切なかった。
治水工事を成功させたレオンは、ドブ板の修理からヤクザの喧嘩の仲裁、大学講師業、王立学術アカデミー会員までこなしていた。でも、暴れ者のなんでも屋というだけでは駄目だ。まぁ、そろそろ外国向けの『名声』も必要だろうと考えた。得意分野の印刷を活用しよう。
菩薩の弥勒に頼んで『家庭の医学』のデータを受け取った。貧乏学生のバイト君たちに口述筆記させて、セレンティア初の大衆向け医学書を出版した。
セレンティアの主神・女神セレンは、人々の病を癒す医療神だ。今も人々の尊敬を集める聖女マリアも、貧者への医療奉仕に力を尽くした。なので医療関係で貢献することが、セレンティアの人々の心に一番触れる。洪水病対策といい、今回の『家庭の医学』の出版といい、レオンには民衆のそういった気分が、よく分かっていた。
平民を権力基盤にするつもりのレオンは、まず無料の診療所と孤児院を建てた。だがそれでは、王都パシテか、せいぜいフランセワ王国でしか売名できない。そこで、現代日本の医学書をパクって印刷し、全世界に配ることにした。
「私は、一度死んでいる。この本の知識は、その時に女神とお会いして授けられたものだ。自由に写し、万民の救済に活用していただきたい」なーんて大ウソを序文にして神秘性を演出し、博愛精神をアピールしてみせた。
せっかくなので、王族権威で箔をつけることにした。『レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス伯爵』と、妻の『ジュスティーヌ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネ・ド・フランセワ=マルクス王女』との共著にした。二人だけで書いたのではちょっと弱いので、王女の友人である『アリーヌ・ルイーズ・ド・スタール伯爵令嬢』の協力を得たことにした。
たしかにジュスティーヌとアリーヌも、口述筆記に協力してくれたのだから、あながち嘘でもない。
この序文のせいでアリーヌの名は、賢く忠実で愛情深く気高い伯爵令嬢出身のスーパー侍女として歴史に残った。数百年後に、アリーヌを主人公にした小説が出版されたほどだ。
『家庭の医学』は、三千ページを超える大著なので、カムロの王立印刷所でも三百冊印刷するのが精一杯だった。糸と糊をつかって慣れない製本を総出で頑張り、どうにかこうにか完成させた。ジュスティーヌを通じて『家庭の医学』を国王に献上し、またまた王族権威で箔をつけた。
宗教権威・聖都ルーマのバロバ大神殿長にも、五十冊ほど送りつけた。世界各地の神殿に再配布して有効活用してくれるだろう。さらに外務大臣に談判して、各国の大使館に贈り物として配らせた。
しかし、神殿や大使館だけだと民間人の目につかない。それでは民衆派としてはつまらないので、信頼できる旅商人に結構な額の手数料を渡し、各国の一番大きな図書館に『家庭の医学』を寄贈するように依頼。全世界にバラまかせた。
やはり足元の王都が、とりわけ大切だ。レオンが建てた無料診療所などにも『家庭の医学』を置いた。これが非常に評判が良く、医師が行列を作って筆写し、活用してくれた。
女神セレンが飛び回って病気治しをしたために医学が発達せず、セレンティアではセレンが神託した公衆衛生学と乳幼児医療以外の医学は、中世の水準で止まっていた。『家庭の医学』は、セレンティア医学復活の足掛かりとなった。グーテンベルクの『聖書』や江戸時代の『解体新書』と同様に、セレンティアの歴史的書物となった。
政治の場から失脚したといってもレオンは、忙しく飛び回っている。治水事業の成功は、王都民のなかでレオンの存在を今まで以上に大きくした。
「あまりひどいことがあったら、マルクス伯爵にお願いすれば、なんとかして下さる」
レオンは、今は神サマではない。神サマじゃないから、あまり雑務に押し寄せてこられても限界がある⋯。それでもとにかく出来ることは精一杯こなした。屈強な護衛を三人ばかり引き連れて二本差しで街中を駆け回っているレオンの姿は、百五十万都市である王都パシテの名物となり、民衆の希望の星ともなった。
病人を助け、捨て子がいれば保護し、寡婦が困っていると食べ物を届け、雨がふると泥川になる道にドブを掘って板まで渡す。レオンは、まるで慈善の聖人だ。
もちろんレオンには、無償の善行を施すつもりなどは、さらさらない。売名行為であり、偽善ですらある。これから始める革命と戦争でレオンを信頼して従い、レオンの指揮で死んでゆく大衆を育てている⋯とも言える。偽善どころか、悪事とさえ言えるかもしれない。
常に正しくふるまおうとし、人々に尽くした聖女マリアは、さんざん迫害され無惨に斬り殺されてしまった。首をはねられ神殿で死体を見世物にされたのは、二十三年前だった。だが、レオン=新東嶺風の感覚では、ほんの三年前のことだ。
マリアが殺された理由は、権力者とそして大衆にとって、正しいことを言う存在が目障りだったからだ。しかも、マリアはか弱いが美しく、人々の妬みや嗜虐心をそそった。
生まれ変わったレオン=新東嶺風にとっては、大衆はコマだ。再びレオンは、権力者どもに都合の悪いことをする。だが、今世のレオン=新東嶺風は、あらゆる手段を弄して権力者に成り代わる。殺されるのは、今度は奴らの番だ。レオン=新東嶺風は、過激派の初心に帰った。
一部繰り返しになるが、レオンのフランセワ革命と世界革命の青写真はこうだ。
今のフランセワ王国は、封建制から絶対王政に移行しつつある段階だ。王権とは、台頭しつつあるブルジョワを含む各階級の利害を調整する超権力といえる。近代社会に向かって中央集権制を目指す王権と、封建体制の支柱である領主貴族が対立し抗争するのは当然だ。
王権に担保された国家権力の暴力を利用して上から圧力をかけ、組織した大衆の暴力によって下からも圧力を加える。上と下から領主貴族を圧し潰してやる。
「革命が爆発するには、『下層』が以前のような仕方で生活することを欲しないというだけでは十分ではない。『上層』がこれまでのようにやっていけなくなるということが、また必要なのだ」(レーニン)
封建制が倒れれば、絶対王政を乗り越えて一気にブルジョワ民主主義革命が進行するだろう。しかしブルジョワの革命性は不徹底だ。ブルジョワ革命が一定の成果を上げた段階で革命を制動し、終了しようとする。その時に永続革命を発動する。ブルジョワから革命のバトンをもぎ取った労働者・農民が権力を握り、ブルジョワ革命をプロレタリア社会主義革命に転化させ勝利する。
しかし、一国だけの社会主義などあり得ない。フランセワ革命の勝利とともに、全世界に革命を輸出し、世界革命戦争に突入する。封建制さえ残る反革命国を圧倒する革命戦争の勝利は、全セレンティアをひとつの社会主義国とするだろう。生産力は無限に増大し、人間は自由となり、やがて国家は死滅し、共産主義に到達する。
レオンは、こんなトロツキスト革命の青写真を描いている。当面は、ブルジョワや自由主義的な貴族と同盟して封建制の打倒から始めるしかない。そこで封建制の最大の拠り所である領主貴族の絶滅を追求する最左派として活動するのだ。
レオンは、上部構造に食い込むために、そろそろ王宮内で復権したかった。ところが民衆人気はすごいのだが、滅ぼしてやるつもりの領主貴族は当然としても、保守派の貴族からも大変な嫌われようだ。『レオン・マルクス』と聞いただけで、保守派貴族どもが反発する。
国王は、レオンを気に入っていることを隠さない。ジュスティーヌ王女とは、大変に夫婦仲が良い。若手王子たちも、領主貴族どもが大嫌いなのでレオンに同情的だ。しかし、王宮内での民衆派の勢力は、レオンとジュスティーヌを別格とすれば、ジルベールを筆頭とした少数の若手貴族と親衛隊所属の貴族しかいない。
レオンは、親衛隊中隊長として捜査権と逮捕権を持っている。叩けばホコリが出るような貴族は、逆らうことができない。令嬢の傷跡治しで、一部の貴族に恩を売った。治水工事で、仕事ができるところを見せた。そんなことで、なんとか完全失脚を免れている。そうでなければレオンは、地方都市の総督にでも飛ばされたかもしれない。逆にジュスティーヌが、強硬な反レオン派を何人か栄転に見せかけて外国や地方に飛ばした。
宮廷内の権力闘争の内実は、見る者が見れば分かる。「ひどい男を夫にしたものだ」とは思われているものの、心身共に美しいジュスティーヌは、王宮の貴族たちから好かれ、敬愛されていた。栄転のかたちで飛ばしたので、恨みを買ってはいない。しかし、いずれ報復されるかもしれない⋯⋯。
王位継承順位六位程度の王族で、しかも女のジュスティーヌが権力闘争に首を突っ込んでもロクなことにならない。子供の頃から『ジュスティ』を可愛がっていた文部大臣の老人が、さり気なく忠言してくれた。損得勘定を抜いたおじいさまの親切心は分かっている。なのでジュスティーヌは、白い薔薇のように笑って応えた。
「ありがとうございます。温かくも厳しいお言葉は、胸に刺さるものです。ですがわたくしは、レオン・マルクスの妻なのです。妻が夫をたすけることに、何の不思議がありましょうか」
言葉遣いはキレイだが、まるで聞く耳を持たない。『ジュスティ』は、こんなにも尽くすタイプだったのかと、文部大臣老はため息をついた。
王家と官僚貴族は、いずれ領主貴族と内戦になるだろうとは理解している。その時にレオンが大いに役に立つとも考えている。
戦争になれば若い貴族は、義務として出征させられる。親としても家としても国としても、大勢の貴族子弟が戦死したら困ってしまう。指揮官が無能では不必要な戦死者がでるだろう。長年平和だったフランセワ王国の高位貴族の中で、最も経験豊かで有能な戦闘指揮官は⋯⋯レオン・マルクス大佐しかいない。
しかし、間違いなく保守派は戦争の拡大を抑止し、中途半端に内戦を集結させようとする。戦闘で少し領主軍を痛い目にあわせたら、領主貴族とのボス交を始める。領主領から自治権をいくらか剥奪し、奴隷の待遇をちょっぴり良くする。そんな条件で妥協して戦争を終結させる⋯⋯。見え透いている。
とんでもないことだ! レオンは、西方領主領を二度と立ち上がれないよう焼け野原にし、領主貴族という階級を土台になっている奴隷制もろとも根こそぎ滅ぼすことを決意している。
戦時には、軍などの実力組織の地位が飛躍的に向上する。軍は、兵士が支えている。軍の士官層も家格が低かったり、嫡男でない傍流貴族が多い。部隊内でいつも平民と接しているので、民衆派には理解がある。今は軍部に浸透し、戦争の準備をすることだ。戦勝の勢いで、保守派から奪権できる。戦争が始まれば、全てが一変するはずだ。
レオンは、時間を稼ぐため保守派と取引した。保守派といっても代表者がいるわけではなく、一枚岩というわけでもない。レオンは、大嫌いな社交パーティーに現れ、大勢が聞き耳を立てている前で保守穏健派の大臣にへりくだり、「今までのやり過ぎを反省した。これからは貴族の名誉を尊重し、少しはおとなしくする」と明言した。妻の真似の猫かぶりだ。
『ジュスティ』のことを心配していた大臣や高官たちは、レオンが「改心」したことを喜んだ。領主領問題と奴隷制問題に、民衆派は口を出さない。すぐにでも奴隷解放戦争を始めるというレオンの主張は、引っ込める。
カムロの主要メンバーは、逆に暗い顔をした。戦争こそ、民衆派が前進するための手段であり悲願だ。王宮政治になれているジルベールが、「あんなもんは、空手形だよ。ハハハ!」とカムロをなぐさめてなだめた。
政界に対する影響力の拡大を諦めた民衆派は、王宮親衛隊第四中隊を中核として、軍や王都警備隊などに影響力を広げる方針をとった。目立たず静かに戦争の準備をしていれば、民衆派唯一の高官であるレオンの地位は、とりあえず安泰だ。
レオンに忠誠な親衛隊第四中隊は、全員が士官で中隊長以上の指揮統制訓練を受けている。開戦したら、ただちに予備役兵を召集しそれぞれ二百人からなる中隊を編制する。親衛隊騎士百人が中隊長になって兵を指揮統率し、残りの五十人が連隊長や司令部要員となる。こうして親衛隊第四中隊は、王都守護を任務とする総勢二万人の第四親衛軍団に化ける。職業兵士からなる常備軍団に比べれば弱いだろうが、土地勘のある王都での市街戦でなら相当な戦闘力を発揮するはずだ。
長年の平和で、この親衛軍団制度は形骸化していた。ところが第四中隊が母体となる第四親衛軍団は、ゆっくりと目立たないようにレオンが立て直していた。レオンは、王都に自分の戦闘部隊を持っている。保守派貴族は、自分たちの足元が揺らいでいることに気づいていない。
治水工事が完成して数カ月後に、とうとう大雨が降った。レオンは、土木作業の経験を積んだスラム住民を率いて雨の現場に駆けつけ徹夜で待機した。「我々の街は我々の手で守るのだ!」。数十年に一度の豪雨でもパシテ川の堤防は決壊しなかった。治水工事は成功だった。もう洪水病が流行することはないだろう。
大雨の中でスコップを持ち、凄まじい音をたてて濁流がぶつかる堤防の上に立って川を見下ろしていたレオンの姿は、英雄を描いた絵のようだったと王都民の評判になった。
レオンがおとなしくなって数カ月たった。軍司令部に顔を出して西方領主領地域での戦闘について作戦参謀と討論したり、王都民の困りごとの解決に駆け回ったりと失脚しても大忙しだ。
戦争を待ちわびながらレオンは、親衛軍団の組織固めや民衆の組織化も進めていた。河川の氾濫を防ぐという名目でスラム住民を組織化したのと同様に、防火のためという名目で平民街の自治組織を公的に認めさせ、若干の予算もつけさせた。
国王から平民まで火事が減ったと喜んでいる。だが、レオンの真の目的は、この自治組織を利用して人々を戦争と革命に動員することだ。
二年半でカムロ組織は、成長した。適性にしたがって組織を三つに分けることにした。
クロカンがリーダーの『Z』。スパイ・諜報活動・謀略・テロを担当する。
ボンタがリーダーの『C』。煽動・暴動・破壊工作・ゲリラを担当。
ハサマがリーダーの『SY』。一番少人数だが、テロ・暗殺・拷問に特化させた。
セレンティアでは、十五歳が成人だ。カムロにも成人する者がでてきた。意外⋯でもないのだが、商家に勤めていたカムロに番頭として支店を任せたいとか、なかには婿養子にとりたいなんて話しが何件もきた。
セレンティアなら大学講師くらいにはなれるレベルの知識を教えられ、王宮の王家担当侍女に貴族の礼儀作法を仕込まれて挙措端正。後見人のレオンを通じて王宮どころか王女や国王にまで繋がりがある。それは手放したくないだろう。
もともと素質のある者を厳選してリクルートしている。浮浪児がカムロに加わると、知識、知性、教養、自己肯定感、連帯感などが身につき、さらに衣食住の状態がよくなる。栄養不良で小柄だった容姿が急速に成長して、見違えるようにきれいになった。そのうえ王宮親衛隊の有志が鍛えてくれるので、体つきが違う。レオンに吹き込まれた思想によって、正義の確信と使命感を持っているので、顔つきや目の輝きも違ってくる。浮浪児を集めて街のネタ集めをするつもりが、どうも美少年と美少女の集団になってきた。
成人後のカムロの進路は、適性を見て要請はしても強要はしない。当たり前だが本人の希望を優先する。カムロは秘密組織であり、孤児たちの疑似家族でもある。外に出る者は、『草』として街に入っていった。
保守派貴族どもを懐柔するために、レオンは我慢強く偽善を発揮した。フランセワ王国の王家と民衆のため、高潔にも無私で働いているように見せかけるのだ。そう見えれば保守派貴族は、簡単にはレオンを失脚させられなくなる。貴族に奉仕するような屈辱的な真似をしているのは、保身のためだ。さらに奴らを懐柔するために、貴族どもが喜ぶ特大の『プレゼント』を贈ってやった。
前触れもなく王宮官房にレオンが現れ、国王との面会願書を提出した。普通なら使いの者が持ってくるものだ。こんなところは、以前と少しも変わらない。願書の用件は、こんなものだった。
「貴族女性の流産と死産を含む不妊症と『衰弱病』『踊り病』の原因と予防についての提言」
例の『家庭の医学』のおかげでレオンは、医学者や慈善家として全セレンティア世界に名声がとどいていた。
世界中の医学者が内容を改め、間違いがないどころか新たな医学的発見に満ち満ちた宝のような本であると太鼓判を押した。「あの世で女神から教えられた」などと神がかったことが書いてあるが、『家庭の医学』に書いてある治療をすれば治るのだ。信じないわけにはいかない。
この知識を自分だけで抱え込んでいれば、どんな栄達も思いのままだろう。ところがあろうことかレオンは、私財を投じて印刷し全世界に配って自由に活用してくれという。これでどれだけの人を病気から救われたか分からない。まるで女神か聖女の再来だ。⋯⋯まあ、実際に、女神と聖女の再来なのだが。
世界中の人たちが、レオンを無欲な慈悲の聖者みたいな人だと勘違いしている。もちろんそんな人間がいるワケがない。レオンは、「女神の加護を受けた天才」ということになった。この虚名のおかげで、保守派はレオンを攻撃しづらくなった。
レオンは、王家の婿であり継承権は無いとはいえ王族だ。フランセワ王国の数少ない実戦指揮官であり、卓越した軍事理論で若手将校と士官候補生を指導している。剣術、医学、数学、哲学でも世界的な権威だ。保守派貴族にすら天才的な男だと認められている。天才だから性格が破綻し狂人と紙一重なのだろうと、王宮の大臣からメイドまでが納得していた。
この才気があれば、どこの国でもレオンを受け入れるだろう。あまりいじめて敵対国であるブロイン帝国にでも亡命されたら、大変なことになる。
「貴族女性の不妊と衰弱病 ~云々~」が、国王との面会の用件だった。
フランセワ王国では、貴族女性の短命と不妊が社会問題となっている。あのレオン・マルクス伯が、それをどうにかしてくれるらしい。奥方や令嬢の命に関わることだ。いくらレオン嫌いの保守派貴族でも、握りつぶすわけにはいかない。
翌日にはレオンは、謁見の間に呼び出された。百人以上の貴族が待ち受けていた。いつもの顔ぶれに加えて、学者貴族の姿がちらほら見えた。
時間通りレオンが四人の美少年と美少女を連れて入場してきた。四人とも貴族好みの美形ぞろいだ。従者は、それぞれ布をかぶせた籠を抱えている。レオンは、王族の末席なので跪礼はしなくてよい。従者は主人の一部なので跪礼は不要という説と、国王の臣下なのだから跪礼せよという二説ある。籠を下ろしたり上げたりの時間が惜しく面倒くさいので、レオンは従者に跪礼させない。従者たちは、レオンの後ろに下がって国王を直接見ないよう視線を落とす。
「レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス伯爵、まかり越しました」
普段よりずっと身綺麗にしているが、国王の前に立つにしてはかなり質素な身なりだ。もちろんこれは、民衆派のアピールだ。
国王は、レオンと会うと機嫌が良くなる。若いころは、よく王宮を抜け出した。今はすまして並んでいる大臣や高官とつるんで遊び、ヤクザとケンカして刺されたり、屋台を製作して焼き肉を売ってみたり、町娘をナンパして結構モテたりと、馬鹿なことをした。レオンと話すと、そんな青春時代を思い出して愉しくなるのだ。
王様だけでなくジュスティーヌやジュリエットもそうだ。フランセワ王家の王族たちとレオンは、妙にウマが合った。大変な優等生なのに、羽目を外したいという願望を心の底に隠した人たちだからだろう。
もともとフランセワ王朝を開いた初代は、地方軍の司令官だった。王に諫言したために僻地にとばされ反乱軍と戦っていると、王都で内ゲバのような争乱が起こり前王朝が自壊してしまった。
やむなく王都パシテにのぼって、どうにか秩序を回復。王家の生き残りを探したが、百人以上いたのに子供二人しか生き残っていなかった。親兄弟親戚の骨肉の血みどろ殺し合いを目のあたりにした二人は、柱にしがみつき泣きわめいて王座につくことを拒否。国内でまともに機能している組織は、初代が率いる軍だけだったので王座が転がり込んできた。
初代は黒髪黒目だったのだが、代々三百年も血筋の良い小貴族の娘を王妃に迎えているうちに、フランセワ王家は金髪碧眼になった。
王座に戻ることを拒否した前王朝のガペー家は、王都近くの小領に住まい、代々フランセワ王家に厚く保護されている。女神生誕日や建国記念日などの重要式典の際に、ガペー前王家は儀典担当として式典を司り、王宮に招かれる。
「うむ、レオン。戦争をしたいとか言っておったが、頭が冷えたようだな。喜ばしいぞ。今日は、有意義な提言を期待しておる。普段は顔を見ない学者が、大勢きておる。ハハハ!」
レオンのアタマは少しも冷えておらず、戦争したくてウズウズしている。だが、ここは国王の言う通りに振る舞わないと失脚してしまう。
「大変未熟な姿を陛下にお見せしてしまい、まことに汗顔の至りです。⋯⋯今日は、貴族女性に早世する方が多く、また不妊が多い現象に関してその原因を明らかにし、その対策を述べさせていただきたいと存じます」
ザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワ!
