【俳句】夏の句をよむ
まだ朝晩は寒いですが、日中は汗ばむときも増え、花鳥のあかぬ別れに春暮れて今朝よりむかふ夏山の色(玉葉和歌集・夏・293)と詠まれたように、山々は蒼翠を帯び、風薫る夏の到来を感じます。
本稿では、夏の句をいくつか紹介し、私なりの感想を述べたいと思います。解釈が本筋から外れていることもあるかもしれません。ご参考程度にお読みくだされば幸いです。
穂高とは穂高連峰、穂高岳でしょうか。その険しい山々は今まさに雲を吹きおとしています。その瞬間、作者は立夏、夏の到来を実感したようです。大空から大地への壮大な一句です。
夏の薫るような風は、樟(くす)の木から起っているように感じます。下五の”大樹なり”が本句の要諦でしょう。その樟は、薫風の一通過点ではなく、みなもとであると思えてしまうほどの迫力をそなえているのです。
数学者がソーダ水を飲みながら解を求めているのでしょうか。方程式の書かれた紙は、ソーダ水の結露に濡れています。美と理を秘める方程式は、音もなく緩やかに弾けていく炭酸の泡とともに書き進められていきます。静かな空間に季語ソーダ水がいきるように思います。
その標高から天空の国ともいえる飛騨は闇夜に包まれています。牛蛙のふとい鳴き声は、飛騨の夜を広く深いものに感じさせます。視覚よりも聴覚に感性をはたらかせることで、空間の拡がりが強められる気がします。
季語、夏蜜柑と”いづこも遠く思はるる”との作者の感慨はどのように交じりあうでしょうか。どこまでも瓦の続く沿岸部の町を鮮やかに彩る夏蜜柑。じっとみつめていると、様々な思いが去来するかのようです。