【俳句】弟の句をよむ 令和六年春
我が兄弟航路は、実の兄弟の二人組である。共有のアカウントを舟に見立て、文学の大海原にしがない航跡を描いている。
だが、昨年の七月に次女を授かった弟は、育休を宣言し、二人の娘の父として日々奮闘している。近々、新しい住まいに引っ越すようで、まだしばらくは、腰を据えて執筆する余裕はなさそうである。
そんな中でも、筆者の作品を航海する直前は、弟が必ずこの舟に戻ってくる。最初の読者という、唯一無二の役割を担うためである。
感想にしろ、指摘にしろ、それは実に朴訥たる、短い言葉だが、短詩型文学(短歌・俳句)を専攻する弟なりに、深い意味を畳み込んでいるのかもしれない。
筆者は、短詩型文学に疎い。俳句でいえば、季語と五七五の定型があること、そして写実的な切り取り方を良しとすることぐらいしか、知識として身につけていない。弟の句をよんだところで、解説はもとより、立派な解釈など書けやしないが、兄弟航路の舟路は、恥を恐れず、自由闊達な舵取りを心がけている。
そこでこの度、弟の句を皆様にご紹介したいと思い立った。選び出したのは、春の句である。控えめに添える解釈は、繰り返しになるが、門外漢のそれであることをご承知おきいただきたい。
親愛なる弟の句が、一人でも多くの方に届くよう願って――
詠み手は、余寒厳しき早朝に散歩をして、小さな春を見つけたのではないか。それは、老いた梅の木に咲く可憐な花である。見上げた枝の先で、太陽が生き生きと輝いていたのではないか。
筆者は、その眩しさに手をかざす様子が目に浮かんだ。何かにやる気を失いつつあった詠み手が、前向きになる兆しを得た、という私見である。
小高い山は、たけなわの春を迎え、一斉に芽吹いた草木がつややかに光っている。その中腹あたりに、手入れの行き届いた畑があるのではないか。畑の傍らには、菜の花が黄色く咲いているように感じられる。
句中の主役は、耕人である。言い換えれば百姓だが、耕人という字面が、耕す活力を若々しく発している。
創世記とは、創造の始まりを意味する旧約聖書の第一書である。
詠み手が、和訳された創世記を開いたまま、世界の始まりに思いを巡らせていると、卓上に飾られた押し花の一片が、偶然剥がれ落ちたのではないか。
神話も押し花も、過去の姿を記録したものと捉えられる。見方によっては、どちらも人が生み出した創作物である。
世界の、或いは宇宙の始まりは、偶然剥がれ落ちたようなもの、という悟りかもしれない。
詠み手は、静かな山の中の、ぽっかりと開けた場所で、もくもくと蕨狩りをしているのではないか。たなびく雲の下、春らしい光景である。
杣人は、どうやら樵のことである。山を切り拓く騒がしい音は、遥か遠くの空へ消えたという、詠み手の感慨ではないか。
遠方から訪れたように思えない。地元の人が蕨狩りをする様子だと解釈した。
つくづくしは、辞書によると、ツクシの別名、即ち春の季語である。
筆者は、にょきにょきと立ち並ぶ愛らしいツクシを思い浮かべた。そして、見守るように咲くタンポポを連想した。人に例えれば、それは保育士さんにでもなろうか。
この句は、傾く向きが揃わないツクシの様子を切り取っただけであるが、俳句ならではの文学作品である。
筆者は、温かい心持ちになった。