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コーチ物語 クライアントファイル 10 迷える子羊 その6

「おばあさんの家に戻って、それから?」
 私は桜島さんの話の世界に完全に入り込んでいた。とにかく続きが聞きたくてたまらない。
「ワシは早速ばあさんに頼んで、台所を貸してくれるようお願いしたわ。あのころはまだガスコンロなんてものは整備されていなかったからな。薪をくべて火をたいて、採ってきた水を湧かして、おいしいお茶の温度を探る実験を始めたわ。ばあさんは何も言わずにワシのことを見ていたなぁ」
 桜島さんは明らかに遠くを見ていた。たぶんそのときの光景が頭の中で思い出されているのだろう。私も桜島さんと同じ光景を頭の中で見ていたと確信している。
「そして夜も遅くなったときに、ようやくこれだ! というお茶を入れることができたんじゃ。そしてばあさんを呼んでお茶をいれたんじゃ。ばあさんは『こんなところで飲むのは味気ない。まぁこっちにこい』と、ワシを仏間に通してくれたわ。早速自慢のお茶を入れたんじゃが、どうもばあさんは首を横にふりおった。まだ満足いっていないようじゃった。ワシは『何で満足できんのだ!』と食ってかかったが、ばあさんは無言のままじゃった。
 ふと見回すとこの家は一人暮らしのようだったな。そして仏壇を見ると位牌が二つ。ばあさんはワシの視線が位牌に向いている事に気付いて、ワシに話してくれたわ。
『これは旦那と息子の位牌じゃ。二人とも戦争で死んでしもうた。どうして死ぬ必要があったんじゃろう。まったく、生きていればきっとおいしいお茶も飲めたろうに。あの人の好物じゃったお茶もな…』
それでワシは悟ったんじゃ。このばあさん、本当はおいしいお茶を入れることができたんじゃないかって。でも、本当においしいお茶を入れてあげたい人はもういない」
「うん、きっとそうよね。でもおいしいお茶を入れられるのに、どうして桜島さんにはおいしくないお茶を入れたのかしら?それにどうして桜島さんのお茶に満足できなかったのかしら」
「ははは、それは続きを聞けばわかるわい。ばあさんの話を聴いて、ワシはとびっきりのお茶を入れてあげたくなってな。それでばあさんにもう一度お茶を入れさせてくれと頼み込んだわ。ばあさんは好きにするがいいと言ってな。それでもう一度お湯を沸かし温度を確かめてお茶を入れてみたんじゃ。そしたらな…」
「そしたら?」
「そしたらな、なんと今度はばあさん、にっこり微笑みよったわ。そして『あぁ、おいしい』と言いおったわ」
「やったぁ! でも、一回目と二回目は何が違ったのですか?」
「聞きたいか?」
「えぇ、ぜひ聞かせてください」
「ワシもそのとき同じ思いでばあさんに違いを聞いてみたんじゃよ。そしたらばあさん、こう言いおったわ。
『一杯目のお茶、確かにうまかったがまだ足りんものがあった。じゃが、二杯目にはそれがちゃんと入っておった。それが何かわかるかな?』
ワシは何が足りないのか、一生懸命考えたわ。どう考えても手順に違いはない。お茶の葉の量も、お湯の温度も、入れるときの手順も全く同じじゃった。ワシは結局違いがわからず、ばあさんに『それは何だ?』と聞いてみたんじゃ。そしたらばあさんはこう言いおった。
『一杯目、おまえさんはどんな気持ちでお茶を入れたかな?』
それに対してワシはこう答えた。
『それはばあさんになんとかうまいと言わせようとおもったわ』
そしたらばあさんは続いてこう質問してきたわ。
『では二杯目のお茶は、どんな気持ちで入れたのかな?』
ワシは少し考えて、こう答えた
『ばあさんにおいしいお茶を味わってもらいたい、そう思ったな』と。そこでワシは気付いた。一杯目のお茶、それはばあさんに勝とうという意識でいれたんじゃな。じゃが二杯目は心からばあさんに満足してもらおうという意識じゃ。つまり愛情というヤツじゃな。これが二つの差なんじゃと気付いた。
 それに気付いたとき、ワシは今まで自分がやってきたことが突然頭の中に飛び込んできた。そう、今までワシがやってきたことは、周りに負けまいとして、周りに勝とうとしてやってきたことばかり。じゃから強引なこともやってきたわ。そのときはそれが正しいと思って追ったからな。じゃから、ワシの事業がつぶれかかったときに助けてくれるものは誰一人おらんかった。ワシはひとりぼっちじゃったんじゃ。