国王を前にして貴族が私語してざわめくなど、普通なら有り得ない。だが、レオンのことを大嫌いな保守派貴族でさえ、レオンの能力は認めていた。こいつなら、妻や娘が原因不明の衰弱病や踊り病で死ぬのを防いでくれるかもしれない。
貴族女性の早死の多さと不妊は、フランセワ貴族界の大問題になっている。正室どころか側室にも子ができず、運良く産まれても虚弱ですぐに死んでしまう。やむ得ず分家から養子をとったり、外の女に産ませた子供に家を継がせることも多い。レオンの弟分の傷のジルベールなども、そのたぐいだ。
さっそくレオンが話し始める。
「資料として『貴族年鑑』『貴族名簿』を使用しました。平民に関しましては、王都二十三街区と三十街区神殿の『信者名簿』と『過去帳』を参照しました」
王宮保安部に保管されている『貴族名簿』は、許可がないと閲覧できない。レオンは、王族特権を思う存分使わせてもらっている。
「『ファルールの地獄』の惨禍が落ち着いて以降、この約二十年間の貴族男性の平均寿命は六十四歳になります。一方、平民男性の平均寿命は五十八歳です。貴族男性の寿命が平民より六歳も長いのは、栄養状態や衛生環境によるものと予想されます」
淡々と話しているように装っているが、レオンは腹を立てていた。「寄生虫貴族同士で共喰いさせて、お前らの寿命を三十年は短くしてやる。その時まで待ってろよ!」。
「ところが貴族女性の平均寿命は、五十四歳です。それに対して平民女性の平均寿命は、六十四歳。貴族男性は平民男性より六歳長命なのに、貴族女性は平民女性より十歳も短命です」
レオンの講義は、分かりやすいのが特長だ。具体例を挙げて噛んで含めるように説明する。
「偶然にこのような現象が起きる確率を計算しました。カイ二乗検定による解析によると、確率は0.000003パーセント以下でした。簡単に申しますと、貴族女性のこのような短命が偶然である可能性は、一億分の三以下にすぎません。統計学的に有意であり、偶然ではあり得ないと断定できます」
貴族男(六十四) =平民女(六十四) > 平民男 (五十八) > 貴族女(五十四)
レオンは大きな紙に、こんなことを書いて国王をはじめ居並ぶ貴族たちに見せた。
「早世する貴族女性の主な死因は、二つです。身体に力が入らなくなりベッドから全く起きられなくなる『衰弱病』。錯乱状態となり起き上がろうとして何度も転倒を繰り返す『踊り病』です。衰弱病は、腸の激痛をともない意識が混濁し発症後数カ月から数年以内に死亡。踊り病は、起きあがる体力を失った後も錯乱状態となり、やはり発症後数カ月から数年以内に死亡します」
「おおっ!」
貴族たちが、どよめいた。ついこの前まで紙さえ一般的でなかったこの世界では、症状の実態を知る手段は主治医から聞くくらいだ。医者の間ですら症状の知見は、口頭での情報交換くらいで文書で共有化されていない。現実にここにいる貴族のほぼ全員が、女の身内を『衰弱病』か『踊り病』で亡くしている。おそろしい死に方だった⋯⋯。
レオンは、貴族たちが一番知りたいことを淡々と述べていく。
「また、平民女性の生涯出産数は四・二人ですが、貴族女性の生涯出産数は一・四人です。子供の十歳までの生存率は、平民は八割程度ですが、貴族の場合は四割です」
ザワザワザワザワザワザワザワザワザワザワ!
貴族たちが動揺する。貴族に子供ができにくいとは知っていたが、ここほどまでとは! 記録と統計を使って具体的な数字で事実を突きつけられると、やはり衝撃だ。
大貴族でも、最近は分家から養子をとることさえ難しくなっていた。分家にも子供が産まれないのだ。
しかし、下賤な平民女を抱いて名誉ある家門に下等な血を入れるなど⋯⋯。
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貴族に目をつけられた平民の娘が、だまされて、まるで汚いものでも触るような態度で犯され、子供を産まされた。産んだらすぐに赤子から引き離され、母親は涙金を渡されて貴族屋敷から追い出される。
この事実は、レオンがつくったガリ版マスコミで報道され、貴族の継嗣を産むための機械にされた女たちに王都民の同情が集まっていた。
レオンが謁見する十日前に、赤子を抱いて裸足で貴族屋敷から逃げた産婦がいた。
出産したばかりで足元もおぼつかない。とうとう力つきて初冬の路上にへたり込んでしまった。半死半生の体の母子を近所の民衆が取り囲み、どうしようと相談しはじめた。フランセワの民衆には、赤子を抱えて泣いている女に『自己責任』がどうとかいう腐った人間はいない。
やがて貴族家のお抱え騎士団が十人も追ってきた。びっくりした民衆が道を開くと、騎士団は産婦を取り囲んだ。「産んだら用はない」「コジキ女がカネをせびりやがって」「子供を渡せばめぐんでやる」「死にたいのか? 下民」などと罵りながら赤子を奪おうとする。
髪を引っ張られ剣先で小突かれても、母親は子供に覆いかぶさって守ろうとした。亀のようになって動かない母子に業を煮やしたお抱え騎士は、とうとう母親の顔を思い切り蹴り上げた。数メートルも吹っ飛ばされた母親は、壁に激突し崩れ落ち、口から血を流して動かなくなってしまった。死んだかもしれない!!
この一部始終を見ていた民衆が、カンカンに怒った。石を投げつけ棍棒で武装して罵声を浴びせる。騎士団も剣を抜く。とうとう暴動寸前の小競り合いになった。
レオンにとって、怒れる人民が武器を握って立ち上がるのは、とても良いことだ。だが、まだ早すぎる。民衆が一方的に殺されるだけだ。
本格的に血を見る前に、抜刀したレオンを先頭に五人の親衛隊第四中隊が駆けつけて割って入った。お抱え騎士団に剣を突きつけ、赤ん坊を奪還する。
「子供を置いて失せろ。さもないと殺す」
石ころや棒きれを握った民衆は、もう拍手喝采だ。
騎士団は追っ払ったが、赤ん坊を取り返されたらいけない。病院では、懲りずに乗り込んでくるかもしれない。仕方ないので母子を戸板に寝かせ、親衛隊宿舎に担ぎ込んだ。気絶していた母親は、顔半分が腫れあがっているが、まだ若く美しい娘だ。騙されて誘い込まれた奉公先の貴族屋敷で、手込めにされ、妊娠すると半年以上も閉じ込められて『子産み機械』にされた。生きてはいたが、ひどく衰弱してそのまま寝込んでしまった。
第四中隊には、人を殺したことのあるヤツなんていくらもいる。ところが百五十人もいるのに、子育てに縁のある者は一人もいなかった。
親衛隊は、新生児を持てあました。昼夜分かたず赤ん坊がヒーヒー泣く。しかし、ナニをすればよいか分からない。夜中に弱々しく泣かれると、このまま死ぬんじゃないかと不安になる。隊員が何人も不眠になった。
本当に死なれでもしたら、レオンが殺したんだと保守派は宣伝するだろう。カムロが保母を見つけてくるまで男所帯の親衛隊が、赤ん坊のオムツを換えたり山羊乳を飲ませようとしたりの右往左往で、斬り合いよりもよほどくたびれた。
この事件でレオンは、民衆に大喝采された。我が子を死守した若い母親も回復し、身の安全を確保できた。赤ちゃん事件は、レオン御用マスコミの格好のネタになり、王都はおろかフランセワ王国中に知られることになった。
貴族から見ればこんなゴタゴタを起こすので、レオンはますます保守派に憎まれることになった。「この成り上がり者が現れるまでは、下民どもは従順だった!」。
ふざけるなっ!!! レオンは、醜悪な封建制と身分制を粉微塵にぶち壊してやるつもりだ。
レオンは、保守派貴族に憎悪されるようなことを定期的にしでかす。高位貴族で唯一の民衆派なのだから、これはもうどうしょうもない。
いくら病気治しをしたところで、人の階級意識や差別意識、社会悪は、どうにもならない。矛盾を無限に生み出す社会の構造を変えることはできないのだから、当たり前だ。おめぐみ奉仕は無意味だ。そのことは聖女だった時に、たんまりと味わった。
レオンの謁見は、貴族の人気取りにすぎない。もともと貴族という階級を絶滅させるつもりなのだから、レオンにとって貴族女が早死したり子供が産まれないことは、むしろ望ましい。やつらは敵なんだから、勝手に滅んでくれたらありがたいくらいだ。ははっ!
保守派から見ればレオンは、最も高貴な女性をたらし込んで堕落させ、未熟で分別のない貴族子弟に愚劣な空論を吹き込み、下民を甘やかして増長させる⋯。階級秩序の破壊者だ。
お互い不倶戴天の敵といってよかろう。民衆派と保守派が殺し合いにならないのは、国王による仲介と調停。それに領主貴族という共通の敵がいるからだ。
赤ちゃん事件の件で、ゴロツキ貴族どもが親衛隊の王宮詰所に抗議にきた。例によって、貴族の名誉がどうとかこうとか実に鬱陶しい。レオンが「母親から赤ん坊を奪ったのがいけないんだろ」と言ってやったら、「下民に貴族の子を産む名誉を与えてやった」とかぬかしやがる。居合わせた貴族が遠巻きにしている中で、怒鳴り合いの喧嘩騒ぎになってしまった。
「てめえ、あの娘を強姦したなっ。地下牢にブチ込んでやるっ!」
「田舎者の暴力団がなにを言うかっ。ワシの騎士の耳を返せっ!」
そう言われれば、ちょっと反抗的なヤツがいたっけ⋯。剣の一閃で耳を切り落とし、ビビらせてやった。
「はっ! あの小汚い耳か。はははは! そこらの道ばたに転がってるだろ。自分で拾ってこい!」
こんなんでもレオンの気性は、丸くなっている⋯。失脚前なら、お抱え騎士団が若い母親の顔を蹴った時点で飛び込んで斬りまくり、皆殺しにしていた。民衆の前で山になった死体を踏んづけて「ワハハハ! 誘拐犯どもを完全せん滅したぞー!」とか言い、血まみれの剣を頭上に掲げて振り回したりしただろう。挙げ句に「ゴミ捨て場に運ぶぞ!」と、貴族屋敷の門前に死体を運んで放り出すまでしたかもしれない。
⋯⋯今は貴族家のお抱え騎士の耳を切り落とし、民衆の前で踏みにじってみせるといった程度だ。それでも保守派貴族を、ひどく刺激した。
保守派の憎悪が臨界点を越えると、国王もかばいきれなくなる。レオンは完全失脚だ。おそらく地方にでも飛ばされる。保守強硬派に、ジュスティーヌがやった手口だ。レオン以外の民衆派も干し上げられるだろう。
完全失脚したら、影響力が残っているうちに武装蜂起するか地方でゲリラ闘争をするしかない。しかし、失脚からの受け身の蜂起をしても、混乱の末に王宮の保守派貴族と領主貴族が手を結ぶだろう。搾取することで生きている貴族どもの真の敵は、戦う民衆だからだ。石コロや棒きれの未熟な武装闘争は、いずれ敗北する。レオンの失脚は、民衆派の壊滅と同義だ。民衆派は、まだ若く弱い。
それを避けるには、憎悪された以上の功績をあげ、点数を稼いで完全失脚を防げばよい。保守派貴族どもに「いなくては困る役に立つヤツ」と思わせるのだ。治水事業はともかく、貴族令嬢の傷跡消しなんていう愚劣なことも敢えてやった。
ところがぁー、今回の赤ちゃん事件で、またぞろ保守派は、レオン排除に動きそうな気配だ。だまして誘い込んで強姦し、監禁した末に産ませた子供でもいいから跡継ぎがほしいらしい。レオン率いる民衆派に、こんな犯罪を邪魔されたら迷惑といったところだ。
今は、王宮内での権力闘争で勝ち目は無い。どうにか保守派どもの機嫌を取って空気を抜かなければならない。屈辱的だが⋯⋯。
レオンは、自分を過少評価しているようだ。保守派貴族は、『保守』ゆえに騒動を好まない。迫りくる危機から目をそらし、豊かで平穏な日常を続けたい。
あまりレオンを追いつめると、あの気性だ。なにをするか分からないだろう。実際にレオンは、最後の手段として王都でのゼネストと武装蜂起すら検討している。
レオンにとって、暴力こそが手にしている権力の最大の基盤だ。武装解除されると判断したら、第四中隊を先頭に、若手貴族や軍の一部と民衆まで巻き込んで反乱を起こしかねない。あの男は、やるとなったら徹底的にやる。そうなったら、貴族邸宅は焼け落ち、王宮から地方に落ちて巻き返しを計るしかない。いったいどれだけの貴族が死ぬか分からない。なんとしても、それだけは避けなければ⋯⋯。
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レオンの前世は、病気治しの聖女だった。その前は医療神だ。どうやら、その意識が残っているらしい。無意味と分かっていても、病気を見つけると、どうしても治したくなってしまう。
⋯⋯病気? 治したい⋯⋯ウズウズウズウズ⋯⋯
ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯
謁見の間でレオンが示した貴族女性の短命と不妊の現実。怖ろしい病状に、恐怖してざわめく貴族たち。
貴族の女は、下民女より十年も寿命が短いだと? 貴族の子供は育たないだと? 静まるのを待って、再びレオンが語り始める。
「貴族女性だけが極端に寿命が短い現象には、必ず理由があるはずです。私は『貴族』『女性』が日常的に使用する何かに、身体を害する物質が含まれていると推論しました」
実際に調べるまでもなく、衰弱病と踊り病の症状にレオンは覚えがあった。
ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯
妻や娘が、毎日のように毒を浴びているだと? そのために子が産まれず、いずれ衰弱して狂死する?
