【随筆】句碑の矜持
万力公園は山梨県笛吹川沿いにある。万の力とは何か。八百万の神々の働きと考えてはみたが、穿ち過ぎかもしれない。土手沿いの小高いところに桜や花水木がずらりと並んでいる。初夏の今日、桜も花水木もとうに花はなく、青葉一枚一枚をさわさわと天にゆらす限りである。この景に、若葉風や万緑という季語がふさわしいかどうかは定かではないが、葉の青が爽やかで心地よい。その並びの見落としてしまいそうな所に小さな句碑がぽつんとある。名もない葉が一枚のっている。
いつも思うことであるが、句碑の文字は誠に読み難い。俳句や短歌を愛好している私が堂々と宣言することは恥ずべきことであるのだが――。句碑と出会う度にくずし字を学習しなくてはと決意するものの家路につく頃には忘れている。つまり、決意なる高尚なものではないと証明される。私は特定のくずし字を否定するわけではない。むしろ短詩型文学の表現において形象は殊に重要である。清き水の流れのような筆致は短冊という狭い平面にとどまらず立体的な世界を立ち上げる。
私の数少ない知り合いのなかに書家の先生がいる。その方の書は、誰にでも読みやすいうえに、書道という「道」をしかと体現している。鳥や風が本意であればその書は青空へ飛翔せんとするが如くである。国の精神が本意であれば、天を轟かし大地にどっしりと根ざす大樹の如くである。句意と響き合いつつ楷書に最大限近づいている。達人とは己の心を貫く根本精神に揺らぎはなく、依頼者の嗜好にあわせて如何様にも筆致を変えることができるのである。
句碑には句碑の矜持がある。くずし字が読めないとは、あくまで私自身の姿勢、態度の問題である。万事、周囲の問題としていては自己の成長は望めまい。成長とは何かと問われれば、それはまた難しい。ひとつの道を極めんとするのであれば、その山道を一歩ずつ登るための基礎体力や精神力が必要である。そして、その覚悟、百里の半ばを九十九里とするが如くである。しかし道を極めた先に何があるのかと問われれば、それはまた難しい。少なくとも私は、名誉、金銭、自己満足を超越したことさえもないが、道を極めた者たちの私にもたらす恩恵は計り知れない。
私はその小さな句碑の前に立ち止まり、何と書いてあるのか考えた。近くに停められている車のなかに、コロナ禍というこの時世にささやかな幸福を見出さんとする観光客がいることはわかっていたが、この句碑を理解せぬまま帰るわけにはいかない。たとえ変な人と思われても私の意志は最後まで貫く覚悟である。半分素人とはいえ俳人の一分である。長い年月を経て今私の眼前にある句碑との出会い、そして石に刻まれた意志に最大限の敬意を表す。資本主義社会の片隅に凛として立つその姿、私もいつかそういう人になりたい。と、自己陶酔と叱咤激励の狭間に、満月のような笑顔がみえる。妻は帰りたいのだろうか。痩せた野良猫が私をみて欠伸する。川面に揺れる鴨はゲエと鳴く。名もない一葉はいつの間にか消えている。
わかった。「川千鳥月より鳴いて落ちにけり」である。嗚呼、よい句だ。しかし、「鳴く」「落ちる」という動きがふたつあり少し落ち着きがないのではないか。句碑を批判するとは慢心だろうか。しかし、誰が詠んだ句であれ、自己の感性と照らし合わせて真剣に考える姿勢は重要である。句碑だから名句に違いないと思い込むことは高慢と同程度に危ういのではないか。立合において、相手が手負いの侍とわかっていたとしても、全力で相対せねば相手の魂を侮辱することになる。相手が格上であったとしても同様である。はじめから負けるかもしれぬという精神で本身を抜くことはできまい。侍と侍が魂をかけて立合うように、私もまた偉大なる俳人と真剣に相対するのである。
言葉とはこの世の如何なるものに勝る刃物である。使い方を誤れば人を斬る。俳句とは切れ味に特化した文学である。
私は夜中まで考えた。暇人と思われても一向に構わない。最終的に名句であると心から理解した。聴覚から視覚への鮮やかな展開である。日は西の山々に落ちつつある。燃えるような夕日が私を射る。瞬間、千鳥の鳴き声が月方より鋭く渡り、小さな陰影が矢の如く川面へ落ちる。黄昏時、川面に群れる羽虫を捕食するのだろうか。
鳥は昼行性であるから、夜の景ではないだろうと私は考えているが、月光とともに千鳥が落ちるというのもまた美しい。やはり、俳句は無限の可能性がある。時空を超えて美しい世界を立ち上げる。句碑はいつの日か崩れてしまうかもしれないが、私の経験は言語化された瞬間からずっと残るかもしれない。残ったところで何の価値があるかわからないが、ないよりは良いのではないか。
そして、今日という一日は石よりも固く刻み込まれた。
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