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【俳句】角川読者投句欄・佳作の鑑賞

 「角川俳句」は角川文化振興財団(発売:株式会社KADOKAWA)の発行する俳句専門の月刊誌である。本誌の最後には、一般の方々が投句して、プロの俳人数名に佳作以上の評を受けた句が掲載される。

 秀逸句や推薦句は字も大きく目立ち、推薦句に関しては選評まで載せられる。選評とは、句のどこが良いのか説明したものである。プロの俳人に言葉をいただけるのであるから、飛び上がるほど嬉しいのだが、佳作には選評はなく、なかなか目立たない。佳作にも大変素晴らしい句が多いのに―と私は常々思っていた。
 そこで、誠に勝手ながら、本稿にて私が選評させていただきたいと思う。お節介になるかもしれないが、少しでも多くの方々の目に留まるのであれば、紹介者である私も嬉しいのである。

 また、内容は私個人の感想であるため、参考程度にお読みくだされば幸いである。―私の読み方が普遍的な真理ではなく、読者の数だけ句の鑑賞方法があるのだ。
 「角川俳句」令和三年二月号・令和俳壇・雑詠より、ご紹介する。尚、読者が投句してから雑誌に掲載されるまで四、五ヶ月のタイムラグがあるため、二月号なのに秋の句が載ることも多々ある。

 谺して猟銃音の空となる 鈴木まさゑ

 (ドパァァン!―パァァン―パァン―パァン・・・)猟銃の音が聞こえる。その直後、この山々、大空から一切の音は消え失せた。私の頭のなかに猟銃音のみが残響している。
 谺(こだま)は、いわゆる”山びこ”である。本句には、や・かな・けりの代表的な切れ字はつかわれていないが、上五の「て」で切れている。”切れ”は、五七五のどこかで一文の流れを切り、例えば、立ち上がる時空間の広がり・奥行きを実現する。TVやYoutubeで人気の夏井いつき氏の言葉を借りれば、切れ字により、場面を切り替えるのである。
 本句の場合、上五の谺が聞こえた瞬間の場面と、中七下五の猟銃音の響き渡って「消えた」場面とを分けるのである。上五は物質的な猟銃音、つまり音波。中七下五は、詠み手の心のうちに響く概念的な音といっていいだろうか。猟銃音と読み手のみの狭い空間から、深い山々、吸い込まれるような青い空、果ては、生と死の営みが立ち上がってくる。撃たれた獣の苦悶の眼は、虚空を見上げ、天地へ還ってゆく。遠くから、その様を思う詠み手の心には一体何が残ったのだろうか。

 ユーラシア大陸にしわみみず鳴く 鈴木歌織

 ヨーロッパ行きの飛行機の小さな窓より、眼下に見下ろすと、乾燥した大地が延々と続いている。この巨大な(ユーラシア)大陸は、山川谷が無数にあり、それはまるで人の顔にできる皺のようだ。嗚呼、何処からだろうか、みみずのかそけき声が聞こえてくる。
 「みみず鳴く」は秋の季語である。科学的にみれば、みみずは鳴かない。しかし、しんとした秋には、みみずの声が聞こえてくるかのような情趣があるのだ。アスファルトやコンクリートに固められた街に住む現代人にとっては、共感できないかもしれないが、季語を培ってきた過去の人々の生活には、実感としてあり得たに違いない。
 本句では、中七の「しわ」で切れる。これは意味のうえでも明確だろう。ユーラシア大陸にしわがあることと、みみずが鳴くことに因果関係はない。しかし、この広大なユーラシア大陸と土中の小さなみみずの対比は、感覚として何か通底するのではないだろうか。それが、何であるか明確に説明できたら名句となり得ない(読者の数だけ多面的な見方のできる余白・余地があるのだ)。皆様は本句に何を感じ取るだろうか。ユーラシア大陸に思いをはせた時、みみずの声が聞こえてくるだろうか。

 色うすく秋の金魚の近寄りぬ 今田敏廣

 年を重ねたのだろうか。鱗の色の薄くなった金魚が、水底にいる。ふと、何かに気付いたかのように振り向き、私と顔を近づけている。金魚と私の過ごした年月が、水槽のガラス一枚を通して立ち上がる。
 現代語の感覚だと、下五の「近寄りぬ」は、近寄ったのか近寄っていないのか分からないかもしれないが、この場合の「ぬ」は否定ではなく完了である。したがって、”近寄った”が正解である。未然形+ぬ、は否定、連用形+ぬは完了である。
 俳句は基本的に古典文法に従う傾向が強い。ただし、古語で詠むことが正しいとは限らない。あくまで伝統に倣う傾向が強いという意味である。
 古語つかいは、日常言語から離れるほど、詩情を感じやすい人の性を狙った技巧ともいえるが、わずか十七音の俳句において、複雑な情趣を短く述べるために極めて有効な言葉なのである。
 句の鑑賞に戻る。秋の金魚は、夏の金魚とは異なり、水温も低く、おとなしい印象だろうか。金魚鉢の底に佇む姿は、何か哀愁が漂っているようである。上五の「色うすく」が、金魚に残された人生の短さを、詠み手と過ごした長い年月を感じさせる。この感傷的な心持ちは、金魚のみならず、冷やかで澄んだ秋の水、水槽のガラスと響きあう。
 私事であるが、子どもの頃飼っていた一匹の金魚は、七年も生き、天寿を全うした。本句と出会ったとき、全身に電気が走ったかのように、大切な思い出が立ち上がってきたのである。

 生命も現象であり冬銀河 小野豊  

 命とは何か。この地球上にいる生類は、科学的にみれば物質に違いない。しかし、それを「生きている」状態にする働きは一体何なのだろうか。私は私を知覚できる点において、この命は、ひとつの現象に過ぎないのだろうか。漆黒の空に無数の星々が―嗚呼、銀河が輝いている。
 俳句の原型を破壊しかねないほどの意訳・解釈で申し訳ない思いである。本句は、哲学的命題を提示するような抽象的な句である。しかし、抽象論で終わらない名句たる所以は、ひとつに、冬銀河のスケールの大きさが、地球上の生類すべてを包み込む景を確かに立ち上げているからである。
 また、技術的な話をすると、中七「あり」の断定的な強い表現により、季語の冬銀河が大きな質量をもって一句を引き締めている。上五の「も」について、俳句に「も」は使わない方がよいと初学者向けの俳論書に書かれていることは多いが、前述の技巧により、俳句らしい重厚感を得ているのである。そして、生命すら「も」現象なのかもしれない、と読み手の気付き・感動が一音に表現されている。

自然薯の穴より山の暮れにけり 尾形忍

 収穫した自然薯(じねんじょ)が、まだひとつ畑に転がっている。拾い上げると、その足元に残る深い穴は真っ暗だ。嗚呼、気づけばこの山もすっぽりと暮れかかっている。
 下五の「に・けり」は完了・過去だが、中七の「より」から、自然薯の穴と山の暮れてゆく早さは、前者のほうが僅かにはやいとわかる。実際は、万物に平等に日は暮れるのだが、自然薯の穴「より」、山全体が暮れるとみたのである。収穫後の土の穴は当然ながら、他のどの場所よりも暗いのだが、それを発見したことを契機に、時間の流れは主観によって決定されたのである。本句の刮目すべき点は、その主観時間の妙である。
 そして、”じねんじょ”の音の調べ、ぽっかりと闇をつくる「穴」、薄暮の一山、それぞれの醸し出す、やや暗い情趣は、農夫と自然との土にまみれた歴史を立ち上げる。一方で、謹厳実直な山村の暮らしが、優しい空気感として肌に感じられるようである。

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