ここで話しを聞くことを止める父や夫は、いないだろう。
「衰弱病と踊り病に関しては、現在論文を執筆中です。しかし、事態は急を要すると判断し、公開の場で報告させていただくよう国王陛下にお願いいたしました。原因究明にあたっては、貴族女性の協力が不可欠です。パスティーユ・トゥール・ド・ラ・ガペー前王家息女殿下、ジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクス王女殿下のお二人を筆頭に、三十名もの王宮侍女の力添えがあったことを、御礼とともにご報告します」
フランセワ王家は、前王朝のガペー家に礼を尽くすという建前なので、フランセワ家よりガペー家を先にしなければならない。それにジュスティーヌは直系の王族なので、公的な場ではたとえ夫でも『殿下』をつけて敬語で話さなければならない。⋯⋯面倒くさい。
ガペー前王家のパスティーユ息女は、儀式があるたびに王宮に招かれる。ジュスティーヌと年が近く、子供のころからの顔見知りだ。レオンは、ジュスティーヌと一緒に猫なで声で居候部屋に招いて、箔付けの筆頭協力者として名前を貸してくれるよう頼んだ。
前回の『家庭の医学』で名前を借りたアリーヌが、どういうわけか大人気になった。王宮侍女仕事の合間に、旦那様が執筆している難解な医学書を筆記する才女。まるで白薔薇に寄りそう白百合。たおやかだが賢く芯の強い名門スタール伯爵家令嬢アリーヌ侍女。⋯⋯⋯⋯実物と全然違うやんけ。
世間の人たちが美化して、ちょっとしたアリーヌ・ブームだ。公爵家あたりからも結婚の申し込みが五十件くらいきて、アリーヌは断るのに迷惑している。
パスティーユ息女は、アリーヌ人気にちょっとジェラってしまったらしい。「アリーヌという方は、それほど美しいのでしょうか?」なーんて言ってた。目の前で茶をいれとるよ。
二匹目のドジョウを狙ったのか、二つ返事で名前を貸してくれた。ガペー前王家の家訓は、「政治に関わるな」だ。パスティーユ息女は、レオンの衰弱病研究が民衆派と保守派の政争の具にされるとは、夢にも思っていなかった。
貴族のしきたりは、面倒くさい。侍女の名前を並べるのにも、複雑怪奇な序列があった。爵位だけなら、まだ分かりやすかった。家格だとか。どっちが古い家柄だとか。五百年前に本家がどっちだったとか。もらった勲章の数だとか。対立しているA侯爵家とB侯爵家で、A侯爵家を先にすると王家がA侯爵家を支持していると見られるだとか⋯⋯。知らんがな。
嫌気がさしたレオンは、アリーヌに投げた。イノシシを斬ったりしなければアリーヌは、まぁ優しい。こういう仕事は真面目にやってくれる。徹夜で仕上げて目にクマをつくり、フラフラと仕事部屋から出て行った。王家担当侍女を休むわけにはいかない。
王宮侍女の協力とかいったって、こんな感じだ。
「おーい、スカラベ。おまえ、いつもなに食ってんだ?」
スカラベ王宮侍女は、かなりムッとした。
「スカリナですっ。⋯出されたものを食べています」
ぷいっ!
「身長体重スリーサイズを教えろ」
ムッ⋯
「失礼ですわね。知りませんっ」
つーん!
「しょうがねえなぁ。おぅ、使ってる化粧品を貸せや」
「いっ、嫌ですわ!」
「なんでぇ。スカラベは、どケチだな」
「どけち⋯。くっ⋯⋯差し上げますわ。返して下さらなくて、けっこうですっ。それとわたくしの家名は、スカリナですっ!」
ぷんぷん! ぷんぷん!
「論文にも掲載いたしますが、この場でも協力してくださった令嬢方の名前をあげさせていただきます。
パスティーユ・ド・ラ・ガペー前王家息女
ジュスティーヌ・ド・フランセワ第三王女
ラビュタン公爵家オセアンヌ王宮侍女
ヴィクトール公爵家リアリス王宮侍女
シャトーリアン公爵家マイリス王宮侍女
スカラベ⋯失礼⋯スカリナ侯爵家リア王宮侍女
スカニア侯爵家アイシャ王宮侍女
メーストル侯爵家ステイラ王宮侍女
ダンテス侯爵家レオリー王宮侍女
ポリニャック侯爵家アリ-ス王宮侍女
オスマン伯爵家カプシーヌ王宮侍女
アベル伯爵家ソフィア王宮侍女
ロルジュ伯爵家イヴォンヌ王宮侍女
ヴァンディエール伯爵家ルイーズ王宮侍女
ラルミナ伯爵家ヴィオレット王宮侍女
ロメニール伯爵家ジュスティンヌ王宮侍女
コリニー伯爵家ブロンシュ王宮侍女
ヴァリエール伯爵家ディアンヌ王宮侍女
マール伯爵家ヴァロティンヌ王宮侍女
ラジヴィ伯爵家オリヴィア王宮侍女
ポワソン伯爵家マルグリット王宮侍女
カジミール伯爵家リーリラ王宮侍女
レイエール伯爵家ミエス王宮侍女
ロベール伯爵家ポレット王宮侍女
ドルブリューズ伯爵家レーナ王宮侍女
ラサール伯爵家シャリア王宮侍女
グランジェ伯爵家イーネス王宮侍女
エレオノール伯爵家マイリス王宮侍女
リュゼ伯爵家ジャンヌ王宮侍女
ダルキア伯爵家マドレー王宮侍女
コンドルセ伯爵家エイネス王宮侍女
スタール伯爵家アリーヌ王宮侍女
⋯ぜーっ、ぜーっ、ぜーっ⋯⋯」
最後にアリーヌが、実家のスタール伯爵家をコッソリまぎれこませたのがご愛嬌だ。徹夜で頑張ってくれたのだから、このくらいは当然だろう。
ゴチャゴチャとややこしい名前を三十人も列挙したら、レオンはもう疲れてしまった。ここでだれかの爵位なんかを間違えたら、後で面倒なことになる。「スカラベ侯爵家」は、危なかった⋯。
アリーヌに限らず貴族は見栄っ張りだ。家名も加えたのがこたえた。口頭だけならまだしも、論文にも載ってずっと残る。
「錚々たる名家の令嬢の名が連なっているのに、我が家門の娘の名がないではないか! レオン・マルクスに関わらないように言い聞かせたのが仇になった。ヤツが出した医学書は、世界中で絶賛されているという。侍医までほめちぎっておった! 忌々しいがこれから発表する論文とやらも、世界中で知られるようになるだろう。コンドルセ家やロベール家ごときが載っているのに、あの程度の家門に負けたなどと⋯。末代までの笑いものだ。祖霊に顔向けができぬ。うぬぬぬぬぬぬ⋯⋯。おのれコンドルセ。おのれロベール。どんな手を使いおった? やむを得ん。ヤツに頭を下げて、どうにか⋯」
レオンは、懐柔できそうな高位の保守派貴族をテキトーに選んで並べただけだ。
当主がレオンを訪ねると、「これはいけない。失念しておりました」とか言いながら、なにを要求するでもなく機嫌よく家名と令嬢の名を加えてくれる。そしてニコニコとこんなことを言ってくる。
「お互い誤解があったようですが、これからは誤解が生じないように心がけましょう」
「お互い誤解がないように~」とか下手に出るレオンを、頼みにきた側の保守派貴族がはねつける理由はない。その後も足を引っ張ってきたとしても、今までと同じというだけだ。令嬢の名前を書き加えただけのレオンには、なんの損もない。
レオンの予想以上に、これは効いた。
「恩知らず」を、人は本能的に嫌う。そしてなにか世話になったら、「借りを返さねば」という思念が頭にこびりつく。
貴族が平民に恥知らずで非道なことをするのは、平民を人間とも思っていないからだ。だが、レオンは高位貴族だ。ゴリゴリの保守派貴族が、レオン攻撃に関しては急に口が重くなることが多くなった。
「協力いただいた三十名の王宮侍女の方々には、病気の兆候は全く見られませんでした。この病は、二十代で発症する令嬢もおり、五十代になるとベッドから起きあがれなくなることも多い。王宮侍女は、健康な女性をよりすぐって集めたとはいえ、これも不思議です。衰弱病と踊り病の原因を特定するヒントになりました」
大問題になっている衰弱病と踊り病について発表するというので、王都周辺の謁見の間に入れる貴族医者は全てこの場に集まっていた。「衰弱病と踊り病の原因を発見したのか!」。
ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯
「原因は、これです」
レオンは、小瓶を二つ手に乗せて国王に見えるようにさし上げた。貴族たちの視線が集中する。
受け取った秘書官が盆に乗せて、国王の前に小瓶を持っていく。『毒』のようなので、国王のすぐそばには置かない。後でだが、謁見の間に毒物を持ち込んだと、ちょっと問題になった。バカバカしいったらない。
国王は、気味悪そうに小瓶を眺め回している。
「マルクス伯爵、これはなにか?」
「二つとも化粧品、おしろいです」
貴族女がパーティーのたびに使う物だ。王妃や側妃、五人の王女を持つ国王なら、見たことくらいあるだろう。
「なにか問題があるのか?」
「はい。こちらには鉛が、こちらのおしろいには水銀が含まれています。⋯⋯両方とも猛毒です」
ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯
「鉛が猛毒? 食器や水道管にも使われておるぞ」
「すぐに症状が現れる毒ではありません。そこが恐ろしいのです。一旦体内に取り込まれた鉛は、排出されません。長年かけて蓄積され、一定量を超えると衰弱病を発症します。主な症状は、手足のしびれ、けいれん、激痛、そして死です」
国王が身を乗り出した。
「鉛の酒器でブドウ酒を飲むことがあるが?」
「鉛毒の作用で味がまろやかに感じられるのです。鉛は、不妊や不能の原因ともなります。発癌性もございます。すぐに使用をおやめ下さい」
そんな毒を毎日飲んでいたのか? 良くできた鉛の酒器は、銀器よりも高価で取引されることがある⋯。
ザワザワザワザワザワ⋯⋯⋯⋯
「水銀⋯とやらは?」
「鉛より毒性が強く、経口だけでなく蒸気にもなって体内に取り込まれます。体内で蓄積されると、主に脳と神経を破壊します。発症すると激しい痙攣などの運動障害や、知能低下、妄想などの精神症状を起こし、やがて死亡します」
国王と貴族たちは驚いた。そんな猛毒を女たちは身体に塗りつけているのか!
王宮侍女たちは、仕事を持っているので社交舞踏会にはそれほど出られない。だから化粧が少なく、『衰弱病』『踊り病』を発症しないのだ。
「さらに怖ろしいのは、胎児性水俣病⋯⋯⋯いや、失礼しました。⋯水銀は、妊娠中の胎盤やへその緒を通り、胎児にまで到達します。大人は発症しない少量でも、水銀は胎児に重大な影響を与えます。子宮内で脳と神経を破壊するのです」
貴族医者が声をあげた。国王の直問中に口を挟むなど、普通は考えられない。夢中になってしまったのだ。専門家の意見の表明として国王も特に咎めない。
「お待ち下さい! 毒物は胎盤で浄化され、胎児には届かないはずです」
レオンが速答する。
「通常の毒物ならば、その通りです。しかし水銀は、胎児の脳にまで到達します」
この貴族医者は、数歩後ずさった。思い出したのだ。死産に終わった多くの貴族の赤子たちの姿を。そして、産まれると同時に消されていった嬰児たちの姿を⋯⋯。
「そうか⋯そうだったのか⋯⋯。あれは、踊り病だったのか⋯⋯」
新東嶺風も見た。
県立の進学校で剣道に励んでいた嶺風は、社会勉強のつもりで水俣病の抗議運動に顔を出した。そこで生まれながらに健康を破壊された胎児性水俣病患者を見た。原因企業のチッソに抗議に行った漁民と機動隊が乱闘になり、百人以上の負傷者を出したことを知った。別の工場に向かった二十人の交渉団を二百人のチッソ社員が襲いかかり、同行したアメリカ人カメラマンを失明させる程の暴力を振るったことを知った。工場排水の毒性が明らかになった後ですらチッソの下請けの水俣市民が、「工場を止めるな」と陳情したことも知った。そのくせ『市民』らは水俣湾の毒魚を買うことを止めた。貧窮した漁民は自分の捕った魚を食べ、水俣病を発症して死んでいった⋯⋯。彼らには、嘲笑、罵倒、中傷、差別、そして無関心が投げつけられていた。水俣病の死者は二千人を超えた。
嶺風は、勉強も剣道も止めた。そして一番権力と戦っている団体を探した。踏みにじる側にいながら、ご都合の良い民主主義を念仏にして多数者の暴力を振るっているくせに、善人面をしている連中に腹が立った。そこから抜け出したかった。『三里塚を闘う高校生共闘』に加わり、鉄パイプと火炎ビンを握った。
レオンが合図すると、美形カムロが二人前に出て籠を覆っていた布を外した。中で四匹ばかり駆け回っている。
チュー
チュウチュウ
チュチュー
「ネズミです。王宮の地下室で捕獲しましたので、陛下の財産です」
国王は苦笑いしている。謁見の間にネズミを持ち込んで、国王に差し出すなど前代未聞だろう。
「で、このネズミがどうかしたのかね?」
「はい。私の言葉だけでは、信じがたいと思います。この籠のネズミには普通のエサを、もう一方には化粧品を加えたエサを与えて下さい。一カ月ほどで結果が出るはずです」
対照実験だ。ひとつの条件を変え、他の条件を同じにして行う。実験結果から、変えた条件によってどのような効果が生じたのかがわかる。中学理科レベルだが、セレンティアにはこの程度の知識もない。
国王は聡い。すぐに筆頭侍医を呼んだ。
「なるほど⋯。シャーイ子爵。そのように実験せよ。結果は、王宮保安部に文書で毎日報告すること」
国王の侍医が、うやうやしげにネズミ籠を奥に運んでいく。その間にレオンが述べる。
「結果がでるまで一カ月程度かかります。こちらの籠のネズミは、一カ月前から実験を行っていたものです。ご覧になりますか?」
もちろん国王は見てみたい。
「おぉ⋯。見せよ」
レオンが三個目の籠の布を外した。四匹のネズミが籠の中を駆け回っている。
チュー
チュウチュウ
チューチュー
「こちらが通常のエサを与えていたネズミです。至って元気で、元気が余って一匹は妊娠しました」
続いてもう一つの籠の布をあけた。ネズミは一匹しかおらず、不自然に転んだり起き上がろうとしたりして転がり回っている。国王はすぐに悟った。
「他の三匹は、もう死んだのだな?」
貴族医者たちが、このネズミ籠の周りに寄ってきた。
「これはまさに⋯」
「踊り病ですな⋯なんと」
「ううむ、間違いありません」
「踊り病を人工的に発症させるとは⋯」
国王は、肝心なことをたずねた。
「治療法は、あるのか?」
レオンは、少しでも自分を大きく見せなければならない。「治す方法は、ありません~」では、お話しにならないのだ。
「鉛鉱山で働く者は、被曝量に比べて衰弱病の発症が少ないことに気づきました。鉛鉱山に行き、彼らの衰弱病の予防と治療法を聞き取り、まとめました」
高位貴族が鉱夫に聞き取り調査など、貴族界では考えられない。だが、レオンは平気でそういうことをする。「貴族らしくない」などと批判する保守派貴族は、そんなレオンが見つけてきた治療法に助けられる立場だ。
「踊り病はどうか?」
「水銀は、一年程度で全て体外に排出されます。しかし、症状が無い方でも水銀を摂取した場合は、一年は妊娠を控えた方がよろしいでしょう」
「治療法は?」
「残念ながら、ございません。破壊された脳や神経を修復することは不可能です。切断された腕が二度と生えてこないのと同じです」
フランセワ王国国王は、七十年代の日本政府よりも有能で良心的だった。なので、ただちに対策を講じた。
「書記官! 口述せよ。フランセワ王国国王は、下記の勅令を発する。鉛および水銀を使用した製品の製造、流通、販売を禁止する。禁止される製品の詳細は、別紙に記載。故意に本勅令に反した場合は、殺人もしくは傷害罪に問われる。過失により本勅令に反した場合は、重過失致死傷罪に問われる。本勅令が有効となる範囲は⋯⋯」
レオンが口を入れてきた。
「「フランセワ王国国王の行政権が及ぶ王国領土」でいかがでしょうか?」
国王が顔を上げ、レオンをにらんだ。レオンの言う範囲は、領主貴族領以外のフランセワ王国のことだ。領主貴族領をあえて外している。いくら対立しているとはいえ、このような病気が領主貴族の女子供に蔓延することを放置しろとは⋯⋯。
国王は、レオンを高く買っていたし気に入ってもいた。しかし、目的のために手段を選ばないレオンの一面には、危惧も感じていた。
やべえ、ご機嫌をそこねちまった。そう感じたレオンは、一歩下がって頭を下げる。
「心無いことを申しました。お気持ちを害し、申し訳ありません。今後このような誤りをいたさぬよう、注意いたします」
レオンを抑えられるのは、国王だけだ。頭を下げているレオンを目を細めて数秒間眺め、国王が応じる。
「今後、不適切な発言は控えるように⋯⋯。本勅令が有効となる範囲は、フランセワ王国領土である。女神歴二十六年十二月十五日。⋯王印を」
国王がレオンをかわいがっているのは、なにも娘婿だという理由からだけではない。王政は、封建領主貴族とブルジョワを先頭にした新興階級のバランスで保たれている。奴隷制を基盤とする綿花農業を基礎とした領主貴族領の生産力は数百年間変わらず、逆にこの数十年で新興階級の経済力は各段に伸びた。そして、このレオン・マルクスという男の登場で、都市の民衆が組織され天秤は新興階級の側に、さらに大きく傾いた。なによりマスコミの発達によって、「奴隷制は悪だ」という考えが民衆はもとより王都の貴族にまでに広がりつつある。
王宮内でも、領主貴族に宥和的な保守派の声は次第に小さくなっていた。数は少なくても民衆派と王家絶対忠誠派の強硬論の声が大きくなった。なによりも国王自身が、諸外国の産業革命と経済の自由化による爆発的な産業の発展に危機感を抱いている。
国王は、領主貴族と新興階級とのバランサーから、新興階級の側に軸足を移しつつある。支持階級を、ブルジョワ大衆に乗り換えつつあるわけだ。
奴隷制を廃止し領主貴族領を廃絶するには、どうしても内戦は避けられない。いかに戦争を小規模に止め、外国の介入を防ぎ、早期に収束させるかが政治の仕事だ、と国王は考えている。レオンは、逆に大規模に徹底した戦争を行い、フランセワ王国から奴隷制と封建的領主制を根絶しようと考えている。いずれにしても、いざ戦争となった際に民衆を戦争に組織し戦闘に動員できる王族はレオンしかいない。
国王は切り替えが早かった。
「レオン・ド・マルクス伯爵。みごとである。これで多くのフランセワ貴族が救われるだろう。⋯⋯褒美を取らせない訳にはいくまい?」
どーだ? といった調子で国王が左右を見渡す。衰弱病と踊り病の研究は、レオンが想像していた以上に貴族たちに衝撃を与えたらしい。反対の声を上げる者はいない。
レオン復権!
