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【随筆】ばぶぅといっしょ


 我が子はそろそろ一歳である。「ばぶぅ」と声を出すから、「ばぶちゃん」と、たまに呼んでいる。しかし、市井の子育てマニュアルによれば、ちゃんと名前で呼ぶほうがいいらしい。そして、赤ちゃん言葉ではなく、大人の言葉で話すことも大事なようだ。
 それでも、かわいくて「よちよち」「ばぶぁ~」とか言ってしまうことは多々ある。

 我が子は、十か月くらいからつかまり立ちをしているように思う。ひと月以上前のことは意外にも忘れてしまう。それくらい赤子の成長は著しい。
 最初は足がガクガク、ふらふらしていたが、わずか一週間でしっかりと立てるようになったし、転ぶときもちゃんと膝を折って頭を打たないようにできている。誰が教えたわけではない。時がきたら勝手にできているのだ。

 親である私と妻がおこなったことといえば、我が子を安心させる環境づくりをしただけだ。環境づくりといっても、親が近くにいるだけ。ひとりで遊んでいるとき、その半径2,3m以内にいる程度のことである。
 育児マニュアルのとおり、スマホを見ずに、聖母のような眼差しで見守っている、わけではない。赤子が私のほうをみても、読書から目を離さないときもある。目があえば、寄ってきて、足に抱き着いてくるから、その時だけ抱きしめる。ほっぺにチューすると、何を嫌がってなのか離れてゆく・・。
 つまり、私は、ただ近くにいるだけなのだ。

 やはり、赤子は理由があって泣いていると最近、確信した。赤子は泣くのが仕事かもしれないが、また、泣く理由は誰にもわからないこともあるだろうが、それでも、きっと何かがある。
 およそ、「不安」に違いないと、私は仮説を立てる。食事でもおむつでも、睡眠でもない、温度、湿度でもない、皮膚の不潔でもない、衣服の不快感でもない、このおもちゃを触りたいという欲求でもない、、、。
 その答えは「不安」なのではないか。

 芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」といい、自殺してしまった。赤子の話と全く関係ないのだが、だれでも似たような精神的苦痛はあるのではないか。赤子のそれと、芥川のそれは全く質の違うものに違いないが、世の中には言語化できないこともあるだろう。芥川は小説をもう書けなくなったことや、遺伝的な精神疾患に対する恐れだけではないかもしれない。

 私の経験でしかないのだが、親が赤子の近くにいるだけで、どうやら不安は解消されるようだ。
 しかし、勿論、保育園などへ通うお子さんの場合は、親と一緒にいるわけにはいくまい。親でなくとも、赤子にとって良い人が近くにいれば、きっと安心するのだろう。

 また、不安といえば、赤子だけではなく、親にもある。

 今となれば、おもちゃにも興味をもつようになったから、安心しているが、二三か月くらいのときは、おもちゃにほとんど興味を示さなかったから、我が子は変なのかと不安に感じたものである。知り合いのかたからは、三か月になればもう、おもちゃでガシャガシャと激しく遊んでいたと聞いていたからだ。わが子は遊んでいないどころか、興味すらないなぁ、と。

 YouTubeをひらけば、様々な子育て動画がでてくる。自閉症のお子様の記録を載せているかたもいる。知れば知るほど、我が子のことが気になってしまう。父親である私自身が、自分を「正常である」という自信をもっていないから尚更である。ADHD、アスペルガー、自閉症・・・医者はよくもまあこれほど病を定義したものだ。私は、正常と異常の紙一重にいるかもしれず、精密に「検査」すればどこかに属するのではないか。

 ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋

 いきなり俳句で申し訳ないのだが、この句をみて、「え?桜は海が青くなくても散るよね」と真顔でいう人は、アスペルガー症候群と呼ばれるのだろうか。俳句を知る人からすれば、言葉の裏を読めていないなぁと感じるに違いない。つまり、文章の空気を読めていないよね、と。

 俳句というか、文学の詩情は、字義通りではないし、現実世界の因果律に支配されているわけでもない。
 掲句は、言葉通りに理解すれば、海が青いから散るのであるが、詩の理解としては、そうではない。読解の要諦は、桜にまるで意思があるかのようにみた作者・高屋窓秋の気付きにある。青い海をまるで選ぶかのように、散ってゆく桜のすがたが、それをみた者のこころと響きあったのだ。人はその瞬間の心持ちによって、ただ花びらが舞う様子を単なる現象とは見ずに、何らかの運命と捉えられる生き物なのだ。

 我々は高校、大学、特に理系において、字義通りの冷めた見かたを徹底的に訓練される。背景を汲んだ深読み等、ご法度である。
 この訓練に偏りすぎると、社会人になってから、言葉の通じないやつだなぁと上司に呆れられるわけである。かくして、アスペルガーという言葉が濫用される。

 そこで、国語、文学が要請されるのだ!と我田引水の傾きはお許し願いたい。育児の話が、いつのまにか国語愛に帰結してしまう。

 いずれにせよ、この世は大半の人々が納得しうる内容を、言葉によって定義し構成されている。育児マニュアルも、病名も然り。
 世界中の誰もがうんうんと納得しなければ、定義しなければ、そもそも存在しないに等しい。病気もない。現象としてあっても、誰も観測しなければ、そこにはやはり何もないのである。
 人を救う言葉もあれば、人を殺める言葉もあるのだ。

 便利な世になったからとて、ウェブが発達したからとて、子育てが容易になったわけではあるまい。この時代も、情報を拠り所にするしかないが、それでも、我が子の笑顔を真実として進むしかないのだ。それ以上、何ができるというのだろうか。

 春風や闘志いだきて丘に立つ 虚子

 桜は葉桜になり、風の薫り始めた今、私はそんな気合いである。

 しかし、何をするのでもなく、ただ近くにいるだけである。我が子にも、文学にも、自然にも、そして妻にも、私はただ寄り添うだけなのである。

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