【随筆】加藤楸邨(かとうしゅうそん)句の鑑賞
今回は、短詩型文学を主に扱う飯塚書店出版の『加藤楸邨の一〇〇句を読む』石寒太著をもとに、楸邨句を鑑賞していきたいと思う。
楸邨は苦学の生活のなか短歌や俳句とであい、造詣を深めていった。啄木や茂吉、白秋を学び、俳句では村上鬼城に〇✕の添削をうけていたそうだ。その後、水原秋櫻子との縁を得て、師事することとなる。
「船戸」の前書きがあり、江戸川と大利根川の間の船宿だそうだ。深い雪に沈みながら一歩一歩進んでいくと、船戸の河畔で船をみたという句である。苦労しながら歩む作者と、雪原を大きく割る大河をゆるゆると下ってゆく船。静謐で美しい大景だ。
以下、私の好みの句をいくつか紹介していきたいと思う。解釈は私個人の感想であるためご参考程度にお読みくだされば幸いである。
螇蚸の読みは、”バッタ”でも”はたはた”のどちらでもよいそうだ。楸邨自身がそのように言ったそうだが、五七五音に収めるには”バッタ”である。私は”はたはた”の読み方は初めて知った。現代人には馴染みない読み方だが、皆様はどちらが好みだろうか。
螇蚸の跳ぶ瞬間をとらえた句で、じっとしていて急に跳ねる様を”しづかなる力満ちゆき”と格調高く美しく表現している。
砂漠の大きな夕焼。遠く山脈の雲からは、駱駝があふれるようにやってくる。自然の厳しさを背景に、そこに生きるものたちの強さがみえるようだ。あふれるように来る駱駝は迫力がある。
私は平山郁夫の画を思い出してしまった。それはあふれ来るような景ではないかいもしれないが、共通する美しさがあるように思う。
蜘蛛が夜々に、その体を大きく大きく…肥大化させてゆく。とうとう月と重なり、八本の蠢く脚でまたがろうとするかのようだ。
煌々と月を背景に、不気味な蜘蛛の陰影。コガネグモだろうか。梁からぶらさがる蜘蛛をじっとみていると、どんどん大きくなっていくような錯覚に陥る。私は少年時代に林間学校で似た経験をしているから強く共感できる。電球に巣があるらしく、降りたり上ったりを繰り返していた。一睡もできないほど怖かった。おそろしくも美しい蜘蛛の魅力を感じる一句だ。
和訳すると「ブルータス!お前もか」である。冬虹の消えやすさとどう結びついてくるのか。石寒太氏の鑑賞をみてみよう。
Thou Too Brutus!と強く言い放ったあと、冬、凍てつく枯野にかかる虹は消えやすいという実感が淋しく悲しい。
本句は専門家のなかでも意見のわかれる、解釈の難しい句である。”真紅の手毬”を心臓や太陽と捉える人もいる。石寒太氏の引用する矢島渚男氏の評によれば、助詞”に”の用法は曖昧だが、軽い切れと考えて、ふくろうは背景(鳴き声だけが聞こえている)、室内で子どもが真紅の手毬をついているという理解だ。たしかに、自然な解釈である。毬つきのリズムは、ホゥホゥと鳴き声と共鳴しているかのようだ。
以上、本稿はここで終わりなのだが、最後に、楸邨の有名な句を掲載しておこうと思う。どれも、ウェブ上で多くの方々が解説していると思われるため、ご興味のあるかたはお調べくだされば幸いである(もしくは、コメント欄にてお聞きくだされば、私のわかる範囲でお伝えできればと思う)。