レオンは、だれが思いもよらない希望を言い出した。
「二つお願いがございます」
あいかわらず厚かましい。居並ぶ貴族たちは、身構えた。「暴力マニアのコイツのことだから、どうせ軍関係の要職を要求するだろう」。
保守派貴族どもの渋い顔に対して、レオンは涼しい顔をしている。
「わたくしを、文部政務次官に任命していただきたくお願い申し上げます」
「親衛隊総隊長にしてくれ」とか、「軍の指揮をとらせろ」だとか言い出すと予想したら、「文部政務次官」! 貴族連中は、耳を疑った。
省とはいっても文部省の実態は、内務省の外局にちかく、王国内に十数カ所ある貴族学校と王国大学、それに王立学術アカデミーを管理運営しているだけともいえる三流弱小官庁だ。『ジュスティ』を心配して忠言してくれた貴族の爺さんが大臣をやっている。レオンがアッという間に実権を握るのは、目に見えている、が⋯⋯。
「文部政務次官? レオン、なぜその職を希望する?」
「我が国を強くするためです。フランセワ王国の識字率は、約十パーセントです。それを五年以内に八十パーセントまで引き上げ、読み書きと四則演算程度はできるように致します」
ほとんどの国民が、読み書きができるようになる。それがどれほど国力を高めるか、国王をはじめ高位貴族には分かっていた。ではなぜ、今までそれをしなかったのか? 人口の一パーセント程度の貴族による民衆支配のためには、大衆教育は有害だったからだ。砕いて言うと大衆を愚民にしておいた方が、統治に都合が良かったのだ。
「かつては民を愚味ならしめるために学芸が最も狭き堂字に閉鎖されたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに進取的なる民衆の切実なる要求である」(岩波茂雄『岩波文庫発刊に際して』)
愚民化政策が統治に都合がよい? 今まではそうだったろう。しかし、もうそんなことは言ってられない。封建貴族を切り捨てて、ブルジョワと大衆に軸足を乗せた王権と官僚貴族にとって、大衆の教化は必要不可欠なことになった。国民が読み書き計算もできなくては、産業革命もなにもない。
レオンは、多くの貴族連中が考えているような戦略・戦術の天才ではない。専門教育を受けた職業軍人ですらない。やらせれば形にはするだろうが、隊形変換だの翼運動だの機動だのといった部隊指揮など執ったことはない。
個々の戦闘は有能な部下に任せて、戦う前から敵を圧倒する戦力を築くことに注力する。そうレオンは考えている。戦力=国力なのだから、あらゆる方法で国力を増すことが戦勝のカギだと考えた。そのために最も早くて安くてすぐに取りかかれるのは、民衆への教育の普及だ。
さっきまで内心では「こいつに軍権を握らせたくない」と反発していた保守派貴族は、「文部政務次官」にアッケにとられたりたじろいだりしている。国王も驚いたが、さすがに表情には出さない。
「⋯検討しよう。もうひとつは、なにか?」
「はい。わたくしを軍士官学校校長に任命していただきたく、お願い申し上げます」
また教育関係だ。士官学校の校長などは、退役が間近い軍人の閑職にみえる。だが、こっちはさらに生臭い。
百五十万都市である王都パシテだが、意外なくらい軍事力は薄い。常駐しているまとまった戦力は、王宮親衛隊七百名と王都警備隊の千三百名の合計二千名程度だ。正規軍団は、全て意図的に王都から三日以上離れた場所に駐屯させている。
王宮親衛隊と王都警備隊を勢力下においたレオンが、王都に他の暴力装置はないかと見回したら、意外なところにあった。軍士官学校だ。四~五年制で、一学年百五十名。七百名もの士官候補生を抱えている。軍大学校の士官も加えれば九百名になる。戦力的に、これはなかなかバカにできない。しかも十四歳から二十二歳と若いので、向こう見ずで忠誠心が強い。
ロシア十月革命の際に、最後まで臨時政府に忠誠で武装蜂起に抵抗したのが士官学校生徒だった。中国革命でも、国民党は黄埔軍官学校を設立し、蒋介石が校長に就任した。これが孫文の死後に蒋介石が国民党で権力を握る基盤のひとつになった。
レオンが軍士官学校校長に就任すれば、現在の王都の実力組織のほとんどを掌握することになり、将来はレオンの教え子が軍の中枢を担うだろう。
とはいえ領地や爵位ならともかく、褒美に官職をよこせというのはさすがに乱暴だ。普通は根回しをする。大臣・高官の任免権を持つ国王でも軽々に返事はできない。
「希望は分かった。追って沙汰する」
剣を閃かせて王都を駆け回り、民衆を圧迫していた貴族と対峙し流血沙汰を起こしていたレオンが、文部政務次官やら軍士官学校校長やらの行政官に納まってくれるならむしろ願ってもないことだ。貴族の反対の声は、全く無かった。それに連中は一刻も早く邸宅に帰り、妻や娘から猛毒の化粧品を取り上げたかった。
謁見の数日後、レオンは少将に昇進。文部政務次官と軍士官学校校長に勅任された。親衛隊第四中隊長の後任には、レオンの推薦でジルベールが中佐に昇進し勅任された。
文部政務次官に勅任されてから一年、レオンは教育改革に飛び回っていた。二カ月後には、レオンは、男しか入学できなかった王国大学に百人の女子枠つくり、親が反対しても家を出て勉強できるように女子寮を建てた。定員五十名の女子士官学校も設立した。大変な高倍率だったが、ブラックデューク事件の際に婆さんを支えて、「こいつが、お父さんと、お母さんと、弟たちを殺しました!」と愚連隊の御輿貴族を指弾した栗毛のエステルちゃんも合格している。
なんでレオンがこうも女性教育に熱心かというと、体力ならともかく知能で男女が変わらないということを知っているからだ。レオンの戦略の基本は、物量で敵を押しつぶすというものだ。ならば人口の半分を占める女も戦争や生産に動員し、物量の増加をはかろうとするのは当然だろう。虐げられている女性の権利のためなどではない。
初等教育の立ち上げが一番大変だった。教師がいないのだ。そこで目をつけたのが王国大学の新卒生だ。千人のうち約六百人が官職に就く。官僚になりたければ一年間地方で子供に読み書き計算を教えてこいと、貴族の親の反対を押し切って最高学府の卒業生を地方に下放してしまった。サルトルも出たフランスのグランゼコールの真似で、教師不足に対する苦肉の策だったのだが、これが意外なほど上手くいった。
代官や村長宅に居候して、村の子供たちに読み書きを教える⋯⋯。レオンが吹き込んだネオ・ルソー主義にかぶれた若者たちの多くは、教育熱のかたまりとなった。視学官が巡回し、抜き打ちで教育の進み具合をチェックするのだからなおさらだ。
ガリ版印刷のパンフレットや新聞のたぐいが、地方にも流れ込んでいた。農家の次男三男は、いずれ都会に出なければならない。これからは読み書きができなければ、もう就職はできないだろう。自作農や小商人の子供が、神殿や急遽建てられた小屋に集められ、最初の一年で十五万人以上が字をおぼえた。
一年後、年季が明けた卒業生は、新卒者と交代で王都に呼び戻された。しかし、十数人が帰都を拒否。地方に学校を建設することに生涯を捧げ、教育機関をいくつも創設した。
さらにレオンは国王に働きかけ、「軍に所属する者は兵士であっても読み書き計算ができなければならない」という勅令を出させた。士官が教師になり訓練時間を削って読み書き計算を講義。半年で十万人の兵士が字を読めるようになった。
フランセワ王国の八割を占める国王直轄地では、次々と封建的な遺制が撤廃された。移動の自由、領主徴税権の廃止などによって空前の好景気に沸いた。
女神歴二十七年は、建国以来初めて一人の餓死者や野垂れ死を出さなかった年とされた。しかし、領主貴族領で『奴隷』にされている国民は、どうだったろうか?
領主貴族と保守強硬派貴族は、封建制国家が永遠に続くことを望んでいた。しかし、ブルジョワ国家に舵をきったフランセワ王国は、王都パシテを中心とする政治改革により、国土の八割を占める国王直轄地の封建制は、滅びつつあった。
次にその反封建制改革は、領主貴族に向けられた。領主貴族領の三権の返還と奴隷制の廃止である。これを飲んだら領主貴族は、半独立国の主から単なる国王の代官となり、財産のほとんどを失うことになる。
追い詰められて先の見えない戦争に突入するか? それとも降伏するか?
領主貴族は第三の道を選んだ。王都の保守強硬派と結んで武装クーデターを決行し、王宮を血に染める反動攻勢をかけてきたのだ。追い詰められた領主貴族は、おとなしく滅ぼされはしなかった。そのおかげでレオンの運は、大きく開けた。
『クーデター』とは、支配階級内での、しばしば暴力をともなう非合法的な権力の移動を意味する。単なる権力の移動なので、社会の構造が変わることは、ほとんどない。
レオンの目指す『革命』とは、被支配階級が支配階級を打倒し、革命権力を奪取し新たに社会を根底から作り変えることだ。政治革命から社会革命・文化革命に至り、風俗や文化、宗教まで変えてしまう。クーデターと革命は、まったく異なる。
フランセワの十二月は、夕方の五時には日の入りとなる。貴重な油を浪費することをせず、平民は八時には寝てしまう。日の出は六時過ぎだ。そろそろ明るくなる五時頃には、街が動きだす。
ほとんど眠らなくても平気なレオンは、今度は民衆の人気取りに小説を書いていた。『アンクル・トムの小屋』をパクった奴隷制の非人道性を攻撃した内容だ。いずれ必ず開戦するのだから、今はおとなしくアジ小説でも書いて「文化革命だぁ!」⋯なんてことを考えていた。
深夜三時に、王宮一階から人が斬られる断末魔の叫び声と激しく斬り合う音が聞こえた。場所が場所だし、時間が時間だ。これはただごとではない。
五分もすると王宮中に散らしていたカムロたちが居候部屋に集結してきた。王宮内で大規模な戦闘が起こっているという。まさかクーデターか…。だれがどうやって兵を集めたのか?
当番カムロにジュスティーヌと三人侍女を起こさせた。明らかに集団戦闘の音が三階まで響いてくる。
「あなた! なにが?」
目を覚ましたジュスティーヌが、小走りで寝室から出てきた。直系の王族だから第一級の確保対象だろう。マリアンヌとキャトウは、特殊訓練を受け侍女に偽装した保安護衛要員だ。こんな時には頼りになる。
奇襲を受けた一階は、十分もたず制圧されたようだ。主戦場の音は二階に移り、王宮親衛隊第一中隊と『敵』が斬り合う音がすぐ下から響いてくる。居候部屋は三階で、『王族の間』は五階にある。夫婦そろって脱出しなければ、無事では済むまい。
「命令だ。マリアンヌとカムロは、偵察任務につけ。王族の安否、敵部隊の所属、敵兵数と装備の情報を優先入手せよ。十分以内に戻れ。敵に補足された場合は、降伏しろ。抵抗するな」
伝令係に二人ほど残し、部屋からカムロが出ていく。
「アリーヌとキャトウは、侍女服を脱げ」
なにが起きているのかまだ理解できていないアリーヌが、怒りだした。
「なんですか。服を脱げだなんて、いやらしい! 嫌ですっ!」
「バカだな。王家侍女服を着ていたら、捕まって拷問されるぞ。王女をどこに逃がしたんだってな」
聞いた瞬間、アリーヌとキャトウは飛び上がった。大あわてで王家侍女服を脱ぎ捨て、服入れにとりついて一般侍女服に着替え始めた。
「おー、おー。王家侍女服は、見つからないように隠しとけよ~」
カムロたちが戻ってきた。報告を聞く。
敵は、騎兵装備の兵を主力とし貴族の私兵を加えた混成部隊。数は確認できただけで百人以上。王宮内の大階段に主力を置き、五階の『王族の間』に向かって突進している。親衛隊第一中隊が抵抗しているが、突破されるのは時間の問題だ⋯⋯。
「ここに来やがるのも、すぐだな。よし、ズラかるぞ!」
ずいとジュスティーヌが目の前に立った。怒っている。
「逃げるですって? どうして反撃しないのです? お父さまを救出するのです」
「オレが斬り出ても、死体がひとつ増えるだけだろ。今は脱出して親衛隊に合流し、部隊を編成して反撃する」
霧が晴れたように、ジュスティーヌが笑顔になった。この女も相当に腹が据わっている。
「アリーヌ、そこのロープを持ってこい」
「あ、あの汚らしいヒモですか?」
いつか王宮から逃げ出す羽目になるのではないかと予想し、持ち込んでおいたのだ。
「早く持ってこい。暗い内に脱出しないと、見つかって捕まるぞ」
ロープをベッドの脚に結わえて下に放る。王宮だけあって天井が高い。居候部屋は三階だが下までは十六メートルほどある。現代日本のビルならば、五階建てマンションの屋上くらいの高さになる。下は堀で水が張ってある。もう十二月末だから、さぞ冷たいだろう。
「ジュスティーヌとオレの脱出が最優先だ。⋯すぐに戻ってくる。カムロは王宮内に散って偵察任務を行え。反撃部隊が突入したら先導しろ。マリアンヌとキャトウは、オレたちが降りた後に続き、ジュスティーヌを護衛すること」
アリーヌが、オロオロし始めた。
「あ、あの、わたくしは? その?」
「あぁ、アリーヌがここから降りるのは、無理だなぁ。オレたちが出てったら、一般侍女にまぎれて隠れてろ。可能なら逃げてきた侍女たちから王族の安否や居所を探れ」
三階は、客間や侍女部屋だと分かっているらしい。三階まで達した敵は、三階に広がらず斬り合いながら上階に登っていく。
「すぐに敵が来るぞ。服を脱げ。着衣では泳げない。油紙を出せ。着替えを包む」
ジュスティーヌが、思い切りよく素っ裸になった。子供のころから風呂の手伝いをさせたりで、他人に裸を見せるのにあまり抵抗がない。周囲にいるのは、同性の侍女と夫だし。
「パンツはけよ。尻にドジョウでも入ったらどうする?」
「まあ、それは嫌ですわね」
パンツ一丁の王女⋯。侍女といっしょに油紙に女物の着替えを入れる。
「オレの服は、シャツとズボンでいい。剣はいらない。五分で親衛隊宿舎だ。⋯⋯おっと、王家のティアラを持ってけ」
度胸のいいジュスティーヌだが、さすがに不安げだ。
「わたくし、本当に降りられるかしら⋯⋯?」
深夜でたすかった。景色が見えたら、とてもロープで降りることなど無理だったろう。
「降りたほうがいいぞ。敵の手に落ちたら、殺されるかもしれない。王族でマルクス少将の妻だからな。ロープが滑らないように手袋を重ねてつけろ」
