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【随筆】第二十三回俳句甲子園・個人表彰句の鑑賞

 角川『俳句』10月号によると、2020年8月23日、第二十三回俳句甲子園の審査結果発表が行われたそうだ。俳句甲子園は、全国の高校が俳句の出来を競い合う大会である。いわゆる団体戦と個人戦があり、今年は団体での優勝は開成高等学校である。開成高校と聞くと、たいへん頭のいい学生の集まる学校であるから、やはりそうかと思えてくる。とはいえども、三年ぶりの優勝であるらしい。また、国語の先生であり、俳人でもある佐藤郁良(さとういくら)氏の指導実績があるだろうから優勝しても何の不思議もない。氏の多くの俳句指南書は高度な内容にも関わらず、たいへん分かりやすいためお勧めである。
 準優勝は、洛南高等学校、三位は二校、神奈川県立津久井高等学校、愛媛県立松山東高等学校である。
 今年は、感染症の影響により、すべて投句審査だったそうだ。表彰はモニター越しの「エア表彰式」である。聞きなれない言葉であるため、やや違和感をもつが、出来得る限り実施した努力に頭の下がる思いである。
 
 話は変わり、本稿では、団体戦ではなく個人表彰の句を紹介していきたい。個人表彰の最優秀賞に輝いたのは次の一句である。

 太陽に近き嘴蚯蚓を垂れ 田村龍太郎(海城高等学校B)

 嘴は鳥の「くちばし」である。蚯蚓は「ミミズ」。大意は、太陽に重なるように(黒く)みえる鳥の嘴の陰影には、蚯蚓が垂れ下がっている、といったところだろうか。
 我々がよくみる鳥で、蚯蚓を食べるといえば烏(カラス)が最も多いだろう。勿論、烏かどうかはわからないが、何らかの鳥が太陽に重なった瞬間である。
 時間帯は、朝や昼ではなく、夕方ではないか。沈み行く真っ赤な太陽に鳥の影がよぎる。暑い夏の夕方の気怠さ、西日の不吉さがある。蚯蚓は夏の季語である(『蚯蚓鳴く』は秋の季語)。鋭い嘴の先には一匹の蚯蚓が今にも死に絶えんとしている。鳥は生きるために蚯蚓を食べる。両者の生と死の相剋は、人類を含む生類の運命を象徴しているかのようである。
 俳人・小澤實氏は、講評として、蚯蚓は地面から引き離されてもなお生きようとしている我々(人間)、嘴しか見えない鳥は感染症の暗喩のようであると述べている。

 優秀賞は、十句以上あるため、一部のみ紹介してゆく。選が私個人の独断と偏見である点はお含みおき願いたい。

 曲がるだけ曲がりて蚯蚓干からびぬ 三宅航暉(名古屋高等学校)

 先に挙げた句同様に、季語が蚯蚓である点は、お題のひとつが蚯蚓だからである。大意は、曲がるだけ曲がって蚯蚓が干からびている(死んでいる)と平易に読解できる。刮目すべきは、誰もが言葉にしえないような気付きを的確に切り取った点である。写生の見本のような句といってよいだろう。
 蚯蚓が道端で干からびている光景は過去に何度も出会った。雨の翌日に多いのは、なぜだろうと不思議に思ったものである。そのなかで、曲がるだけ曲がっていた蚯蚓は、確かにあったような気がしてくる。いや、確かにあったのだ。私はそれを掬い上げ、文学へ昇華させることができなかった。氏が俳句として表現してくれたおかげで、私はこの大自然の神秘をひとつ「把握」することができたのである。
 曲がるだけ曲がって絶命した蚯蚓は、死の苦しみを表していると同時に、生命の力強さをも感じさせてくれる。それを見つめる氏の人生哲学すら立ち上がってくるようである。最期まで曲がりくねった人生もまた等しく尊いのである。

 朝刊の文字つややかに原爆忌 安永早春香(熊本信愛女学院高等学校)

 題は「朝」である。季語は原爆忌。死者への敬意を忘れてはならない難しい季語である。
 人類は言葉を文字としてのこすことで、智慧の集積が可能となった。新聞の文字は単なるインクの染みではなく、エネルギーをもつ情報である。エネルギーとは科学の定義によれば他を動かす力である。文字が読者の心に影響を及ぼすのであれば、やはりそれはエネルギーをもつのである。
 その日、カーテンを開けると快晴であった。いつものように朝刊を手に取ると、あの日の深い青空が広がる。透き通るような美しさが立ち上がる。今の広島、長崎の街並みや人の往来からは、悲劇を感じられないが、この青い地球、人類の記憶にはしかと刻まれている。人は愚かな過ちのみならず、また立ち上がる強さ、気高き精神を有している。中七の「つややかに」の措辞はそれらのすべてを包含しているようである。

 朝つばめ私は有限かつ無限 市川侑奈(高田高等学校)

 哲学感漂う句意である。人である私は有限であり無限でもあるというのである。人を原子としてみれば、有限だろう。宇宙の物質は決められた量が存在すると計算されているのだから。しかし、もっと小さい、つまり素粒子をみれば、たちまち不確定な世界となる。脱線するが、最近、ノーベル物理学賞を受賞した研究者らは特異点が珍しいことではなく、我々の住む銀河系の中心にブラックホールがあると発表している。アインシュタインの相対性理論が破れてしまう特異点へのアプローチが進めば、人類の科学は新たな世界へ行くことができるだろう。我々のすべての「常識」が覆される世界である。それらの点において、無限とは我々の精神世界のみならず実際にありうることであり、「私は有限かつ無限」は真実へより迫った表現なのである。
 そして、その措辞が「朝つばめ」とどう響きあうのか。朝から餌である羽虫を求めて、空を飛び回る燕の姿。天から地へ、地から天へと弧を描く。おそらく、その航路が無限大ループにみえる点を狙っているわけではないのだが、人類の新たな地平を探究する意志がみえてならない。
 意味のみならず、歯切れ良い音の調べが凛として美しく、また力強い。

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