見出し画像

【俳句】文芸上の真とは 水原秋櫻子をよむ

 俳句は、現実を”ありのまま”に書くことのみが正しいだろうか。
 例えば暑い季節、山中へ赴き、一本の滝を目の前にしたとする。水しぶきや滝の巻き起こす風が涼しいだろう。岩には青々とした苔が繁茂し、天は緑の木々に覆われている。
 この景を俳句にしたい。滝、苔、木々、風も水しぶきもすべて込めた句にしたいと思うのが人である。しかし、およそ俳句は一点に絞ったほうがいいらしい。五七五のわずか十七音にいろいろと盛り込むのは難しいからだ。焦点がぼやけて、何が言いたいのか分からなくなってしまっては詩にならない。それは、もはや短い散文である。
 今回は、滝を見に来たのだから滝に絞ろう。
 しかし、滝は滝である。水が高いところから低いところに落ちているだけだ。それが大規模というだけに過ぎない。

 滝の五七五が、詩となるためには何が必要なのか。その答えは、プロが論じれば、何冊もの本になるかもしれない。
 私がここで申し上げたい点は、加工(演出)である。滝を私という主観を存分に通して、加工する。美しく演出するのだ。見たままを書いたのでは、嘘もなく誠実なのかもしれないが、芸術としては面白くない。勿論、みたままをただ述べただけでも、誰もが気付かなった新しい発見や驚きがあれば、俳句として成立する点は付け足しておく。

 俳人・水原秋櫻子(みずはら しゅうおうし)の句に加工があるとは、たいへん失礼に聞こえてしまうかもしれない。この場合の加工とは、文芸上の真である。
 水原秋櫻子は、子規、虚子の俳句雑誌ホトトギスに属していたが、自然の真と文芸上の真という考え方の違いにより、脱退している。自然の真は、余計な装飾を嫌う端正な客観写生をよしとする。秋桜子のいう文芸上の真は、たとえば、以下の通りである。

 瀧落ちて群青世界とどろけり 秋櫻子

 滝が怒涛のごとくに、周囲の一切を群青世界に。
 岩の苔や木々の緑もあるだろうが、滝の勢いがすべてを呑み込んでいる。それを、「群青世界とどろけり」の十二音で表現している。”とどろく”は音につかう言葉だ。それを、群青世界と色彩に絞った主語につかっている。そうすると、群青世界とは静的な色彩のみではなく、水や自然の躍動感までをもふくむ措辞なのだとわかる。
 群青世界、と抽象的でありながら、滝水の色とその支配力を確かに表現している点、とどろけり、と群青世界に動的な息吹をこめている点、滝落ちて、と”て”で軽く切って、滝水の落下の瞬間、群青世界がとどろくインパクトを強調している点は技術的な参考になるだろう。

 高嶺星蚕飼の村は寝しづまり

 山々のはるか上空に輝く星々。地に広がる養蚕の村はしんと寝静まっている。
 天の星空から地の村まで、空間の広がりの美しさ。西洋絵画的と評されることの多い秋桜子らしい構図である。

 金色の仏ぞおはす蕨かな

 仏の鎮座する舎と、その周囲に群生する蕨。蕨の地味な色は、仏の金色を映えさせる。

 むさしのの空真青なる落葉かな

 武蔵野の真っ青な空と、地の落ち葉。天の青と地の茶や黄が美しい。

 題材は日本の古寺や武蔵野でありながらも、その描き方は西洋絵画を思わせる句が並ぶ。これは秋桜子の構成意識からきている。「ホトトギス」の叙景句が、無造作に自然をつかみとってくるところに特色があったのに対して、秋桜子の句は空間上の位置関係や色彩バランスを、入念に考えて作られている。(角川俳句令和三年七月号 髙柳克弘著 論考『新しさに妥協しない』)
 秋桜子の発表した論考「自然の真と文芸上の真」は、「鉱にすぎない『自然の真』」を、創造力と想像力でもって「文芸上の真」に「加工」するべきだという論旨だった。虚子が作者の自意識を「小主観」とみなして否定的だったのに対して、秋桜子は作者の意識的な言葉のコントロールを、積極的に肯定したのである。(角川俳句令和三年七月号 髙柳克弘著 論考『新しさに妥協しない』)

 野の虹と春田の虹と空に合ふ

 冬菊のまとふはおのがひかりのみ

 白樺を幽かに霧のゆく音か

 堂崩れ麦秋の天藍たゞよふ

いいなと思ったら応援しよう!