近くで凄まじい斬り合いの音がする。このぶんでは、いずれ第一中隊は全滅だろう。
「オレたちがいなくなったら、アリーヌはここを出て泣き真似でもしながら侍女部屋に逃げ込み、情報収集しろ」
「本当に泣きますわよ。もう⋯⋯」
明るくなったら、もう逃げられない。グズグズしている暇はない。まずレオンが、裸に風呂敷をかついだ泥棒スタイルで窓から出た。
「ロープがゆるんだら、下に着いたってことだ。次はジュスティーヌを降ろせ。全員降りたらアリーヌは、ロープを切って落とせ。逃げ道の痕跡を残すな。じゃあな!」
王宮の壁は意外にでこぼこがあり、降りるのにそう苦労はしなかった。ただ、十二月深夜の堀の水は冷たい。三十分も浸かっていたら凍死しそうな感じだ。幸い十分足らずでパンツ一丁のジュスティーヌが降りてきて堀の中に入った。
「一度ロープで王宮から降りてみたかったのです。⋯⋯水が冷たいですわね」
やけにのんきだ。生まれた時から物に動じない訓練をさせられてきたのだろう。
「堀の水を飲んだら腹をこわすぞ。早く出よう」
いくつか死体が浮いている十五メートルの掘りを泳いで渡り、石垣を登ってなんとか地面にはい上がった。王宮外にも敵がいるかもしれない。そのまま裸足で五十メートルほど走り、王宮からは見えない物陰に隠れた。
これから王族の象徴になってもらうジュスティーヌの身体をふいて服を着せ髪を整えた。レオンにはこれ以上は無理だが、マリアンヌとキャトウが合流したら、見栄えをどうにかしてくれるだろう。
王宮親衛隊宿舎まで五分もかからない。治安部隊なので、現代の日本で第一機動隊の隊舎が皇居の隣に駐屯しているのと同じだ。
親衛隊の連中は、なにも気づかず寝ていた。宿直がなにか仕事をしている。扉をぶっ叩いた。
「レオン・マルクス少将だ。緊急召集。第二、第三、第四中隊は、完全武装で前広場に集合。戦闘が王宮内で行われている。音をたてるな」
宿直は驚愕して固まっていたが、すぐに我に返り、親衛隊宿舎の中に飛んでいった。王宮親衛隊との伝令のカムロがきた。
「女性騎士を呼べ。ジュスティーヌ王女殿下を守護する。⋯⋯あと体をふくものと服をくれや」
ジュスティーヌを暖かい宿直部屋に押し込む。もうひとりのカムロに命じる。
「カムロ宿舎に行き、戦闘・偵察・伝令任務が可能な者を、全てここに集合させよ」
緊急召集は、十分以内の集合が義務づけられている。
十分後に前広場に集まった親衛隊員は、三百人もいない。王宮親衛隊の中隊の定員が百五十名で、合計四個中隊で六百名。王宮警護任務についていた第一中隊は、全滅しただろうから。残るは、三個中隊四百五十名。非番なので、実家に帰ったり遊びに行ったりと出かけてしまい、二百七十名しか残っていない。最初に駆けてきたカムロに、親衛隊騎馬隊を全員徒歩で連れてくるように命じる。騎馬隊は五十名。馬の世話があるから四十名くらいは残ってるだろう。少しでも兵力がほしい。
女性親衛隊騎士より先に、半裸でびしょ濡れのマリアンヌとキャトウが裸足で駆けてきた。タヌキ顔の巨乳美人と、シャム猫美人があられもない姿で飛び込んできて真っ青になっている。この二人がジュスティーヌ王女付きの侍女だということは、皆知っている。集合した王宮親衛隊員たちは、なにか大変な事態が起きていることを悟った。
「ジュスティーヌ王女殿下は、この部屋だ。すぐに女性親衛隊騎士がくる。⋯⋯ジュスティーヌを暖めて王女らしく戻してくれ。必要な物は、なんでも徴発してかまわない」
現在、四時少し前。日の出は六時過ぎだ。ほとんど時間がない。まず親衛隊の指揮権を掌握しなければ。訓練場に出てきた三百名ほどの親衛隊騎士に告げる。
「まず、口をきくな。静かにしろ。⋯⋯一時間ほど前に正体不明の敵部隊が王宮を襲撃し、現在第一中隊と交戦中である。国王陛下をはじめ王族方の所在は、ここにおられるジュスティーヌ第三王女殿下以外は不明だ」
身なりを整え、持ち出してきた王家のティアラを身に着けたジュスティーヌが前に出る。まだ髪が濡れている。
「フランセワ王家王権継承順位六位、ジュスティーヌ・ド・フランセワが、王宮親衛隊にアンリ二世国王陛下の救出を命じます。所在不明の王宮親衛隊総隊長の代行としてレオン・マルクスを任命し、指揮を委ねます」
専制君主国家で、国王から継承順位五位までの王族が生死所在が不明なのだから、継承順位六位のジュスティーヌ第三王女が王権を執行する。
レオンが引き取った。
「現時点より作戦行動を開始する。戦場は王宮内である。時間を十分間やる。必要な者は、屋内戦闘用装備に換装せよ」
半分以上の者が親衛隊宿舎に飛び込んだ。装備を整えている。そこに女性親衛隊隊長のローゼット・ド・クラフト子爵夫人が、駆けてきた。一緒にルーマに行って、安居酒屋で斬り合い寸前のケンカをした仲だ。知らなかったが階級は、大尉だった。かなり偉い。
「いったい、なにが⋯⋯」
「王宮で戦闘だ。国王の所在は不明。オレが反撃の指揮をとる。女性親衛隊騎士は、すぐに何人あつまる?」
「じゅ⋯⋯十五人⋯です」
少ない。子持ちもいるから、非番の日は実家に帰っているか。
「現在は作戦行動中だ。戦闘もある。そのつもりでいろ」
レオンの普段のくだけた様子との落差に、ローゼット女性騎士隊長は驚いた。
「女性騎士部隊の任務は、ジュスティーヌ第三王女殿下を厳護することだ。突入部隊が敗北した場合は、騎馬をもって王女殿下を軍総司令部にお連れしろ。これは最重要任務だ」
ローゼットは、レオンがクーデターを起こしたのではないかと疑った。たしかにやりかねない。だが、ジュスティーヌ王女殿下が保護されている宿直部屋に入り、顔見知りのマリアンヌとキャトウに事情を聞いて驚愕し、すぐに怒りにふるえた。王宮内に正体不明の軍勢が突入し、戦闘状態とは⋯⋯。王女殿下がご無事なのは、たしかにレオンの功績だ。
第二・第三中隊長は、不在だった。いたら指揮権がどうだとかゴチャゴチャうるさかっただろう。かえってたすかった。
通常は親衛隊第一中隊長が、親衛隊総隊長を兼務する。その第一中隊が警備する日を狙って、王宮に突入してきた。指揮系統を麻痺させるつもりか。王宮内部に、手引きしてるやつがいる⋯⋯。
騎馬隊員が、三十人ほど非武装で駆けてきた。
「ようやくきたな。実戦だ。武装は親衛隊宿舎の武器を自由に装備しろ。第四中隊長ジルベール中佐。重要な仕事をしてもらう。オレの側にいろ」
「フフ⋯⋯。いよいよですな」
女性親衛隊騎士、騎馬隊員らが集まり、兵力は三百名をなんとか超えた。伝令を散らせる前に簡潔に状況説明だ。あと一時間で、空が白み始める。
「一時間半ほど前、正体不明の部隊が王宮内に突入し、警護の第一中隊と戦闘になった。偵察の結果、敵は領主軍の騎馬兵と貴族私兵騎士の混成軍と思われる。繋がれている馬の数から逆算し、敵兵数は五百から六百名と予想される。敵は第一中隊を制圧し、五階『王族の間』に突入した」
「ウウゥ⋯⋯。ククッ」
喋るなといわれていても、さすがに親衛隊騎士たちからうなり声が漏れた。
「王宮を脱出されたジュスティーヌ王女殿下以外の、国王陛下をはじめとする王族の安否は不明である」
王家のティアラを身につけた簡素な白服のジュスティーヌ王女が、再び姿を現した。こんな時でも美しい。嬉し泣きする者、悔し泣きする者、復讐を誓う者、怒りで体をふるわせる者⋯⋯。三百 対 六百。数で劣っているのだから、せめて志気を上げねば。
「我々は、これより王宮内に突入する。賊徒の手に落ちた王族方を解放し、よってフランセワ王国を守護するのだ」
そう言っているレオン以外の全員が深くうなづいた。本当はレオンは、王族の命なんてどうでもいい。
「跳ね橋を上げられ、掘りを通れない状況である。第四中隊第二小隊、泳げる者は、なん人いるか?」
「はっ、ここにいる十四人全員が泳げます」
「おまえたちは泳いで堀を渡り、物資搬入用の通用口から王宮内に侵入。跳ね橋を下ろせ。通用口は複数ある。部隊を分けるなど作戦の細部は、小隊長にまかせる。必要な人員・資材は自由に使ってよし」
戦国期だったら考えられないが、正面入口以外に通用口があって細い橋を架けて野菜を運び込んだりしている。そこから王宮内に入り込んで正面の橋を下ろそうという算段だ。お貴族様の親衛隊騎士は、通用口の辺りは詳しくないので、王宮の構造を知悉させたカムロをつけることにした。
「跳ね橋が下りると同時に、第四中隊は王宮門に進出し跳ね橋を確保・死守する。続いて第二・第三中隊が王宮内に突入。奇襲をもって各階を占拠している敵兵をせん滅せよ。敵兵掃討の機を見て第四中隊は全隊を挙げて王宮内に突入。一気に『王族の間』まで突進し、拘束されている王族方を奪還する。『王族の間』まで、ジュスティーヌ王女殿下は第四中隊とご一緒される」
戦場に王女を連れて行く? 生き残っているフランセワ王家の直系は、ジュスティーヌ殿下だけかもしれないのに? ローゼット女性騎士隊長が思わず立ち上がった。しかし、なにも言えない。なによりジュスティーヌ王女が、王宮に突入する気満々だ。凛とした王女の声で声でアジる。
「フランセワ王国と王家の命運を、あなた方にゆだねます。王族の義務として、わたくしも親衛隊部隊と共に王宮に入りましょう。父祖が築いた王宮と王都を叛軍の手から取り戻すのです。そのためには、どうして命を惜しむことがありましょうか。王宮を奪った者どもは、フランセワ王国をも奪い、民を虐げ、この美しいフランセワを滅ぼすでしょう。わたくしは、忠勇なる王宮親衛隊の騎士と、我が夫・レオンを信じております。わたくし、ジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクスは、最後まであなた方と共にあります」
レオンは、「フランセワ王国が滅びるとかいったって、国なんて組織のデカいやつで階級支配の搾取装置にすぎない。滅んだとしても次の王朝に交代するだけだ」と考えている。だから「国のために死ぬなんて愚の骨頂だ」なのだ。そんなやつが、国や王家のためと称して二倍の敵と戦って死のうという三百名もの騎士たちの指揮をとることになった。ひどい皮肉だ。
ジュスティーヌ王女の演説で戦意が倍増した王宮侵入部隊は、黒服に着替えて堀の脇まで先発した。十四人の部隊は、板切れを持ってきてピート板のように使って堀に入る。石垣をよじ登り八名が入り込んでいった。同時に別の通用口から六名が入る。二手に分かれて陽動の効果を狙った。
作戦をざっくり述べるとこうだ。
跳ね橋が下りると同時に、三十名ほどの第四中隊部隊が入口を確保し死守。すぐに続いて第二・第三中隊の百八十名が突入する。数時間前に反乱軍がしたことをやり返す。奇襲である。かなりの損害を与えるはずだ。敵の抵抗が弱まったら、第四中隊が『王族の間』に向かって突進する。最後にジュスティーヌ王女を守護する女性部隊と第四中隊の一部が、堂々と橋を渡って王宮に入城し。反乱の失敗と、王宮の奪還をアピールする。
⋯⋯⋯⋯このレオンの作戦は、はっきり言って無茶苦茶だ。どの国の士官学校のテストでも、0点だろう。
そもそも専制君主国家で最も大切なのは国王を筆頭とする王族なのだから、橋が下りたら一気に全部隊を王宮に突入させ、『王族の間』まで突進させるべきなのだ。
第二・第三中隊のみが突入し第四中隊を加えないという、兵力の逐次投入がまずい。数が多い敵に個別にすり潰されて損害が増えるばかりだ。奇襲の衝撃から立ち直った敵が、反撃してきた場合はどうなる? 敵の数を減らしたうえで中枢部に精鋭部隊を突入させるという作戦が崩壊する。消耗戦になると数に劣る突入部隊が不利だ。レオンの作戦では、第二・第三中隊が下階で斬り合っている間に、国王・王族が殺される可能性すらある。
もちろんレオンは、そのくらいのことは考えている。そのうえでこの作戦をとった。いくらレオンでも、義父であり散々世話になった国王が死んでくれた方が都合がよいとは、考えていない。しかし、もう国王は殺されていると確信していた。レオン程度の準王族に対してですら襲撃をかけたルイワール公爵家は断罪された。武装して深夜に王宮に打ち入るなどしたら、一族郎党の命は、まず助からない。敵も必死だ。権力を奪うために、まっさきに国王と男性王族を始末するはずだ。
レオンが軍権を独裁的に握るには、優れた能力を示さねばならない。占拠された王宮に突入して勝ちましたでは、そのやり方が正しくても能力を示すことにならない。知謀の限りを尽くし半数にも満たない兵力で王宮を奪還。忠勇無比の英雄。そう見えるように戦場という舞台で演じるつもりだ。どうせ王様は殺されている。次の国王に、受けがよいだろう。
それにいずれは直系の部下たちで、軍司令部を固めるつもりだ。そのために第四中隊を、文字通り手塩にかけて育ててきた。くだらないクーデター騒ぎなどで、一人たりとも失いたくない。『名誉の戦死』を遂げるのは、最初に突入する第二・第三中隊にまかせる。そもそもレオンは、こんなクーデターが成功するはずがないと、最初から見切っている。
レオンに忠誠な民衆派で固められているとはいえ、第四中隊の血気盛んな騎士たちが、安全な役まわりでは納得しない。そこで、跳ね橋を落とす特殊任務を第四中隊にやらせたり、最後に突入して王族を守護するだとか、ジュスティーヌ王女殿下をお護りするだとか、美辞麗句を並べ立て、ジュスティーヌの王女演説の力まで借り、その場の雰囲気で納得させた。
兵数不足は、それほど心配していなかった。王宮親衛隊中隊第一中隊は全滅したようだが、残った三個中隊で合計四百五十名だ。そのうち百八十名は、実家か女の部屋かどこかで寝ている。突入部隊は女性騎士団も加えて三百名程度だ。だが、第四中隊は強い。それに騎兵と伝令カムロが起こしにまわっているので、二時間もしないうちに百五十名程度の二次部隊を編制できるだろう。
それより問題は、跳ね橋が下りなかった場合だ。この人数で城攻めなど、できない相談だ。その時は軍総司令部まで撤退。ジュスティーヌの王族権力と王宮親衛隊の武力で、日和見で動かない軍部首脳部を威圧し、軍権を奪取。国境警備の軍団を呼び寄せて王都に突入させ、王宮を取り囲んで総攻撃する。火矢の雨を降らせて、城ごと敵を丸焼けにしちまうのが手っ取り早い。⋯⋯こっちの方が面白そうだ。