 そして商売に大切なものは何か、ここで悟ったわ。自分のためではなくお客様のため、相手のためを思ってやっておれば周りは間違いなく満足してくれる。満足してくれればワシを助けてくれる人もでてくる。ワシが失敗したのは、自分のことしか考えておらんかったからなんじゃな」
 この桜島さんの言葉を聞いて、私は突然自分のことが頭の中に飛び込んできた。
 私に友達がいなかったのは、私はいつも自分のことしか関心がなかったせいだったんだ。そのくせ本当は自分にかまって欲しくて。そんな気持ちが周りにも伝わっていたんだわ。だから誰も私にかまってくれなかった。
 大学の件もそう。お母さんは本当は私のことを思ってくれていたのに、私は私のことしか考えられなかった。本当はやりたいことも見つかってないのに、大学に行って何がしたかったのだろう。単に自分の居場所が欲しかっただけ。そう、そうなんだ。でもそこには居場所なんかなかった。
 お母さんはそれがわかっていたから、大学に行くことをあまり勧めなかったんだ。私がますますひとりぼっちになることがわかっていたんだ。
「私に本当に必要なのは、誰かのためを思うことだったのね…」
 このとき、私は頭の中で考えていたことが言葉になって飛び出ていたことに気付かなかった。それに気付いたのは、桜島さんがこう言ってくれたからだ。
「誠子さん、気付いてくれたようじゃな。
 賢い誠子さんのことだから、きっとそう言ってくれると思っておったわ」
 私は桜島さんの言葉で少し照れてしまった。が、自分の至らないところに気付いたことは大きな収穫だ。
「では、誠子さん。とりあえず何から始めるかな?」
「そうですね…」
 至らないところに気付いたところで、まず何から行動すればいいのか思いつかなかった。相手のことを思って行動する。言葉にすれば簡単だけれど、具体的には何から始めればいいのだろうか。
 私はしばらく考え込んでしまった。桜島さんは何も言わずにじっと待ってくれている。そのとき、一つのアイデアが頭の中にひらめいた。
「そう、そうよ。お茶よ。もともとおいしいお茶を入れようと思って、今こうやって買い物に出てきているんだから。だから桜島さんと同じように、誰かのためにおいしいお茶を入れてみたいわ」
「なかなか良い考えじゃな。では誰に入れるのかな?」
「そうですね…あ、そうだ、羽賀さんのため。羽賀さんのために入れてみよう」
「ほぉ、それはよいな。じゃが、羽賀のためだけかな?」
「え…あ、ご、ごめんなさい。もっと大事な人を忘れていた。羽賀さんの前に桜島さんにおいしいお茶を入れなきゃ」
 うっかりしていたわ。こんな気づきを与えてくれた桜島さんを忘れるなんて。でも桜島さんは私ににっこりと微笑んでくれた。その笑顔に引きずられるように、私も自然と微笑みがにじみ出てきた。
「うん、やはりその顔の方が誠子さんには似合っとる。ところで、おいしいお茶を入れるためには、どうするのかな?」
「そうですね。まずは桜島さんにおいしいお茶の入れ方をしっかりと習わなきゃ。教えてくださいね、桜島さん」
「もちろんじゃとも。それよりももっと大事なことがあるじゃろ」
「大事なこと…そうそう、もちろん愛情もしっかりと注ぎますよ」
「それも大事じゃが、もう一つ肝心なことを忘れとるぞ」
「え、肝心なこと?」
 私はそれを思い出せずにいた。一体肝心な事って何だろう?
 迷っている私に、桜島さんは笑いながらヒントを出してくれた。
「はっはっはっ。元々ワシらは何のためにここにいるのかな?」
「あ、そうか。水を買いにきたんだった。だったら早く水を買って、おいしいお茶の入れ方を教えてくださいよ」
 私はいつの間にか、おいしいお茶の入れ方を教わることに夢中になっていた。そう、こんな大事な気づきを与えてくれた桜島さんへの感謝、そしてこの機会を与えてくれた羽賀さんへの感謝の気持ちを、早く形にして表したいのだ。
 私に足りなかったもの、それは相手のことを思って、その気持ちをのせた行動をすること。これができたら私も生きることが楽になるかもしれない。
 一杯のお茶が桜島さんを救い、そして私を救ってくれた。そう、たった一杯のお茶が。

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