【俳句】角川『季寄せを兼ねた俳句手帖』をよむ
月刊誌「俳句」角川出版の十一月号の付録に、「季寄せを兼ねた俳句手帖」冬・新年がある。季寄せ(きよせ)とは、歳時記(さいじき)を簡略化したようなものだ。歳時記とは、季語の辞書である。俳句は、句のなかに季語をいれることが一般的であるため、俳句をつくる際は、歳時記で調べながらおこなう。歳時記にもいろいろな種類があり、広辞苑のような重く分厚いものもあれば、一方で、文庫本のような小さなものもある。
季寄せは概して携行性に優れるものであるため、季語の用例(つまり例句)が少ない等、歳時記に及ばない点はあるのだが、先に挙げた「季寄せを兼ねた俳句手帖」は、頁の端に一句ずつ例句が掲載されている。おそらく、角川『俳句』の編集者が膨大な句のなかより厳選したものだろう。古い名句から、現代俳句まで様々な句があり面白い。雑誌の付録だからといって侮れない。今回は、その例句のなかより、いくつかをご紹介したい。
句の解釈は私個人の感想であるため、参考程度にお読みくだされば幸いである。
学僧のくるぶし尖る龍の玉 山下知津子
季語は龍の玉。植物で紺碧色の実をつける。学僧とは学ぶ僧侶であるから、菩薩に限らないかもしれないが、仏教の雰囲気を感じる。まるで若き日の仏陀のようか。衣より覗く、尖ったくるぶし。菩薩業により痩せてはいるが、その大地をける足は力強い。
尖るくるぶしと、龍の玉の球形という形象の対比も効いているが、何より、龍の玉が学僧の求めんとする真理のように感じる。紺碧の玉には何やら哲学的な知性がある。
全集を縛る十字や冬菫 十亀わら
季語は冬菫(ふゆすみれ)。春を待たずに咲く菫をいうそうだ。全集とは何の本か。あえて限定しないのが俳句である。思い出す本は読者の数だけあるだろう。なぜ縛るのか。果たして、捨ててしまうのか、引っ越しなのか。十字で十字架を連想してしまうのは過剰かもしれないが、読み古された全集への鎮魂歌にも思える。それらの思いを菫に託す。
句中に、筆者の心情描写はなくとも、それらを立ち上げる名詞(もの)の力を感じられる。
自販機を聖夜の燈とす双葉町 高野ムツオ
季語は聖夜。自販機の明かりを詠むとは高度な技だ。人工物で何の情趣も感じえないもの…と切り捨ててしまえばそれまでだが、作者は美しく表現した。
寄り添う恋人たちもみえてくる。聖なる夜は、すべてのものが特別だ。自販機に溢れる街も、時と場合によっては美しくみえる。ありふれた日常に詩を見出せる多面的な見方だ。
考ふるときは面長冬灯 今井聖
季語は冬灯(ふゆともし)。冬の家々からもれる、その灯は暖色だろうか。コンビニの明かりとは異なる情趣ではないか。
家のなか、ぼうっと冬灯に浮かぶ人の顔。どうやら考えているようだ。真剣になっているときは面長になってしまうとは、笑えるが非常にリアリティある描写だ。俳句に笑える要素は重要。それは平凡な日常におけるひとつの発見であり、心の琴線に触れる表現だからである。
私も、真剣なとき変な顔になっている…に違いない。
寒鯉の影から先に目に入る 山本素竹
季語は寒鯉(かんごい)。冬の透き通った水にゆらりとみえる鯉。影から先にみえるとは大きな発見だ。本句は、野生の鯉ではなく、庭園の池にいる錦鯉ではないか。野生の鯉では、そもそも影のような体色であり、真っ黒の影との対比が活きてこない。鮮やかな錦鯉とその影。鮮やかな鯉よりも、影という暗いほうからみえるのだ。
穿ち過ぎた見方かもしれないが、その影には鯉の生きてきた時間を感じる。長く生きてきた鯉の人生が影にみえる。それをまず見出してしまう作者も、同じく長く生きてきた賢者なのだろう。
荒星のざらざら触るる檜の秀(ほ) 森野稔
季語は荒星(あらぼし)。冬の冴え冴えとした星である。檜(ひのき)の姿は影のように黒く、そのシルエットは天高く突き出している。星と重なり合っては離れ、まるで、ざらざらと音が聞こえてくるようだ。
鮟鱇の波打ちながら運ばるる 大西朋
季語は鮟鱇(あんこう)。深海魚は高い水圧に適応するために独自の進化を遂げたようだ。しかし、陸に揚げられれば、その体を維持することはできず、だらんと横たわるばかり。荷車で運ばれれば、ぶるぶる、だぷだぷと波打つ。大口で目の飛び出した鮟鱇は何か滑稽であるが、作者から鮟鱇への慈しむ思いも伝わってくるようだ。冬の海、冷たい飛沫、甲板、漁港、漁師たちの姿もみえてくる。