しかし、十分ほどで橋が下りた。
近くまで接近し、敵に発見されないように伏せていた第四中隊の騎士たちが、一斉に橋を渡って城門を確保する。
レオンが剣を抜き、剣先で城門を指した。
「よーし、王宮を取り返すっ。突撃!」
見つからないよう、橋から百メートルほど離れて待機していた第二・第三中隊の百八十名が、伝令カムロを引き連れて橋に殺到した。奇襲は成功だ。しばらく一方的に斬り立てられる叫び声が続き、やがて斬り合いの音に変わった。ここに第四中隊も加わっていれば、それで勝負がついただろう。
反乱軍は、激戦の末に王宮親衛隊第一中隊を制圧した。さらに王宮の隅々を点検し終えて、休憩に入ったところだった。反乱軍部隊の大半が一階に集まり床に寝ころんだのと同時に、第二・第三中隊が突っ込んできた。
意外にも、第二・第三中隊も強かった。アッという間まに五十人くらい斬り倒した。まだ暗いが、勝手知ったる王宮だ。叛徒に神聖な王宮を汚されて怒り狂ってもいた。休んでいたり城内の占拠に散らばっていた反乱軍は、容赦なく斬り伏せられた。
奇襲で反乱軍部隊が崩れて潰走したら、それで終わりだ。だが、そうはいかなかった。王宮という閉所での戦闘なので、逃げることもできない。反乱軍の騎兵は練度が高く、上階に散らばっていた兵士を集め部隊を再編成して反撃してきた。暗い王宮内は、剣戟で火花が飛び散る凄まじい斬り合いとなった。
緊急事態の戦闘で反乱軍の見張りがいなくなり、監禁部屋から侍女やメイドの女の子たちが出てきた。中には勇気があるメイドがいた。上階から敵兵に壷やら熱湯やらを投げ落として抵抗する。箒で剣とたたかい、とうとう斬られて重傷を負った勇猛な侍女もいた。回復すると国王手ずから勲章を授けられた。熱湯メイドも勲章を貰い、尚武の家系とかいう子爵と結婚した。義父母に、たいそう可愛がられたそうだ。
一般侍女に変装したアリーヌは、半ベソをかきながら侍女・女官・メイドたちが監禁されている大部屋の中を巡り、王族の消息を尋ねてまわっていた。王家担当だが、たまたま一般侍女服を着ていたため押し込まれていた同僚を見つけた。床にぐったりと倒れ込んでいる。
「フレアさんじゃない! 大丈夫? 無事だった?」
「アリーヌさん。はあっ、はあっ、はあっ⋯⋯たったた大変です⋯⋯。国王陛下が⋯⋯」
長身のアリーヌの声は、よく通る。ゾッとして総毛立ち、思わず立ち上がって、大声で叫んでしまった。
「たっ、大変だわ! 国王陛下が、殺された!」
王宮侍女のリーダー格で貴族令嬢のアリーヌは、いい加減なことは絶対に言わない。一瞬静まり返った女たちが、声を上げてワッと泣き出した。
「本当ですかっ! アリーヌさん」
「なんで? 陛下! 女神様!」
「いやぁ! いやぁぁ!」
双方が斬り合っている二階大階段にも、この声は響いた。知り合いなら、王家侍女のアリーヌの声と分かっただろう。さらに斬り合いが激しくなる。反乱軍は負ければ死。親衛隊は憎悪の塊。
国王死亡の情報は、カムロによってすぐにレオンに伝えられた。機械を破壊したので跳ね橋は、もう上がらない。いつでも突入できるように、橋のたもとまで進出した。
明るくなってきた。街が動き出している。騎馬兵や伝令カムロが街を駆け回っているのだから、なにかとんでもないことが起きていることは、誰にでもわかる。数万人の野次馬が、王宮を取り囲んだ。王宮の窓から堀に転落する者がけっこういて、血の混じった水しぶきを派手にあげる。そのたびに野次馬がどよめいた。
一時間もすると、非番で実家に帰っていた親衛隊騎士が百五十名ほども集まってきた。なかには、くやし泣きに泣いている者もいる。
隣に立っているジルベールが、つぶやいた。
「そろそろ見せ場ですなぁ」
戦力は、駆けつけてきた第二・第三中隊の混成部隊が百名。温存していた第四中隊の百四十名。騎兵隊が三十名。親衛隊女性部隊二十名。あとは、ジュスティーヌ王女殿下か。ジュスティーヌがいれば、これからも部隊は集まる。
「騎兵隊は、ジュスティーヌを逃がす際に必要だ。勝ちが決まるまで投入できねぇな」
ジルベールが、大仰に驚いてみせる。
「へぇ? いざとなったら、逃げるつもりなんですか?」
「戦場は流動的で、不確定な要素に満ちている。五分後に後ろから敵の援軍が現れても驚かない」
「うーん。陽動を使いましょうや」
第二・第三中隊の混成部隊に、演説をぶつ。
「おまえたちは肝心な時に後れをとった。だがっ、今なら取り戻せる。混成部隊には、これより王宮内に突入し、戦闘中の第二・第三中隊に代わり主戦力となり反乱軍を撃破する栄誉を与える! 一分後に突撃!」
遅刻組は、戦いたくてたまらなかったらしい。すごい勢いで突進していく。第四中隊の騎士たちも戦闘をしたいのは同様で、レオンをチラチラと伺っている。彼らが勝手に王宮に突入しないのは、軍紀違反でその場でレオンに斬り捨てられるのが分かっているからだ。
ジルベールは、突っ込んでいく混成部隊に冷ややかだ。
「二倍の敵が守りを固めてる大階段を突破できるとは、思えませんね」
レオンが応える。
「そこでジルベールの出番だ。第四中隊の百四十名をいくつかに分け、裏の小階段やハシゴを活用して背後から敵を突破、というよりも浸透か。⋯⋯やり方は任せる。できるだけ戦闘を避けて五階の『王族の間』に到達しろ。五階を制圧後に大階段上階に進出。混成部隊と共動し、敵残存部隊を上下から包囲せん滅すること」
残った全部隊の指揮をまかせられてジルベールは、かなり驚いた。驚くと言葉が崩れる。
「センパイは、どうするんすか?」
「オレが王宮内に入る頃には、敵部隊は崩壊している。女騎士団とカムロを連れて、ジュスティーヌ王女殿下を王宮内にご案内する。馬を借りるぜ」
ジルベールが、第四中隊の騎士たちに作戦の説明している。細かいやり方は現場の連中にまかせれば大丈夫だ。とはいえ親衛隊騎士は、普段は裏階段など使わない。交代で王宮の下働きをさせていた作業場や裏口に詳しいカムロを数人つけた。
出撃直前にジルベールに伝えておいた。
「国王は死んだ。損害を省みずに『王族の間』に強行突入する必要はない」
「げえっ!」となって、しばらくジルベールの動きが止まった。反乱軍が、そこまでやるとは思ってなかったらしい。
「マジっすか? 間違いなく? ⋯⋯もしかして王家で生き残っているのは⋯⋯」
チラッとジュスティーヌの方に視線を送った。
「アリーヌからの情報だ。目撃した王家担当侍女と接触した。しっかりした女だから、間違いなかろう。だが、騎士たちに口外するな。抑えが効かなくなる」
数分後、ジルベール率いる第四中隊が、王宮内に侵入した。激戦の大階段を避け、二手に分かれて裏手に回る。小階段や梯子にとりつき音を立てずに登っていく。大階段の二階あたりで戦闘がつづいていた。だが、加勢するより、王族救命と敵の背後を突くことが優先だ。無視して上がってゆく⋯⋯。
レオンが剣を抜き放ち、部隊の先頭に立って突っ込んで行きそうなものだ。ところが、出世が止まった機会にカムロを中心に様々な組織づくりに励み。第四中隊を鍛え。レオンの考えは変わった。「今までは、自分の手で敵を殺してきた。今後は、部下に命じて敵を殺させる段階だ。これからは、違う方法でオレは手を汚す」。
斬り合いの音で概ね戦況がつかめる。急に斬り合う音が激しくなった。やはり第四中隊は強い。頻繁に人が死ぬ際にあげる悲鳴が聞こえる。「王族の間は解放したな。後ろから大階段の敵を包囲・せん滅している段階か」。
斬り込み隊長の『傷のジルベール』は、侯爵家の妾の子だった。本妻に子がいたので、下町近くで母親と暮らしていた。愚連隊のクズになっていてもおかしくない身の上だが、そんな愚かなことはしなかった。将来は弁護士の試験に合格し、下町の貧乏人の味方になって働きたいと漠然と考えていた。ところが本妻の子が急死したため、なりたくもないのにフォングラ侯爵家を継ぐことになった。
民衆寄りのフランセワ王家以外は、高慢で見栄ばかり気にする貴族なんぞ心底軽蔑しきっていた。王宮親衛隊に入ったのは、虚飾の社交界がいやだったからだ。騎馬隊に入ったのも、貴族連中と一緒にいるよりも馬と一緒の方がずっと気分がよいからだ。
なにかと便利な名家の出身で、おそろしく優秀で、下町育ちの徹底した平民派。レオンの目に止まらないはずがない。しかも、この二人は妙にウマが合った。「ここらでひとつ手柄を立てさせてやろう」。レオンは、自分ひとりがエベレストになっても、いずれ壁にぶつかると考えていた。
このクーデター事件で、ジルベールに限らず第四中隊の若手貴族たちは、大出世するはずだ。クーデターに荷担し処断される保守派貴族どもの穴を埋めるためだ。
斬り込み隊長の『傷のジルベール』は、侯爵家の妾の子だった。本妻に子がいたので、下町近くで母親と暮らしていた。愚連隊のクズになっていてもおかしくない身の上だが、そんな愚かなことはしなかった。将来は弁護士の試験に合格し、下町の貧乏人の味方になって働きたいと漠然と考えていた。ところが本妻の子が急死したため、なりたくもないのにフォングラ侯爵家を継ぐことになった。
民衆寄りのフランセワ王家以外は、高慢で見栄ばかり気にする貴族なんぞ心底軽蔑しきっていた。王宮親衛隊に入ったのは、虚飾の社交界がいやだったからだ。騎馬隊に入ったのも、貴族連中と一緒にいるよりも馬と一緒の方がずっと気分がよいからだ。
なにかと便利な名家の出身で、おそろしく優秀で、下町育ちの徹底した平民派。レオンの目に止まらないはずがない。しかも、この二人は妙にウマが合った。「ここらでひとつ手柄を立てさせてやろう」。レオンは、自分ひとりがエベレストになっても、いずれ壁にぶつかると考えていた。
このクーデター事件で、ジルベールに限らず第四中隊の若手貴族たちは、大出世するはずだ。クーデターに荷担し処断される保守派貴族どもの穴を埋めるためだ。
斬り合いの音が消えた。勝負がついたな。さて。橋を渡って王宮を取り巻いている野次馬どもを楽しませてやろう。まずは華やかな女性騎士団だ。
「ローゼット・クラフト大尉。現在、女性騎士は何名いるか?」
「は、はい。二十五名です」
そう異様なものを見る目をすんな。せっかく厳格な指揮官を演じてるんだから。
「全員、軍装を整えよ。ジュスティーヌ王女殿下をお護りして、これより王宮に入城する」
しかし、敵の敗残兵に襲われたら、女軍だけではちょっと心もとない。最後の予備兵力を出そう。
「親衛隊騎馬隊は、全員下馬。十分以内に兵装を屋内戦用に換えよ。入城されるジュスティーヌ王女殿下を護る」
親衛隊騎士を起こすために王都を駆け回りヘトヘトなのに悪いのだが、最後にひと働きをしてもらう。ついでに見栄えのよい白馬と赤馬を引いてこさせた。
宿舎から持ち出してきた親衛隊総隊長の赤いマントを着用した。本物は、もう死んでるだろうから、かまわないだろう。最初から着けなかったのは、「隊長だよ。狙ってくれ」と目印にしているようなものだからだ。連合赤軍浅間山荘事件では、ヘルメットに白テープを巻いた指揮官表示を狙われ警視庁特車中隊長と警視庁第二機動隊隊長が射殺されている。
仮にジュスティーヌが殺されたら、フランセワ王朝は絶えるかもしれない。いずれ王政は滅びるにしても、今ではない。まずは三十名の騎馬騎士を王宮内に入れ、敵がひそんでいないか索敵し先導させる。
しとやかな外見に似合わず活発なジュスティーヌは、かなり乗馬をやる。簡素なドレス姿のまま躊躇せず、ひらりと白馬にまたがった。王家のティアラが、キラキラ輝いている。聖女然とした白く美しいジュスティーヌは、スタイルは良いのに遠目からは少女にも見えた。
ジュスティーヌは、もともと心優しい人間だ。しかし、生まれながらの王女でもある。王女として育てられてきたジュスティーヌは、王家と国を完全に同一視していた。「王家に仇なす者は、国を害し民を苦しめる者」。そんなジュスティーヌにとって、危急の際に騎士が王族唯一の生き残りかもしれない自分のために戦い死ぬのは、当然事だった。たしかにそのための王宮親衛隊だ。
さらにレオンの影響の結果、ジュスティーヌはこんなことを考えた。「騎士の皆さんに戦さに熱中していただくには、もっともっと火をつけて煽り立てなければなりません。そのためにわたくしは、ア、アジ演説?をしなくては」。
夫のレオンが、寝物語で過激派独特のアジ演説の芸をして、それがあんまりおかしいので、ベッドにもぐりこみ体をよじらせて笑ったことを思い出した。本来なら王女のジュスティーヌは、たとえ相手が夫でも人前でバカ笑いしたりしない。大声も出してはならないのだが、今日は特別だ。騎士と民衆を、思いきりアジった。美しいソプラノで、よく通る声だ。
「今こそ、父祖より受け継いできた尊い王宮を、叛軍から取り戻す時です。光輝あるフランセワ王国騎士団の、勇気と忠誠に期待します。あなた方の流す聖なる血は、永遠に讃えられるでしょう。女神よ! どうか我らに、悪を祓う力を!」
普通なら、王女さまのお声なんて聞けるもんではない。野次馬どもが、どよめいた。
オォォォ────────────ッ!
ジュスティーヌ王女の周りを、女性騎士団が、素早く囲む。ローゼット大尉が駆けてきた。
「準備完了しました。しかし、王女殿下に王宮内にお入りいただくのは、危険ではないかと⋯⋯」
「王族に隠れていろというのか? 危険と思うなら敵をあぶり出して倒せ。必要とあらば、死んで殿下をお護りしろ!」
「うっ!」となったローゼット大尉は、そのまま黙って女性騎士団を指揮する位置に戻った。生き残っている直系の王族は、ジュスティーヌだけかもしれない。それに最初に王宮に入れば、絶大な権威を手にすることができる。
レオンは、深紅のマントをひるがえして赤馬にまたがり、先頭に立った。しかし、もう戦闘は終結している。手を血で汚す必要はないだろう。
「火のように赤い馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた」(ヨハネ黙示録 第6章)
前前前世の記憶を思い出し、格好をつけて赤っぽい馬を選んだ。剣を閃かせて前を指す。よぉーし。さあ、血の海の中に入るぞぉ!
