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【随筆】俳句水族館

 夏の歳時記をながめていると、魚や昆虫など生き物の季語が豊富で、生き物好きの私はワクワクしてきます。歳時記には、季語の説明だけではなく、例句がいくつも掲載されています。テレビや図鑑等の映像でみるのと、また違った魅力があります。たとえば、季語「章魚(たこ)」をつかった句にしても、ちいさな真蛸だったり大きな水蛸だったりと、読者の経験や感性によって、解釈も多様になりましょう。
 本稿は”俳句水族館”と題して、海の生き物の句を鑑賞していきたいと思います。句の選定や鑑賞内容は私個人の好みですから、ご参考程度にお読みくだされば幸いです。

 水底の明るさ目高みごもれり 橋本多佳子

角川俳句大歳時記【夏】より

 場所は池か川でしょうか、澄んだ水に陽が射し入り、水底を明るく照らしています。母親目高(めだか)が卵を大事にかかえています。
 水底の明るさと命の誕生が、まるで密接に関係しているかのように、美しくそして温かく響きあっています。元気な赤ちゃん目高誕生の予祝といえましょう。

 金魚大鱗夕焼の空の如きあり 松本たかし

角川俳句大歳時記【夏】より

 大鱗というからには、齢を重ねた大きな金魚でしょうか。水槽の硝子越しにみえる大きな鱗は、まるで夕焼けの空のようです。
 金魚の鱗に壮大な夕焼けを見いだす感性はとても魅力的です。じっと観察する詩人の姿もみえてきます。あまりに大きな飛躍は詩として難しいのですが、鱗の幾何学的魅力の発見や金魚への愛情は十分に共感を得られると思います。また、音の調べは力強く、”金魚大鱗”の重量感ある名詞、最後の”あり”の断定が切れ味抜群です。

 父と子に鯰は髭をふりにけむ 加藤楸邨

角川俳句大歳時記【夏】より

 親子は鯰(なまず)がいることに気づきます。子どもは、目を丸くしてみつめています。呼応するかのように、鯰はその長い髭をふったようです。
 ”ふりにけむ”の「む」は推量でしょうか。ふっただろう、ふったようだくらいの意味と私は読んでいます。鯰の愛嬌ある顔や仕草が、親子への温かいまなざしに思えてきます。日常の何気ないことを、単なる偶然と思うのか、何か運命的なものと感じるかで、世界の見え方は変わるかもしれません。

 命透け海月に秘するものはなし 江口かずよ

角川俳句大歳時記【夏】より

 平易でありながら哲学的、文学的な句です。海月(くらげ)の透明な体は、その内側に秘するべき鼓動まで露わにします。内臓の複雑な動きは、生物学的な運動に終止せず、”命”と形容することもできましょう。まさに、海月に秘するものはないのです。
 秘するものばかりの人間社会へのメッセージをも感じ取れましょうか。故にこそ、海月の真なる美しさが際立つのかもしれません。

 虹鱒の走りて虹をのこしけり 藤岡筑邨

角川俳句大歳時記【夏】より

 すばやく泳ぎ去る虹鱒(にじます)のあとには、虹の残像が曳かれていました。
 虹鱒はその名の通り、虹色に近い体色をもつ魚です。虹鱒が虹を残すとは、やや言い過ぎと思われるかもしれませんが、実際に見てみるとまさに虹を残すようなのです。今思えば、私は八ヶ岳で養殖されている虹鱒をみたとき、透き通る山清水に虹の軌跡が走ったと感じました。もしかすると、どんな小さな自然にも、壮大な自然の美が秘められているのかもしれません。

 章魚沈むそのとき海の色をして 上村占魚

角川俳句大歳時記【夏】より

 船上での句でしょうか。おそらく漁の基準に満たなかった章魚(たこ)はリリースされたのでしょう。章魚は沈むその瞬間に海の色に変わったのです。
 章魚の未来は、海の深く、誰も知る由もありません。沈んでいく章魚と漁師の一期一会の出会いは”海の色”に表れているようです。客観写生のなかに、作者のこころが生きています。

 水槽の烏賊のスイッチバックかな 斎藤一也

角川俳句大歳時記【夏】より

 スイッチバックとは、電車が急こう配を登るために、ジグザグに敷かれた線路の方式のようです。水槽内は、数匹の烏賊(いか)が、ぴゅんぴゅんとそれぞれの航路で飛び交っています。一度止まって水を吸い込み、また勢いよく飛び交います。水槽外から眺める作者には、烏賊の動きに反して何の音も聞こえませんが、その動きの余韻が”かな”に込められているようです。

 蝦蛄ひそむ東京湾の大没日 星野高士

角川俳句大歳時記【夏】より

 本句に実際の蝦蛄(しゃこ)の姿はありません。しかし、東京湾に大きな夕日の落ちていく景が、大海の底に息づく蝦蛄をありありと立ち上げます。蝦蛄は少し不気味な外見で、人の爪を砕くほどの力を持っています。”大没日”への畏怖は、そのまま蝦蛄への思いに響きあいます。

 悠然として鋏かな手長蝦 松根東洋城

角川俳句大歳時記【夏】より

 素材と句意に面白味があります。また、切れ字”かな”が中七にある句は珍しいでしょうか。そして、破調なのですが、その型にとらわれない調べの妙を、悠然と鋏を動かす手長蝦に調和させているように感じます。景は水槽のなかかもしれませんが、船上にあげられた蝦かもしれません。いずれにしましても、水中でも陸でも、必死にもがくのではなく、悠然としているのです。

 原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ 金子兜太

角川俳句大歳時記【夏】より

 本句は水族館と遠い内容ですが、社会性のある名句ですから紹介しました。原爆は、広島と長崎に投下されました。長崎の句でしょうか。”原爆許すまじ”と作者の強い思いに、瓦礫の上をかつかつと歩く蟹の姿を合わせています。瓦礫だらけの干潟に、命は見あたりません。かろうじて生き残ったであろう蟹は、ただ一匹、かつかつと歩き去っていきます。反戦への強い思い、そして、どうにもできない虚無感を感じます。私は戦争を知らない世代ですから、本句に学ぶ点は多いです。

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