「聞けっ! 王宮と王都は、フランセワ王家の手に取り戻された。ジュスティーヌ・ド・フランセワ=マルクス王女殿下が、王宮に帰還される。全員抜刀! 前進せよ!」
女性騎士団も一斉に剣を抜き、掲げる。美人を集めた半ば儀典兵だから、こういうことは上手だ。野次馬どもは、もう、拍手喝采だ。民衆の大歓声に包まれて、白馬の王女がゆっくりと王宮に繋がる二十メートルほどの橋を渡り、正面から堂々と城内に入った。本来の主人が、強盗から取り返した自宅に戻ったと全国にアピールしたつもりだ。
ロープで下り冷たい掘に逃げ込んでから戻るまで、けっこうな苦労をさせられたものだ。だが半日で勝負はついた。
ここから先の王宮内では、暴力ではない戦いになるだろう。
王都の民だったら、だれだって白馬の美人姫を応援する。期待されていたので、絵になる光景をつくってやった。野次馬の中に有名な画家が混じっていて、この様子を大作の絵に描いた。
赤マントのごっつい筋肉ムキムキ男が太刀を振りかざし、なぜか棒立ちになった赤馬をあやつり先頭に立っている。白金に輝く鎧甲の美女軍団がきらめく剣を掲げ、王女を囲んで守護している。中心は白馬に横座りした金髪碧眼の美少女姫だ。けなげにも決意の表情で、黒く開いた城門に向かい進んでゆく⋯⋯。
えらく誇張しているこの大作は、歴史に残った。数百年後のセレンティアでは、女子中学生が美術の教科書を見て
「えー? この赤マント、お姫様の旦那さんなのー?」
「つりあわなーい。カワイソー!」
⋯⋯などとバカ話をするのだった。
たった三十メートル程度を乗馬して行進したのは、演出だ。おかげで名画のネタになった。城内に入ったら狙ってくれと言わんばかりの赤マントをすぐに外して、カムロに預けた。常に数人が周りについていて、偵察や伝令の役に立ってくれる。
「王族の間にゆく。ジルベールをよべ」
カムロが走っていった。
ジュスティーヌの護衛部隊を連れて主戦場だった正面大階段に行くと、文字通り死体が山になっていて血の海だ。手が回らず死体を片づける者はいない。
王族の間を解放したジルベールが、十分もせずに駆けてきた。レオンは、まず一番肝心なことを尋ねた。
「王族は、どうなった?」
ジルベールは貴族を憎んでいるくらいだが、王族に対してはかなり思い入れがある。
「国王陛下、王太子殿下、第二王子殿下は、死亡。第三王子殿下は、⋯⋯まあ、まだ生きとります。第四王子殿下と第五王子殿下は、無傷で生存」
「第三王子か⋯⋯。四番目と五番目の王子は、生きてるんだな。女の王族は?」
レオンは、王族なんぞにリスペクトは、全くない。せいぜいが御輿といったところだ。
「ジュスティーヌ様以外の女性王族では、正妃陛下が倒れてしまいました。命に別状はないでしょう。第四、第五王女殿下もご無事です」
八人の王族兄弟姉妹のうち、男が二人死んだか⋯⋯。赤ドレスのジュリエット第四王女は、どうなるか⋯⋯。
正妃は、有力な外戚をつくることを嫌って、東の辺境の領主領から迎えられた女だ。あのジュスティーヌ王女の実母だがおとなしい性格で、政治に口を出したことはない。優秀な子供を何人か産んだことが取り柄のような穏やかな妃だった。夫と実子が、目の前で殺されたんだから、そりゃあ倒れるだろう。
「第四王女⋯⋯赤い薔薇のジュリエットか。無事ですむとは思えねえな。今回の手柄の褒美に、命乞いしておまえがもらってやったらどうだ? 王族になれるぞ」
階段を上りながら遠慮なく話してるので、この会話はジュスティーヌや護衛の女部隊員の耳にも入る。指揮をとっているローゼット大尉は、もう顔面蒼白だ。
「嫌っすよ、あんなの。王族の間に、閣僚や高位貴族どもが監禁されてたんで、そのまんま一緒にしています」
「おう、よくやった。絶対に一人も外に出すなよ。で、損害は?」
これも聞こえてしまったローゼットは、高位高官貴族たちを「外に出すな」とはどういう意味かと考え、激しく動揺した。それに損害を聞くのが怖かった。
「第一中隊は死亡百五十名、生存者無し。全滅です。親衛隊総隊長も死亡。第二中隊と第三中隊は死亡約五十名、重傷八十名。軽傷は残り全員。第四中隊は死亡一名、軽傷が八名。敵の損害は、約五百名が死亡。捕虜が約百名。今の王宮には、敵味方合わせて七百も死体が転がっとります」
「王立診療所など各所の病院に騎馬で伝令を送り、医者と看護士をよべ。至急だ。ああ、医者を馬に乗せて連れてこい。登城を拒否する野郎は拘束し、連行。それと、もう敵兵にトドメを刺さなくていいぞ。なにか情報を持ってるかもしれないからな」
話している内に、『王族の間』の前にきた。入口を屈強な親衛隊第四中隊騎士が警備している。貴族でも王族・高官ではないジルベールやローゼットは、平時なら入れないのだが、今はそんなことは言ってられない。
「さて、悪いな。赤マントをくれ。さて、ここからが本当の戦争だ」
赤マント再着用は、レオンの指揮でクーデターを鎮圧したことを、高官連中に見せつけるためだ。レオンを先頭に、部隊に護られたジュスティーヌ王女たちが『王族の間』に入室する。
「おぉ! ジュスティーヌ様、ご無事でしたか」
疲労困憊のありさまなのだが、何人か貴族が立ち上がって王女にあいさつをおくる。どうやって王族の間にもぐり込んだのだか、一般侍女服を着用したアリーヌが飛びついてきた。
「ああっ! 良かった! ジュスティーヌ様っ! うあああぁぁ!」
百畳くらいありそうな『王族の間』には、ソファーや椅子が持ち込まれ、反乱軍に監禁されていた王族や高位高官貴族らが、グッタリと座っていた。皆が一斉に軍装のレオンに注目する。
レオンが状況説明を始めた。
「王宮親衛隊総隊長は、戦死した。第二、第三中隊長の所在は不明。よって、反乱軍の王宮占拠時に王族序列最高位であったジュスティーヌ第三王女殿下の指名により、王宮親衛隊総隊長としてレオン・ド・マルクス少将に軍事指揮権が委ねられた。王宮親衛隊は敵部隊をせん滅。すでに敵の指揮系統は崩壊し、残敵掃討の段階に入っている。王宮から敵を一掃するのは、時間の問題だ」
やっと王宮親衛隊の指揮官が現れてくれた。事態を掌握しているのは、今はこの男だけだ。高官が何人か不平を並べ始めた。
「遅いではないか!」
「なにをしていた。レオン」
「国王陛下をお連れしろ」
「早くここから出せ」
「事態はどうなっておる?」
だが、すぐにレオンの後ろにジュスティーヌ王女がいることに気づいた。続いてレオンの手勢の四十名の騎士たちが、入室してきた。死体の山をくぐって殺気立ち、完全武装している。高官貴族どもは、気圧されて黙ってしまった。
ジュスティーヌが、二歳下の弟を見つけ駆けていく。腹違いだが二人は年が近いこともあって、子供のころからとても仲が良かった。
「あぁっ、シャルル! 無事だったのですねっ!」
「姉上っ! 良かった! レオン、礼を言うぞ」
第三王女と第四王子が抱き合う。感動のご対面だ。だがレオンは、仕事をせねばならない。
「一掃したとはいえ、残敵がひそんでいる可能性がある。まだ王宮内は戦場だ。この部屋を出た者の生命の保証はできない。戦時法の規定により、王宮内の命令権・指揮監督権・司法権は、王宮親衛隊総隊長に委任されている」
いつも口うるさい高位貴族どもを、ちょっと威嚇してやった。「オレのいうことを聞かないと、死ぬかもしれないよ」と婉曲に言ってやったのだ。連中が黙ったところで、状況説明を再開する。
「王宮内の敵は、ナッサウ公マウリッツ及びノアイユ公ローベルトを中心とした領主軍部隊だ。ブランジ伯爵家騎士団、パストール伯爵家騎士団、ユリーナ子爵家騎士団⋯⋯それにマクシム第三王子配下の騎士団が加わり、約六百名の混成部隊が深夜三時より王宮を攻撃した」
王宮内で千人もが戦闘だと? 大半の者が愕然とした。ずっと王族の間に監禁されていて、音は聞こえても斬り合いを見たわけではない。信じられない。
「マクシム第三王子殿下が? 王族だぞ。証拠はあるのかっ!」
「ナッサウ公とノアイユ公が謀反だと? バカな!」
レオンは、口ばかりで無能な貴族連中が大嫌いだ。腹の虫を抑えて答えてやる。
「装備と捕虜の証言、それに騎士の顔ぶれから、この二公を中核とした反乱であることは間違いないっ。⋯⋯マクシム第三王子からは、これから直接お話があるでしよう。ジルベール、お連れしろ」
保護という名目で監禁していたマクシム第三王子が、騎士たちに囲まれ連れてこられた。なかなかの大男の偉丈夫だ。この場にいる者で第三王子を連行し監禁する権力と度胸があるのは、レオン、ジュスティーヌ、あとはジルベールくらいだ
マクシム第三王子は、憎しみに満ちた目でレオンをにらんだ。こいつさえいなければ⋯⋯。
努めて事務的な口調で、レオンが語り始めた。
「本来、王族による犯罪は、王族会議で非公開で裁かれます。現在は非常事態のため、このような形になりました」
レオンは第三王子という立派な王族が、自分の主導で死んでいくさまを高位高官に見せつけてやるつもりなのだ。反感を買わないように、あえて事務的な口調でしゃべっている。
「評決権を有するのは、成人した王族のみです。シャルル第四王子殿下、ジュスティーヌ第三王女殿下、ジュリエット第四王女殿下のお三方です。私は準王族として、評決権は持ちませんが評議権を有します」
つまりレオンは「口は出すけど、責任はないよ」と言っている。腹黒いようだが、法的には完全に正しい。しかし、事実上レオンが訴訟指揮を執っているだから、ズルいといえばズルい。
「マクシム第三王子の公訴事実は、今ところ六点です。第一は、国王アンリ二世陛下弑逆」
国王が殺されたっ! 知らなかった者も多かったようだ。恐怖の叫び声が、広い王族の間を満たした。
「アドリアン王太子殿下殺害、フレデリック第二王子殿下殺害」
年長の王子が二人とも殺された! 貴族たちは総立ちになった。多くの者は監禁されていたため、これほどまでに王族に被害が広がっているとは、想像していなかったのだ。
「私兵団による武装反乱の指揮。王宮をはじめ政府施設に対する攻撃。多数の政府要人・貴族の殺害と拉致監禁」
レオンが、手に持った紙切れをヒラヒラさせた。
「これは、先ほど第三王子の書斎から発見されたものです。あらかじめブロイン帝国にクーデター計画を通報しておられる。一体なにをなさりたかったのですか?」
第三王子に訊くまでもなく、父王と兄二人を殺して国王になりたかったんだろう。そんなことに仮想敵国の許可を取ろうとするとは、愚かな。
「おまえだ! レオン! おまえに吹き込まれたアンリ二世は、領主貴族に対して、真綿で首を絞めるような政策を取り始めた。それは王国を滅ぼす⋯⋯」
「なるほど。そこで領主貴族と手を組んで、国王になろうとお考えになった?」
第三王子は、一瞬たじろいだ。だが、今さら引くわけにはいかないだろう。
「私が国王にならねば、いずれフランセワ王国は中央と領主との内戦になる。それを防ぐために私は決起したのだ⋯⋯」
一刻も早く中央集権国家を成立させねば、王家どころか国が滅亡する。封建体制の申し子である領主貴族と近代国家は、相容れない。そこまで見えていて、なぜ分からないのか?
シャルル第四王子が立ち上がった。怒り心頭の様子だ。
「もうよい! この男は、死刑だっ! よくも父上を⋯⋯」
ジュスティーヌ第三王女が、静かに立ち上がった。重要な政治に関わる場では、表情を殺し余計なことは一切言わない。
「死刑です」
もう一人残っている。赤い薔薇の王女だ。いつの間にかレオンが前に立っている。すでに三人の王族のうち二人が死刑を宣告している。意味がないように思えるが、実はそうでもない。王族の死刑という国を揺るがす重大事の責任の所在を明らかにする。
「わた、わたくしは、その、そのっ、いっ、意見はありません。気分が優れないので、下がらせていただきますわっ」
赤いドレスをひるがえして退出しようとする。
パシッ!
レオンが、ジュリエットの腕をつかみ、引き戻した。
「おおっと! 棄権される場合は、理由を明らかにしていただかないと違法です」
「ぶっ、無礼者っ! 身分をわきまえなさい! 誰かこの男をどこかにやってっ。お姉さまっ、あなたの夫でしょうっ!」
普段の余裕のある態度はどこへやら、真っ青だ。逆にレオンは、どこか愉快そうに見える。
「外は血の海で、千ばかりの死体と負傷者が転がっています。お出にならない方が、御身のためでしょうよ」
そのままジルベールに、放るようにして引き渡した。
「どうやらお疲れのようだ。見ていてさしあげろ。⋯⋯目を離すなよ」
ジルベールは、遠慮なくジュリエットを羽交い締めにした。高慢な貴族女は、ジルベールの最も嫌いなタイプだ。自分と同じで側室の子であるいうことも、ジュリエットに対する同族嫌悪感を増した。
「おっとっと、アンタはもう終わりだぜ」
もがいているジュリエットの耳元に、ジルベールは笑いながらコッソリとささやいた。その様子をレオンは、冷ややかにながめている。
「不思議なんですよ。国王陛下は、領主貴族の動向に常に注意を払っておられた。なのに地方の領主貴族と、ブランジ伯爵ら王都の不平貴族が、どうやって結びついて連絡を取り合えたのか? そのうえ第三王子と、どこで繋がったんでしょう? 私は、それができる方を一人だけ知ってます。パーティーがお好きでしたな。⋯⋯遊び半分で社交界をかき回しているつもりが、とんだ大事になったもんだ」
再びシャルル第四王子が立ち上がった。
「くっ! ジュリエットっ。おのれぇぇ⋯⋯。大逆罪、内乱罪、外患誘致罪。どれひとつでも国事犯として死刑だ!」
ジュスティーヌは、兄である第三王子と妹のジュリエット第四王女から目を背け、もう口を開かない。優しいジュスティーヌでも、王族として政治に関わる時には冷徹だ。
レオンが、第三王子の正面に立った。『王族の間』の空気が、さっと冷える。いくら第三王子が偉丈夫でも、レオンは剣の達人と知られている。一瞬で斬られて血の海に沈むだろう。
ところがレオンは、土壇場の第三王子に対してやけに丁寧な口をきき、慇懃だった。こんな様子のレオンの方が、むしろ危険なのだが。
「私には、評議権があります。準王族として、意見を述べさせてください」
問答無用の勢いで斬ってしまうかと思ったら、なにか説得を始めた。まさか助命する気なのか? ジュスティーヌ第三王女殿下が、ほとんどレオンの言いなりなのは、高位貴族なら誰でも知っている。ジュスティーヌ王女が反対に回ったら、賛成一、反対一、棄権一で、死刑は否決される。
「反乱を起こした第三王子が、父王と兄王子二人を弑した。そして今度は、妹の第三王女と弟の第四王子が兄王子を殺す。いかにも体面がよろしくありません。どうしても、骨肉相い食み、血を血で洗う王座争いに見えてしまう」
まだ十九歳のシャルル第四王子は、体をふるわせるほど怒り狂っている。
「それがっ、どうしたっ。国王殺しだぞ! 父を殺されたのだ! 私は⋯⋯」
怒りのあまり顔が青くなって絶句し、ガックリへたり込んでしまった。ジュスティーヌが駆け寄る。
「シャルル、落ち着いて下さい。倒れてしまいます」
やはりとても仲が良い。
かまわずレオンは続けた。
「殺し合いで血塗られた王座を恐れる者はあっても、愛し敬う者はおりません。そこで王室、ひいてはフランセワ王国と民衆のためにも、当事者であるマクシム第三王子に提案、いえ、お願いをさせていただきたいのです」
いまさら第三王子になにを? 全員が疑問に感じるなかでレオンが振り返り、ローゼット親衛隊女性騎士団長を呼んだ。
「ローゼット、守り剣は持っているな? 貸せ」
女性騎士は、敵に捕まった際に辱め⋯強姦されぬように、自決用の短刀を常に身に付けている。最近は形骸化して玩具のような短刀を持っている女騎士が多いのだが、子爵夫人で真面目なローゼットは、しっかりした女物の短刀を差し出した。
受け取ったレオンも、実用一点張りで飾り気のない短刀をどこからともなく取り出した。マリアンヌやキャトウに投げ剣を教わり、いつも持ち歩いているものだ。ルイワール公爵家騎士団からの襲撃事件では、こいつのおかげで命拾いをした。
レオンは、二振りの短刀を第三王子に差し出した。
「これで、どうぞ。最後はご自分で。⋯⋯拷問や斬胴刑は痛いですよ」
剣で貫かれる痛みは、女神と聖女だった時にめった刺しに切りきざまれたレオンが、一番よく知っている。
第三王子は、薄く笑いながらつぶやいた。
「おまえがいなければ、今ごろオレは王座についていたはずだ。最後の最後に、おまえに感謝しようとはな」
レオンこそ、礼を言いたかった。無意味な殺しで手を汚すのは嫌だったのだ。マクシム第三王子にだけ聞こえるように、小声でささやいた。
「この人が王であるのは、単に人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが逆に彼らは、この人が王だから自分たちは臣下だと思い込んでいるのだ」(マルクス『資本論』)
『国王』も『王国』もあったものではないレオンの本心だ。第三王子は、死を前にしていまさら驚かなかった。ただ「こんな男に勝てるはずもなかった」と感じた。
「ハーッハッハッハッハッ! レオンよ。おまえの本音か! 面白い男だっ。もっと親しくしておくべきだったなっ!」
優等生タイプの王族が多いなかで、第三王子は、豪放磊落型の肝の太い男で、レオンとはウマが合いそうだった。そう思っていたのだが、王家と対立する領主貴族の軍事力を利用して、その王族が自滅的なクーデターを起こすとは、レオンにも考えられなかった。
「私も残念です。親しくしていただけていれば、ここであなたが死ぬこともなかったでしょう」
王子の死に対して「薨去」と述べず、あえて「死ぬ」と言った。この発言でレオンは、マクシムが王族以前に罪人であると居並ぶ高位貴族に宣明したのだ。今のレオンは、そんなことができるだけの力を持っている。
マクシム第三王子は、しばらく短刀を見比べた。やがて「綺麗な方で⋯」とつぶやき、ローゼットの守り剣を取った。短刀を持ったまま、王子は黙って奥にある王族の私室に入っていった。
静まり返った王族の間で、レオンがジュスティーヌに小声でささやいた。
「あそこに抜け道や、逃げ場はあるのか? 逃亡のどさくさに死んでくれるのが、一番好都合なんだが」
この期におよんで冷徹なレオンに、ジュスティーヌは驚いた。
「えっ? そんなものはありませんわ」
レオンは、一段高い所に設置されている豪華な王座をみた。王の血を浴びている。「こんなもののために⋯⋯」。革命的マルクス主義者であるレオン・ド・マルクス=新東嶺風にとって、『王の権威』のたぐいを真に受けるなど、愚かしいだけだ。
「王という身分は、人と人との相互関係にもとづいている。王が王であるのは、ただ数百万の人々の利害や偏見がこの人物を通して屈折して反映しているからにすぎない」(トロツキー『国家社会主義とは何か』)
レオンの本心はこんなところだとはいえ、利用できる間は『王の権威』を一番尊重しているように振る舞うつもりだ。
「アリーヌ王宮一級侍女、マリアンヌ王宮一級侍女、キャトウ王宮一級侍女。王座を清掃しろ!」
ジュスティーヌ付きの三人の侍女が、無言で前にでた。近くに掃除道具などはない。アリーヌが侍女服の上着を脱ぎ、それで血の付いた王座を拭き始めた。マリアンヌとキャトウもそれにならい、王座の回りに散らばっている肉片や血痕を素手で清め始めた。カムロのだれかが加わろうとしたが、レオンが止めた。
「手伝うな。ジュスティーヌ王女の侍女が新王の座を清めることに、意味がある」
道具が無くても、さすが王宮侍女は手際がよい。十分足らずで王座の周りは、きれいになり、周辺を掃除しはじめた。
「さて。⋯⋯ジルベール。そろそろ行くか」
レオンとジルベールは、第三王子が入っていった王族の私室に連れ立って行った。全ての者が、固唾をのんで二人を見守っている。
五メートルほどの薄暗い廊下が続いている。血の臭いが充満していた。すぐに血だらけの斬殺死体が二つ転がっているのを見つけた。
「アドリアン王太子と王太子妃です」
真っ先に『王族の間』に突入したジルベールの部隊が、すでに点検を済ましている。今はジルベールが案内係だ。ちょっと先に、もうひとつ死体が転がっている。
「フレデリック第二王子の死体です」
逃げ回ったらしく、無惨に全身を切り刻まれている。
国王の死体は、あとで見世物にでもするつもりだったのだろうか。おそらくは何人かに押さえつけられ、前から心臓をひと突きにされていた。無念の表情をしている。聖女マリアだった時に、聖遺骸とか称して頭と胴が離れた自分の死体を見世物にされたことを思い出した。
「気のいい親父だったのになぁ」
ジルベールが応えた。
「この人が殺られちまうんじゃあ、だれが国王をやっても殺られちまう⋯⋯」
一番奥のつきあたりで、先に入ったマクシム第三王子が喉を突いて自決していた。二人は、第三王子に息がないことを確認し、血溜まりに落ちていたローゼットの短刀を拾い、一分後には取って返した。
王族の間にいる全員が立ち上がり、二人を待っていた。レオンは、ローゼットの短刀を掲げた。血が滴っている。第三王子は、自殺した。だれも王族殺しで手を汚さずにすんだ。張りつめた空気が緩んだ気がする。だが、ここからが本番だ。
レオンは、最初に小さな失敗をした。
「役に立った」と、第三王子の血にまみれた短刀を、ホイとローゼット女性騎士団長に返したのだ。「王族は女神に選ばれた方々」などと本気で信じているローゼットは、顔面蒼白になり気絶しそうになった。
余談だが、クーデター事件がひと段落すると、ローゼットは、裸足になって神殿に入り女神セレンに懺悔。『王族を弑した忌まわしい刃』を神殿に納め、暇さえあれば神殿に通って泣きながら祈るようになった。どうやら王権神授説を真に受けていたらしい。雌豹のような美しい女性騎士が、毎日のように神殿で懺悔している。怖ろしい国王殺しに関わってしまったらしいという噂が王都に広がった。自宅でもローゼットは、メソメソとお祈りばかりしている。おかげで勤務成績は落ちるし、夫婦仲も悪くなった。これぞまさに神罰であるとローゼットは、とうとうノイローゼになった。まだ二十五歳なのに、「離婚して神殿に入り神女になる」「子供ができないのは神罰」「生涯かけて罪をつぐなう」などとわけの分からないことを言い出して、有能な女性軍人としてローゼットを高く評価していたレオンを、あわてさせた。
最高敬語は難しい。前前前世の受験勉強が、こんなところで役に立った。
「レオン・マルクス王宮親衛隊総隊長が、この場にいる全ての者に伝える。アンリ二世国王陛下は「崩御」された。また、アドリアン王太子殿下とアリア王太子妃殿下も「薨去」された。フレデリック第二王子殿下も「薨去」された。なお、第三王子は、自らの手により絶命した」
だれもが予想していたことだが、王宮の最高指揮権を握っている者に宣言されると衝撃的だ。だがジュスティーヌ王女は、泣かない。そんなジュスティーヌに目をやり、レオンが大声で指示する。最高指揮官としての発言だから、あえて敬語は使わない。
「なにをしている? シャルル殿下を、王座にご案内しろ」
「えっ? ええ! そう、そうだわ。そうですわね!」
ジュスティーヌが、青ざめているシャルルに耳打ちしている。
「さあ、勇気を出して。王族の義務を果たすのです。あなた以外に、だれがいるのですか?」
実際には成人した王族は、三人生存している。上から、ジュスティーヌ第三王女、シャルル第四王子、ジュリエット第四王女だ。
反乱に手を貸した容疑が濃厚のジュリエットは、問題外だ。
ジュスティーヌ第三王女は、正妃の子で幼少期から英明なことで知られていた。男に生まれていたら今回のクーデターで殺されるか、逆に第三王子を倒して王座につくかしていただろう。
二十歳のシャルル第四王子は、側妃の子だ。二歳上の腹違いの姉であるジュスティーヌと、仲が良い。年若いが、あのジュスティーヌの弟と言われても納得できるほど賢い。今回の事件で殺されなかったのは、第三王子より王位継承順位が低かったからだろう。それに知恵があるので、救出されるまでおとなしくしていた。
年上で正妃の子だが、女子。夫と共にクーデターを潰した。
年下で側妃の子だが、男子。姉とその夫によって救出された。
ジュスティーヌが即位を宣言することは、十分にできた。しかしレオンは、王座争いでジュスティーヌは負けるとみた。最大の理由は、自分だ。
このカウンター・クーデターで、レオンは株を上げた。とはいえ保守派貴族どもからは、文字通り『蛇蝎』・ヘビやサソリのように嫌われている。ひとつ間違えたら今回のクーデターだって、レオンが国王に無茶なことを吹き込んだために起きたとされかねない。
ここは王位を譲る⋯⋯どころかシャルル王子の背中を押してみせることで、地盤を固めるべきだ。ジュスティーヌ王女は、倒れてしまった母王妃や失脚したジュリエット王女に代わって女性王族の筆頭になった。未婚のシャルルの補佐にうってつけだ。そしてジュスティーヌ王女に知恵をつけるのは、レオンだ。女王の夫である王配などよりも、よほど動きやすい。
昨日まで王国大学の学生だったシャルルは、国王になるための準備や教育など、まるで受けていない。本人は、国王になるなど本当に嫌だった。シャルルは、父王と兄王子たちが殺され、なんの準備も心構えもないままに、深夜に反乱軍が王の私室に斬り込んでくるような国の王にされてしまう。高潔な知恵者の姉と、とにかく戦闘には滅法強い義兄が、最大の後ろ盾であり頼みの綱に思えた。
前国王に政治家として長く仕えてきた法服官僚貴族たちも、心からホッとしていた。王位継承順位が三位に上がったジュスティーヌ王女が即位を宣言していたら、その場でシャルル王子はレオンに殺され、旧臣たちの命も危なかったのではないか? 難を逃れても、王都でシャルル派とジュスティーヌ派の戦闘が始まる。それに領主軍が加わり、フランセワ王国は収拾のつかない三つ巴の内乱になる⋯⋯。
内戦を防ぎ当面の敵である領主貴族を対峙するには、今は王位継承順位一位のシャルルが即位し、それを姉王女のジュスティーヌが支えるのが最良だ。王都パシテの貴族は、今は一致してシャルルの即位に賛同するしかない。フランセワ王家と法服貴族の結束を示そう。
貴族の旧臣たちは、大変なことを見落としている。レオンの存在だ。貴族にとって内乱よりはるかに恐ろしい『革命』を、やる気満々なのだ。最初からレオンは、領主貴族も法服貴族も関係なく、階級としての貴族を根絶するつもりでいる。フランセワ王国だけではない。人類の最後の戦争となる『世界革命戦争』を貫徹し、全セレンティアの社会構造を根底から覆す。新しい理想の社会に組み直すのだ。
誰であろうと人はいずれ死ぬ。ならば意味のある死を贈ろう。ジュスティーヌですら、レオンがそこまでやる気だとは分かっていない。
心底嫌ではあったが「王族の義務を果たす」ため、青ざめながらシャルルは王座に着席した。隣の王妃座に女性王族序列一位のジュスティーヌが座る。
いつの間にか、王座の横にレオンが立っている。
「シャルル一世陛下が、即位された! 全員、跪礼せよ!」
居合わせた宰相からメイドまで、一斉に跪いて新国王シャルル一世に頭を下げる。その場で起立しているのは、王座・王妃座の脇にひかえているレオンだけだ。
レオンの次の言葉に、ジュスティーヌを含めた全員が驚いた。
「ご即位を、お祝い申し上げます。レオン・ド・マルクスの親衛隊総隊長の任を、お解き下さい。国王陛下に王宮最高指揮権をお返し致します」
二十歳の学生第四王子。なんの覚悟も準備も経験も知識も無い青年に、戦争状態の王宮と王都パシテの統治権を返すというのだ。今の状態で統治などできるわけがない。
「うっ。そ、それは⋯⋯」
ジュスティーヌが怒った⋯フリをした。
「あなた、そのようなことを! フランセワの王女の夫ならば、最後まで義務を全うするべきです」
「姉上⋯⋯。うむ。緊急勅令。レオン・ド・マルクスを、王宮最高指揮官とし、王宮親衛隊総隊長に任命する。事態が収拾されるまで、王宮最高指揮官兼王宮親衛隊総隊長にパシテ王宮及び王都パシテの指揮監督権を委ねる。立法権を除くフランセワ王国の行政権・司法権・刑執行権は、国王が秩序回復を宣言するまで、王宮最高指揮官に委任される。王宮最高指揮官兼王宮親衛隊総隊長は、掌下の部隊を率いて早急に秩序を回復せよ」
これがレオンの狙いだ。専制君主国家において、レオンの現在の権力の源泉である王宮親衛隊総隊長の権限は、王族ではあるが専制君主ではないジュスティーヌに委任されたというあやふやな裏づけしかない。例えば前国王に勅任された第二中隊長・第三中隊長が現れたら、どうするのか? レオンの指揮する戦闘や逮捕・処刑などは、ひとつ間違えたら違法行為として処罰されかねない。ついさっき命を救われたばかりの貴族どもが、すぐに手の平を返すのは目に見えている。
レオンの行使してきた王宮親衛隊の指揮権は、新国王の承認が絶対に必要だった。なので辞任をチラつかせて脅しをかけた。即位したシャルル一世が最初にした仕事は、レオンの権力を固めるための緊急勅令の公布となった。反レオン派の貴族が異を唱えることなど、できるはずがない。「なら、おまえらが領主軍と戦え」と返されたらどうするのか?
騎兵部隊や女性部隊までかき集めても、レオンの動かせる戦闘部隊は三百名ほどだ。たった三百名が、人口千五百万人のフランセワ王国政府が今自由にできる軍組織なのだ。
保守派貴族の子息が多かった王宮親衛隊第一中隊の百五十名は、全滅した。第二中隊・第三中隊も半数以上が死亡。もしくは負傷している。熱狂的なレオン支持で固まっている第四中隊だけが無傷だ。
口約束を信じてはならないことは、レオンは前前前世の空港反対闘争で骨身にしみていた。必ず人々の前で明言させ文書にさせねばならない。
「書記官!」
ようやく解放された文官たちは、新国王即位に必要な書類やら、前国王の崩御にともなう書類やらの作成に駆けずり回っている。近くにいた書記官長は「もう少し待って下さい」とか言って、汗まみれでどこかに駆けていってしまった。新国王即位に体裁をつけることの方が、軍事よりも優先されるらしい。
忙しくて人手不足は、戦況に影響がでなければレオンにとって好都合だ。偵察や伝令で、二百人のカムロたちが活動している。何人も騎士や、うまくしたら貴族に取り立てられるだろう。王宮の戦闘で嫡子を亡くした貴族家も多い。
「しょうがねぇなぁ⋯⋯。ローザ、筆記しろ」
とんでもなく美しい少女が立ち上がり前に出た。十九歳くらいに見える。実際にはローザは、十七歳になったばかりだ。水商売女の娘に生まれ、虐待されて成長した。十五歳になった日に客を取らされそうになり、自宅兼売春酒場から逃げ出して浮浪少女に転落。路地裏で餓死しかかっているところをレオンに拾われて、カムロ組織に加わった。
ガリガリに痩せこけ十二歳くらいにしか見えなかった少女が、二年でジュスティーヌに匹敵する美女に成長した。ジュスティーヌが白薔薇なら、少し陰のあるローザは色の香る百合に見える。
ローザは空いている机に着席してペンを執り、先ほどのシャルル一世の言葉を一言も誤らず書き写した。頭も抜群に良い。
「~緊急勅令。レオン・ド・マルクスを、王宮最高指揮官とし、王宮親衛隊総隊長に任命する。事態が収拾されるまで⋯⋯~」
作成した書類を新王陛下の元にうやうやしく届けた。礼儀作法も完璧だった。ローザに礼法を仕込んだアリーヌとマリアンヌは、教師の才能もあったようだ。今のローザは貴族の令嬢にしか見えない。
ローザがレオンの手の者であることは、誰の目にも明かだ。生首事件以降、保守派貴族に抑え込まれていた民衆派のレオンが、民の力を集めて着々と地力を伸ばしていたことに多くの者が驚いた。その場の貴族の一割くらいは「さすがレオン・マルクス。いざという時に頼りになる」と感心し、二割は「こんな時には役に立つが⋯⋯危険な男だ。この事件が済んだら、どう抑えるか⋯⋯」と考えた。
現実には、マクシム第三王子の自殺によって領主貴族の武装クーデターは、失敗している。もう残党狩りの段階だ。しかし、クーデターは、まだ終わらせない。現状を把握できていない王宮内保守派貴族の混乱に乗じた第二クーデターを、レオンは進行させつつあった。平時ならば絶対にあり得ないローザの国王秘書官抜擢は、その一環だ。
正式に『王宮親衛隊総隊長』となって『王宮最高指揮権』を手に入れたレオンは、さっそく保守派貴族どもからの奪権に動き出した。まずは揺さぶりをかける。
「陛下、ご報告致します。王都警備隊本部が、未だに反乱軍に占拠されております」
王族の間は、新国王を頂点に上位貴族・高級官僚たちの臨時閣議室兼避難所と化している。その臨時閣議室のメンバーが総立ちになった。
王都警備隊本部とは、現代日本で例えれば警視庁と都庁を合わせた組織に近い。王宮からは徒歩十分ほどだ。騎馬なら五分とかからない。
「て、敵軍がそこにいるというのか?」
「間違いありません。現在、偵察隊を派遣し、監視を続けております」
貴族どもが、わいのわいのと騒ぎ出した。
「敵が攻めてきたらどうする!」
「こっちから攻めて行ったらどうだ?」
「敵は何人いるんだ?」
「王都の治安は、どうなっとる?」
平時には、それなりに仕事をこなしている者どもが、非常時にはこうもうろたえ無能をさらすとは⋯⋯。シャルル新王は、目が覚める思いがした。まともに答えられるのは、事態を掌握しているレオンだけではないか。
「敵は屋内にいるため、正確な数は不明です。しかし、繋がれている馬匹の数などから百名前後と推定されます。治安に関しては、王都警備隊各地区分隊が独自に動いており、問題ありません」
また無責任なことをいうやつがいる。
「百人程度なら、こっちから攻めたらどうだ?」
レオンは、馬鹿にしたようにチラとそいつを眺めそのまま無視して、シャルル国王に向かって説明した。レオンのそんな態度が、貴族たちの反感を買うのだが⋯⋯。
「王宮を厳護するのに、現在の三百名の部隊でも不足です。兵を分けるのは得策ではありません。他にも敵が潜んでいる可能性もあります。手薄になった王宮を突かれると危険です。それに⋯⋯⋯⋯」
本当のところレオンは、「敵が潜んでいる」はずがないと考えていた。潜んでいる敵とやらは、一番肝心な時に何をしていたのか? まあ、仕事しやすいように、せいぜい貴族どもにはビビっていてもらおう。
シャルル新国王が、うながした。
「それに、なんだ? レオンが口ごもるとは珍しいな」
「あくまで私見ですが⋯⋯。敵軍の主力は、マウリッツ公爵とノアイユ公爵の五百名の領主軍騎馬部隊でした。真の敵は、担ぎ出された第三王子ではありません。領主貴族どもです。やつらの騎馬隊は足が速い。その気になれば、国境の領主領からでも数日で王都に到達します」
臨時閣議室は、今度は水を打ったように静まりかえった。領主ごとに分立しているとはいえ領主軍は、合わせれば一万名を超える。しかもカネと暇に飽かせてよく訓練されていて精強だ。千騎の騎馬部隊を持つ領主貴族さえいる。今の混乱の中で千名程度の部隊に王都に突入されたら、クーデターどころではない。王宮は落城して、フランセワ王朝は終わりだ。シャルル新国王は、ふたたび顔面蒼白となった。父祖から受け継いだ王朝を、自分の代で滅亡させるわけにはいかない。
「新手が攻め込んでくるというのか? レオン、どうすればいい?」
軍事問題でまともに相談できる相手は、ここにはレオンしかいない。
「王宮の混乱が領主貴族に知らされるのは、早くて明後日です。領主騎馬隊が王都に到達するのは、最速で二日はかかります。王宮が囲まれるまで、最悪で四日は猶予があります。それまでに事態を収拾して迎え撃つ準備を整えれば、戦闘にはならないでしょう」
現実には、王都パシテでクーデターが発生したという報告が届いたからといって、詳しい状況も確認せず翌日に軍を出す領主などいるはずがない。しかも届いた報告は、「王宮内に突入した部隊は、全滅した。クーデターは失敗。鎮圧された」という内容になるのだからなおさらだ。
そんなことは百も承知のレオンなのに、自分の影響力を強めるために、シャルル新国王の危機感を煽りたてた。混乱状態に突然投げ込まれた者は、冷静な判断力を失い常に最悪の事態を想定してしまう。シャルル新国王をはじめ王族の間の高位高官貴族らは、そのような精神状態に陥っていた。
これからの仕事をやりやすくするために、レオンは領主貴族どもに対する恐怖と憎悪をシャルルの脳内に、ここぞとばかりに注ぎ込んだ。善政を引いていた父王と、常に公正だった兄王太子、上品で優しかった義姉の王太子妃までもが虐殺されている。「これが人間のすることか」と、シャルルはそれを思い出すだけで怒りで目が眩みそうだった。そして、あの残忍な殺され方をするのが、次は自分の番かと思うと、ゾッと背中に氷柱を差し込まれるような気持ちになった。
弑逆は、第三王子が主犯ではない。その後ろには、兵を養い無傷でいる百家近い領主貴族どもがいる。シャルル一世はそう確信した。
レオンは、シャルルの直感的で感情的な考えを、筋道立て整理してささやいた。
「領主貴族どもは、独立王国の君主に納まりたいのです。それにはフランセワ王国を統一する王家は邪魔な存在です。やつらを放置すれば、何度でも反乱事件が起こります。やがてフランセワ王国は分裂して、周辺国に吸収され滅亡するでしょう。領主貴族どもは、自分の領主領が保てれば国が滅んでもよいのです」
シャルル一世は、その通りだと考えた。領主貴族ども対する近い将来の開戦を、深い憎悪とともに決意した。
その剣となるのは、レオン・アルフォンス・ランソワ・ド・マルクス。姉の夫だ。「さすが姉上だ。人を見る目がある。今日は、この男がいてくれて助かった。レオンの反撃がなければ、わたしも殺されていただろう」。新国王は、王族救命の功でレオンを公爵に陞爵させることをその場で宣言した。
04に続く